オドラデク拾った

泡森なつ

オドラデク拾った

「話って、なんだい」

 その居酒屋の椅子は脚の底が擦り切っており、引くたびにけたたましい音を響かせていた。そこにどっ、と腰かけながら、同僚の男が俺にさらりと俺に尋ねた。

「金に困ってるのかい、それとも好きな人が出来たのかい。そんな深刻そうな面もちでさ……」

でもあるんだけど、しかし違うんだ。ただ深刻であることは確かだよ」

 それならば、と同僚は襟を正して前のめりに肘をついた。彼なりの、真面目な話を聞く時の動作だ。

「とにかく、真剣な話なんだ。君からしたら笑いごとになるかもしれない。少し聞いただけじゃ事の重大さは伝わらないし、この気苦労も全て話し終えるまで理解できないだろう。とにかく友として、笑わずに、しっかりと聞いてほしいんだ」

「なんだなんだ。随分念押しするじゃないか。いいだろう、そこまで言うなら口出しはしない。さぁ、話してくれたまえ」

 同僚の親切に応え、俺は軽く咳払いをした。そして手元に置かれた冷水を喉に流し込んでから、ようやく口を切った。


「オドラデク拾ったんだ」



「それは俺の住むアパートの、階段の手すりに住み着いていた」

「ほう」


 首には縄を、そしてその縄が伸びている先は階段の手すりに括りつけてあった。寒い冬の中、それはまるで主人の帰りを待つ犬のような佇まい。俺がそこで見たのは、間違いなくだった。仕事帰りに見かけたその姿は、なんとも近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 しかしそこは俺の帰る先なので、仕方なく、恐る恐る尋ねる。

「君、名前は?」

「オドラデク」

「家は?」

「住所不定」

 続いて「一体何をしているのか」と問うたが、それだけはケタケタと肺のないような渇いた笑い声を出すだけだった。

 だが、何をしているのか改めて問うまでもないことだった。彼は誰からどう見たって、今まさにその縄で自殺しようというていにしか見えなかったのだから。

「えへっ、えへ。ダメかなぁ」

「ダメだろう、普通」

「拾ってくれないかな、

「…………」

 少しの沈黙で返した。そうすれば諦めて、自ら立ち去ってくれると思ったからだ。

 しかしその青年、オドラデクは以前ニコニコと笑っていた。寒さによって唇が紫がかっていたが、その弱弱しさがかえって彼の色気を際立たせていた。

「明日も早いから、退いてくれないか」

「あぁ」

 分かっているのか分かっていないのか。手ごたえの無い返事をしてオドラデクはそこから退散した。

 次の日もオドラデクはそこに居た。服装は昨日と変わらず、アパートの階段に座り込んで俺の帰りを待っていた。

 俺は初めてそいつをまじまじと見た。見られているのを気恥ずかしそうにして、オドラデクは俺に尋ねる。

「拾ってくれないかな。お兄さん」

「…………」

 首の縄は相変わらず階段の手すりに括り付けられており、いつでもそれを以って自殺を決行しそうな風だった。俺の怪訝そうな顔をよそに、縄の余った部分を指に巻き付け、くるくると弄ぶ姿はなんとも言えない。憐みと興味によって搔き乱された俺の情緒は、やがて彼の縄を手すりから解かせる程に、ぐちゃぐちゃになってしまった。

 オドラデクは俺をゆっくり見上げて「いいの?」と声も無く尋ねた。俺は特に頷かず、思いの外あっさり解けてしまった縄を奴に投げ渡すと、咳払いをしてその視線に答えるのだった。


「拾っちまったのかい」

「……良心の呵責ってやつさ。寒空の下だぞ、あの弱った姿を見たら誰でも心くすぐられるものだ」


 拾われてすぐのオドラデクは落ち着きがなかった。申し訳なさそうに床へと腰を落として、奴は尋ねた。

「一人で住んでるの?」

「そりゃあね。一人寂しくボロアパート暮らしだよ」

 まだ社会人〇年目だからね、と付け加えたが、それについては興味を示さなかった。

「彼女は居るの?」

「何をニヤニヤと……居ないよ。出会いも無いね」

「ふ~~ん」

 オドラデクが何を意図して尋ねたのか分からなかったが、その後も他愛のない会話が続いた。仕事の話。生活の話。好き嫌いや趣味、好きな異性のタイプの話など。仕事以外で初対面の人間と話すのは久しぶりだったので、俺にとっては良い時間つぶしになった。その後、談笑は深夜まで続いた。

