第3話 怪奇レポート001.雲間に現れた二つの目・弐
人目をはばからずワアワア声を上げて泣いたのはいつぶりだろう。
泣いているうちにだんだん気持ちが落ち着いてきて、真藤くんたちが心配そうに私を見ていることに気が付いた。
「ず、
ぐずつく鼻をすすって、ハンカチで顔を拭う。
泣きすぎたせいか頭の芯がズキンと痛んだ。
「奥に化粧室があるから使ってちょうだい」
小津骨さんに促され、廊下に出る。
火照った顔に触れるひんやりとした空気が気持ちよかった。
公民館の奥にあったのは化粧室とは名ばかりの申し訳程度の洗面所だった。
そこの鏡に映った私は、マスカラもファンデーションも剥がれてもうボロボロで、目も鼻も真っ赤に腫れていた。
まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったから、化粧ポーチには必要最低限しか物が入っていない。
とりあえず目の下にこびりついたマスカラを落として、ファンデーションとチークを重ねて誤魔化す。
予備として持ち歩いている残量の少ないマスカラを使ってアイメイクもどうにか誤魔化して。
口元はマスクで隠してしまえばわからないでしょう!
ボロボロの顔と格闘すること十五分。
どうにか直視に耐える状態にまで復旧させることができたのでみんなのいる部屋に戻ろうと廊下に出た。
その瞬間だった。
「カツラダァァァァ!!!」
突如響き渡る怒声。
私は驚いて、反射的に一度開けたドアを閉めてしまった。
「アンタってば何も教えないであの子を寄こしたの!? 可哀想にずいぶんショック受けてたわよ?
前にも同じようなことやって怒られてるんでしょ!?」
小津骨さんの声だ。
誰かに電話をかけているらしい。
カツラダと聞いて思い浮かぶのは町役場で人事部長をしていた桂田部長だけど……。
部長は来年で定年を迎える古株。それに比べて小津骨さんはどう見ても三十代後半から四十代くらいだ。
常識的に考えて、あんな横暴な口をきける相手ではない。
「とにかく! 彼女はうちで預かりますから!」
その言葉を最後に小津骨さんの声は聞こえなくなった。
私は心の中でゆっくりと十数えてから化粧室のドアを開けた。
大丈夫だ。小津骨さんの姿はない。
そのまま何食わぬ顔で事務所に戻ると、結城ちゃんが温かいお茶を持ってきてくれた。
「香塚さん、ちょっといいかしら?」
小津骨さんが手招きで私を呼ぶ。
さっきの電話を立ち聞きしていたのがバレたんだろうか?
ちょっと気まずくなりながら、小津骨さんの席に向かった。
「ごめんなさいね。まさか部長からちゃんと話がないまま異動になってたなんて知らなかったの」
部長?
ってことはさっきの電話はやっぱり……?
「あ、いえ。ちゃんと確認しないで浮かれてた私も悪かったんです……」
「来年の人事会議で部長から香塚さんのことを図書館配属にするように推薦してもらえるように話をつけるから。だから、一年だけここで働いてもらえない?」
「えっ?」
図書館に推薦?
