第9話 ケムリを喰らう

 洗濯物を干そうとベランダを覗き見た時だった。

 白いケムリがたなびきながら流れ込んでくるのが目に入る。

 そちらの方へ視線を向けると、ベランダから身を乗り出すようにして夜の街を眺めている隣の部屋の住人がいた。


 木井きいさんの旦那さんだ。

 下の名前は知らない。


 年は三十代の半ばって聞いたんだっけ。

 背の高い彼は体を丸めて外気を遮るようにしてケムリを抱え込もうとしていた。


 ――ああ、部屋で吸うのを禁止されているんだ。


 木井さんの様子を見てすぐにわかった。

 彼はほんのわずかなケムリでさえ惜しいようで、ケムリを追ってこちらのベランダへ身を乗り出してくる。


「こんばんは」


 私は偶然を装って洗濯物を抱えたままベランダに出た。


香塚こうづかさん。こんばんは」


 木井さんはこちらに身を乗り出したまま大きく口を開けると、ぱくり、とケムリを口に含んだ。

 喉を大きく動かしてケムリを飲み下す。

 至福、とでも言うかのようにメガネの奥の瞳を細め、とろけるような笑みを浮かべている。


「寒くないですか?」

「ええ。もう四月も半ばですし」


 柔和な笑みを浮かべながら応対してくれる木井さんだけれど、メガネの奥には獲物を狙うような鋭い目がある。

 木井さんはしばらくの間ケムリを追いかけては呑み込んでいた。


「そういえば、聞きましたよ。今月から図書館で働かれているとか」

「えっ……」


 私は一瞬返答に詰まってしまった。

 先月、図書館への異動を通知する辞令を受け取ってから伏木分室が図書館ではないことを知るまでの間に喜びのあまりいろいろな人に自慢して回ってしまったせいだ。

 たしか、その中にはゴミ捨ての時に顔を合わせた木井さんの奥さんもいた気がする。


「い、一応図書館の分室って扱いなんですけど、一般公開はしてないところらしくって……」

「そうなんですか? でも、香塚さんは先月までより生き生きしてる気がしますよ」


 それはその通り……なのかな?

 まだ十日くらいしか働いていないけれど、これまで生きてきて見たことがなかったようなモノをいくつも見ているおかげか毎日が楽しい。

 伏木分室のみんなも優しいし。


 来年にはきちんとした図書室で働けるんです、という話をするかどうか迷ったけれど、まだ確信はないし今回みたいな目に遭っても困るので今は黙っておくことにした。


「まあまあ、与えられた仕事が思っていたものと違ったって、それが案外合っていることもありますからね。この世界は楽しんだ者勝ちですよ」


 うんうん、と自分でうなずきながら話す木井さんは、それでも正確にケムリを捕え続けていた。

 木井さんの執念深さにはちょっと引いてしまいそうになるけれど、話してくれる内容は本当にためになる。


「そういえば、香塚さんはどうしてベランダに? 晩酌ですか?」

「あ、いえ。洗濯物を干しに」

「! それはすみません」


 洗濯物が入った大きなバスケットを抱えていたのに木井さんは今の今まで気付かなかったらしい。

 視野が広いんだか狭いんだかわからない人だ。

 でも……――


「ありがとうございます」

「えっ? なんのお礼ですか!? もしかして僕が吸い終わらないから怒ってます??」

「違いますよ。

 私、配属先が想像してた図書館と違うって聞いた時すごくショックだったんです。でも、木井さんと話したらちょっと気が楽になりました。楽しんだ者勝ち、なんですね」

「そうです、そうです。楽しんだって苦しんだって働かなきゃいけないことに変わりはないんですから。楽しんだ方がいいに決まってるじゃないですか」


 木井さんが言い終えるのとほぼ同時に、燃え尽きた線香の灰がはらりと崩れ落ちた。

 彼は名残惜しそうに最後のケムリを口に閉じ込めると、軽く会釈をして飴を舐める時のようにケムリを口の中で転がしながら自分の部屋へと帰っていった。


 その背中に私は深めに頭を下げる。

 ちょっと強いお守りをもらったような気分だ。


 木井さんがベランダの窓を閉めた音を聞き届けてから頭を上げ、私は線香の香りが残るベランダで洗濯物を干した。

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