 以下、奴について分かったことだ。自称「オドラデク」。本名は不明。年齢も明かさなかったが見たところ二十代前半だろうことは分かる。顔はなかなかに整っており、着るものによっては女に見紛うこともあるかもしれない。やけに細っこくて、押せば簡単に倒れそうなのが心配だった。現在は無職で、時折食いつなぐために日雇いのバイトをしていたらしい。家族は居るが音信不通で、おそらく見限られて縁を切られているんだと奴はケタケタ笑って話していた。住むところは無く、食べ物の好き嫌いもない。食い物の中では甘いもの、しょっぱいものが好きらしく、菓子を食いながら映画を見るのが趣味だ。好きな異性のタイプは面倒見の良い女の子。なまじ顔が良いからこれまで女の子が面倒を見てくれて、それで生活は困らなかったらしい。しかし何人にも見限られてしまい、いよいよ後がなくなって路頭に迷っていたのだと現状を話してくれた。……とにかく、奴は言動の節々から「ヒモ男」という言葉を想起してしまうほど、だらしなく、無気力で、どうしようもない人間だった。


「とんでもない奴を拾ったな」

「良心の呵責ってやつさ」

「それだけじゃ足りないだろう。どんだけ善人なんだ、君は」

「まあ……確かにそれだけじゃない。暇だったんだ、その実ね」


 オドラデクとの共同生活が続いて十日程。俺はその間、奴に俺なりの生活のルールを押し付けて、とりあえずの共存を図った。奴は先述の通り呆れるほどにだらしなかったが、それでも言いつけはきちんと守る利口な性格だった。

 一日中家に居ることもあるが、ふらっと外に出てはコンビニ袋をぶら下げて帰ってくる。たまに、パチンコの景品と思しき菓子だけを持って帰る時もある。女ものの香水の匂いがする時もあったし、服装がいつものみすぼらしいスウェットと違って卸したてのジャケットだったこともあった。

 拾われた身で、一体どこにそれを用意する金があるのか。俺は一度問い詰めたことがあった。すると奴は堂々としてこう言うんだ。

「お金をくれる人がいる」

「誰だ、そいつ。借金じゃないだろうな」

「はは、違うよ。んだって」

「ヒモの女はもう居ないはずじゃ? 見限られたんだろ」

「あぁ……はは」

 オドラデクは縄をくるくると指に絡めて答えた。誤魔化しが効かなさそうで手持無沙汰な指先を弄んでいたが、その自信なさげな様子が少し不安だった。

 しかしまあ、例えこいつに何かあって俺に迷惑が降りかかったとしても、その時は容赦なく捨ててしまえばいいのだから。俺は心の中でそう決心して、ひとまずの追求は止めることにした。


「ああっ、金に困ってるっていうのはそのオドラデクのお世話代のことだったのか!」

「いいや違うね。早合点は良くないよ、まだまだ続きがあるんだから」

 同僚はすうっ、と肩を落として、再び俺の話を聞く姿勢に入った。途中、居酒屋のメニューを開いては閉じてを繰り返しながら。


 ある日……オドラデクが厄介ごとを持ち込んできた。仕事が早帰りだったその日は、夕刻前に家へ帰ることができた。

 オドラデクの奴が平日のこの時間に何をしているのか。気になりながら玄関の戸を開けると、そこに居たのは奴と、奴に身体を重ねる女の姿だった。

「おい、何をしてるんだ」

「お兄さんっ、ごめん、なさい……」

「ごめんなさいじゃないだろ!」

 行為に及んでどのくらい経っていたのか。俺がどのタイミングで入ってきてしまったのかなんてどうでもいい。とにかく俺は怒鳴って女の方を追い出し、独特の匂いが充満する部屋を換気する為に窓を思いきり開けた。

「どういうつもりだ。ここはお前の家じゃないんだぞ」

「ごめん、ごめん……」

「どういう関係なんだ、さっきの女性は。ヒモか?」

「…………」

 オドラデクが俺を見上げるだけ見上げて、その後は何も言おうとしなかった。その時の俺は少しだけ気が立っていたから、奴の沈黙が鼻について、それが表情に出てしまったんだろう。そんな怒り気味の俺の顔を窺って、奴は胸元を見せながらへらへら笑って尋ねてきた。