小津骨さんの申し出の意味を理解するまでたっぷり一分はかかったと思う。
「うちも立ち上がったばかりで人手が足りないのよ。申し訳ないけれど、一年だけ。一年でいいから」
再度懇願されて、私は首を縦に振った。
今ここの仕事をやめたって、この時期からじゃ再就職先を探すのも大変そうだ。
図書館狙いならなおさら。
それならこの申し出を受け入れて来年度からの図書館勤務を確約してもらった方がいいことは明白だ。
ただひとつ、気になることがある。
「……本当にそんなことできるんですか?」
桂田部長は長いこと人事部長を務めているからか、ちょっと意地悪で一筋縄ではいかないような人だ。
仮に推薦の約束を取り付けても、次の人事会議の頃には忘れて反故にされる可能性が十二分にある。
私がそれを指摘すると、小津骨さんは眉間を押さえながら小さく肩を震わせた。
「アイツったらこんな若い子にまで本性見抜かれて信用なくしちゃってんだ。
でも安心して。今回は何があっても約束を守らせるから。
……なんて今日知り合ったばかりのオバサンに言われても信用できないわよね」
そう零して考え込むような素振りを見せる小津骨さんに私は答えた。
「一年間、よろしくお願いします!」
「そうよねぇ……。わかるわ~。……って、え!?」
大きく目を見開いた小津骨さんに向けて深く頭を下げる。
「本当に? 無理してない? 嫌なら嫌って言っていいのよ??」
小津骨さんは私が泣き出してしまった時以上に慌てた様子で問い掛けてくれる。
それを見ていたらこの人は本当に信用しても大丈夫なんじゃないかと思えた。
「よろしくお願いします」
改めて頭を下げる。
すると、小津骨さんも安心したように笑顔を見せてくれた。
「よろしくね、香塚さん」
小津骨さんと話し終えて振り返ると、結城ちゃんが嬉しそうに私を見つめていた。
「ところで、小津骨さんって一体何者なんですか?」
「何者って?」
「人事部長に約束を取り付けるって言ってたじゃないですか。
私の問いかけに、小津骨さんはふふっと上品に笑った。
「そんな、大したことじゃないわよ。ちょっと古い知り合いってだけ」
それにわたしって嫌われてるから。
だからこんなよくわからない所に飛ばされたのよ。
小津骨さんは自嘲気味に呟く。
その言葉に私はドキリとした。
――小津骨さんだってここに来たくて来たわけじゃないんだ。もしかしたら結城ちゃんや真藤くんだって……。
私の思考を遮ったのは、けたたましく鳴り響いたチャイムの音だった。
「うそ!? もうこんな時間?」
目を向けた先の壁掛け時計が示す時刻は午後五時。
体感では一時間くらいしか経っていないような感覚だったからすごく不思議な気分だ。
「こんなに遅くまで引き止めちゃってごめんなさいね」
「いいえ! 今日はなんだかあっという間で。それだけ楽しかったっていうことだと思います!
お騒がせしてしまってすみませんでした」
「いいのいいの。そのことは気にしないで。
さ、みんな帰りましょ」
小津骨さんの号令でフロアの照明が消える。
薄暗くなった部屋を夕日が赤く染めていた。
明日から、私はここの一員になるんだ。
来年の推薦を約束してもらったのだから、精一杯働くことで応えよう。決意を胸に私は公民館を出た。
「あれ、変な雲だ」
先に外に出た結城ちゃんが夕焼け空を指さす。
そこには小学生が描いたみたいな妙にのっぺりとした雲が浮かんでいた。
のっぺりとした雲は周りの小さな雲が風に流されていく中で、我関せずといった風に同じ位置に留まり続けている。
地震か何かの前兆だろうか?
なんて考えながら雲から目を離せずにいると、雲にゆっくりと亀裂が入り始めた。
みるみるうちに亀裂は広がり、今にも雲が分断されそうだと思った瞬間。
目が合ってしまった。
雲の奥にいる
亀裂は無数に広がり、何十という目が私たちを見つめていた。
どれほどの時間が流れただろう。
恐怖で声も出せずに固まっていると突風が吹いた。
風で舞い上がった砂ぼこりが顔に打ち付ける。
その瞬間、私は思わず目を閉じてしまっていた。
「き、消えたっス!」
真藤くんの言葉を聞いて目を開けると、あの不気味な眼球たちはのっぺりとした雲ごとすっかりと姿を消していた。
「うわぁぁぁぁぁ! 最悪っスー! せっかく書いた怪奇レポートが書き直しっスー!」
絶望的な声を上げて真藤くんは膝から崩れ落ちた。
けれど、それに応える人は誰もいない。
私たちは目の前で起こった怪奇現象に圧倒され、これからゆっくりと時間をかけてそれらと向き合っていかねばならないのだと、まざまざと思い知らされた。
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