「お兄さんも、気になる?」

「どういう意味で聞いてるんだ」

「俺、。お兄さんがこれで許してくれるんだったら、俺はかまわない」

 奴のいまいち要領を得ない発言に一時は戸惑ったが、俺は自身が想像以上に腹の底から怒っていることに気が付いて、そこでようやく奴の意図を汲み取ることができた。

 そして俺がどう言葉を返すべきか迷っている間に、アイツは座り込んだまま俺の脚元に擦り寄って、俺を見上げて囁いたんだ。

「……いいよ」


「えぇ、いいのかぁ?」

「ああ、こんな長い話を聞いてくれているんだから、俺が奢るよ。好きなものを食べて良い」

「でも、金に困っているんだろう」

「金については、今はもう困っていないんだ。問題はとりあえず解決しているから……」

「? そうかい」

 同僚は怪訝そうにメニューを開いて、一瞥した。

「まずは生、焼き鳥……いや、唐揚げ、チャンジャ――って」

「どうしたんだい」

「それよりも、その後オドラデクとどうなったんだよ! その……寝たのか?」

 一呼吸置いて辺りに人がそれほどいないのを確認してから、しかしそれでも用心して、俺は小声で答えた。

「……実を言うと、。正直後悔している。あんな疫病神、あの時すぐに見限って追い出せば良かったんだ」


 その日の晩は退屈しなかった。その次の日の晩も退屈しなかった。次に土曜日が訪れた時には、その日一日俺とオドラデクが家から出ることはなかった。その時に分かったことだが、奴にも独特のルールというものがあって、必ず行為に及ぶときはカーテンを締め切り、部屋の電気を消してお互いの姿を見えないようにしたいのだという。そういう性癖なのかと最初は合点がいったが、先に話した奴のヒモらしき女とはそのようなことをしていなかったので、その点はあまり腑に落ちなかった。

 日曜日の早朝に、初めて二人で一緒に外へ出た。と言っても近くのコンビニまで行き、酒と適当な菓子を買うだけだった。家に帰ってサブスクリプションサービスの映画を眺めながら、二人でだらしない日曜日を過ごした。

 奴との関係が更新されたことで、俺の生活が一遍した。仕事も多少やる気になったし、家に帰るのが少し楽しみになった。華やいだ生活ではないが、言うなればコントラストがほんの一段階上がったような、そのくらいの充実感だった。

 いつしかオドラデクとの生活は半年以上続いた。その頃の季節は真夏で、湿気が頭の中を虐めてくるので気が変になりそうだった。俺がそうなのだから、その時のオドラデクが落ち着きもなくそわそわしていたのも、きっとそういうものの前触れなんだろう、と始めは気にしなかったんだが……。


 端的に言おう。オドラデクは俺の見えない所でのだ。


 泣きながら縄を首に括り付けて、家の中で縄が引っ掛かりそうな高い位置を探していた。でも、案外そういう物は見つからないもので、俺が仕事から帰って来た時には、奴はまだ死ぬことができずに、身を丸めて咽び泣くだけの矮小な生き物になっていた。

 正直、この時点で俺は強く後悔していた。俺はなんて奴を拾ったんだと。でもそれと同時に酷く愛らしくも感じていて、「出来るならば俺が救ってやりたい」とそんなことを考えていた。

「お兄さん、お兄さん、俺、死にたくない」

「だったら縄を取るんだ。ロクなもんじゃないぞ、自殺なんて」

「でも、俺、どうすれば……」

 奴が一体何と何との狭間で揺れて、こんなことになっているのか。その時の俺には皆目見当もつかなかった。ただ奴の頭と背と腰を撫でて、気のすむまで様々な介抱を施してやった。

 だが、オドラデクの狂気沙汰きょうきざたはこれだけに留まらなかった。次に奴の病的な行いを見た時、その矛先は俺にも向いていたのだ。

「こうするしかないっ、もうこれしかない気がするんだ」

「落ち着けよ。話を聞くから、包丁それを降ろすんだ」

「だって、聞いたら幻滅する、嫌いになる……」

 十分か、三十分か。あるいはもっと――しばらく張り詰めていた空気の中、俺は慎重に言葉を選んで対話を進め、奴をなだめた。なんとか奴の手から包丁を離すことが出来たが、結局何を思って俺との心中を図ろうとしたのか、その事情は分からずじまいだった。


「と、とんでもない話になってきたな」

 同僚は脂汗をじわじわと流して俺の話を聞いていた。そこまで話が上手い自信は無かったが、彼はひたすら真剣になって俺の話に聞き入っていたようだ。

「俺が以前休み気味だったことは知ってるよな」

「そりゃあ。皆勤賞の君が唐突に何日も休むものだから、あの時は皆心配していたんだ……あ、もしかしてオドラデクの面倒を見る為に休んでたのか」

「今回は正解だ。目を離した隙にいきなり死なれちゃ困るからな……一か月近くは休んでたかな」

「その間、どうなったんだ? 結局何が理由で死にたがっていたんだ? いや、死にたいなんて感情は誰にでもあるものだから、探ること自体おこがましいことかもしれないが」

「君の言う通りだ。俺だって奴の衝動が突発的な希死念慮の一つだと思っていた。でも、違ったんだよ」

「詳しく聞かせてくれ」

「この話をする前に、この話題を出す必要があるな……」

「なんだい」

「まず――最近だろ?」


 俺はあの後、数日かけてオドラデクを慰めた。そしてもう数日かけて俺達の仲を修復した。奴が自殺を図らないよう刃物の類や縄は押し入れの分かりにくい所に隠した。その後は何かを取り戻すようにして、最初の時みたいに濃密な夜を過ごした日もあったし、だらしなく映画を見て、互いに意見を言い合うだけの日もあった。

 拾った俺と拾われた奴……。しかし半年も経てばその間柄は限りなく対等で、掛け値なしの愛情が芽生えるようになっていたのだ。ある時、録画してあった年末特番のお笑い番組を今更ながらに鑑賞していた時のことだ。唐突に、何ヶ月か前の同性婚の合法化を思い出したのか、奴がそれについての話題を俺に振ってきた。

「お兄さんは、結婚とか興味あるの」

「藪から棒に……。俺には結婚する相手もいないだろ」

「恋人とか」

「それは――お前が居るから」

 これには、お前が居るから恋人ができないのだぞと責め立てる意味を込めていた。この時オドラデクがどう意図を汲み取ったのかは分からない。しかし奴はなまめかしく笑って俺を見つめ直すと、しばらくしてこう返した。

「結婚しようよ」

 扇風機のチープな風がそよいで、奴の胸元を帆のようにたゆませる。ときおり見える素肌は初めて会った時より健康的で、より中性に近い見た目になっていた。

 目のやり場に困ってようやく、その瞳を見た。奴の方は捕らえるように俺を見て、離さない。

 俺は「いいのか」と声も無く尋ねた。奴は特に頷かず、誤魔化すような咳払いでその視線に答えた。いつしかこれが、俺達の合意の合図になっていたようだ。

 それからは二人で色々な計画を練った。俺の貯金額を確認して、とりあえず住む場所を変えようという目的が出来た。二階建ての一軒家が好ましい。トイレと風呂は当然分かれていて、湯舟が大きいと尚のことよい。俺は車を持ちたかったから車庫がある物件が良かった。オドラデクの方は車に興味は無かったが、俺と一緒に旅行へ行きたいからと快く賛同してくれた。


「い、いい話じゃないかぁ」

「何をひきつってるんだ。まあ、確かにここまでは良い話だよ。アイツの希死念慮が何のためか分からない内は、俺との生活に進展がなかったのが不安だったのなら納得がいくな、と思っていたんだ。最初はね――でもね、これはそんな単純な話じゃないんだよ」

「そりゃそうだろうな……なんたってオドラデクはんだから」

「……何を以ってそう断言してくれているのかは分からないけど、きっとそうなのだろうね。オドラデクはそんなことに不安がるような奴じゃない。だからこそ、後にこんなことが起きてしまったのだから」


 オドラデクは俺の貯金額を知っていた。社会人になって〇年目で、大した趣味もなく過ごしていた俺だから、奴にとってもそれなりの額だったのだろう。

 もし魔が差しただけなら、きつく叱るだけで済んでいた。そこに計画性が無ければ、俺は可愛いものだと思って見過ごしていた。でもそれが起こったのはあまりにも鮮やかで、手際よく、抜け目なく、計画的で、瞬き一つの間と言っても良いくらいの出来事だったんだ。

 ある日、オドラデクは俺の金を持って逃げてしまったのだ。どうやって探ったか、クレジットカードとその口座情報を手にして。ただ、かつて奴を縛っていた縄だけは押し入れの中にあった。きっと忘れていったのだろう。始めはこんなものどうすればいいんだ、とも思ったが――やがて俺は神様から正解を提示されているような気がして、その固く結ばれた縄の正しい使い道を思い出した。

 本当に、本気だったんだ。オドラデクと俺は本気で愛し合っていて、時代に迎合された新しい愛の形がここにはあったのだと俺は信じていた。奴に裏切られた後の俺には、その縄を以ってして自殺を試みることしか選択肢が無かった。縄を首に括り付けて、どこか引っ掛けるところはないかと立ち尽くしている内に、玄関の扉がゆっくりと開かれた。

「お、お兄さん、それ……」

「オドラデク……今更何しに戻ってきた」

 奴は、再び戻ってきた。悪びれた様子ではあったが、目的は恐らくこの縄だろう、と奴の視線から察しがついた。

「忘れ物か?」

「えっと、その」

「何のためにこんなことを」

「俺、飼われてて、ほら、同性婚が認められたから、新しい結婚詐欺だって、や、ヤクザの人に、俺脅されてて」

 要領を得ない言い訳に、俺はとうとう怒髪を露わにしてしまった。玄関先だったが、奴が逃げ出す前に手を引いて、服を脱がせた。いつもは暗闇の中でしか知らない柳腰りゅうようの体つき。薄暗がりの中でぼんやりと見た、その肌の白さに改めて惚けながら、しかし「最後に憎しみと同時に劣情も晴らしてやろう」と、俺は奴をなぶることを決意した。そして、逃げられぬように自身の首に括り付けてある縄の一方を奴の首にも括り付けた。互いの首を縄で繋げた俺達は名実ともに対等になった訳だ。だのに互いに見つめ合うことはせず、奴の方は背を向けて「ごめんなさい」と謝るばかりである。

「謝るなら、最初からこんなことしなければよかったんだ! 拾われるのを待って、俺を誘惑しやがって!」

「ごめんなさい……!」

「自殺衝動に俺を巻き込んで、挙句金を奪いやがって! お前は一体何がしたいんだ! 一体――」

 怒りに任せてその白い体を貪ろうと、俺が奴の背を凝視した瞬間。今まで気付きもしなかった事実を目の当たりにした。

「……お前、これ」

「本当なんだ、本当に、俺、ヤクザに脅されててっ……男騙して、金持ってくるようにって……」

 その背中は泣き声に呼応するように跳ねていた。小さくて細い、そんな奴の裏側に在ったのは、意匠の凄まじい、体温に応じて赤く火照った。まるで昼に花開き夜にその花弁を閉ざすようにして、弱弱しく、しかし誇らしげにその姿を見せていた。

 もしかして、奴の言い訳は全て真実だったのか? 縄を大事にしていたのはそれが飼い犬の証であるから?

 俺には分からない。それについては何も分からない。しかし奴が性行為の度に暗がりを強いてきたのには合点がいく。その背中に負った睡蓮の花が――それがもし奴の罪そのものを象徴していたのだとしたら、愛する男の前でそんなものを見せられるはずもないのだから。


 であれば、俺はヤクザの飼い犬を抱いていたのだった。



「お、オドラデクはどうなったんだ」

「君こそ、その滝汗はどうした? とにかく、奴はカードと口座情報を持たせて帰したよ。何も成果を得られずに帰れば殺されるって、眼がそう訴えていたからね。ただ、俺のそうした善意に応じてか、口座の金は全て抜き取られていなかった。だから、かなりの痛手ではあるけど、最終的に金には困っていないんだ。そもそも、俺はあんな不幸な人間を他に知らない。オドラデクは自堕落に生きてはいたが、それでも誰かに首輪をはめられてずっと生かされていたんだ。きっとそのヤクザに洗脳もされているだろう。縄を大事そうに抱えていたからね」

「ほ、ほんとうにそうなのかな」

「きっとそうさ。そうに決まってる。じゃなきゃ俺が奴を許せない」

「そうか。ああ、まあそうだよな。君も本当に災難だったね」

「君も気をつけろよ。とにかく俺の話の本題は、『君もオドラデクと名乗る美人な青年を見かけたら、決して家には入れるな』ということだ。今日はこの忠告をしたかった」

 その時同僚のジョッキをちらりと覗いたが、いつからかその量は全く減っていなかった。あんまり気の滅入る話をしてしまったので、すっかり飲む気も失せてしまったのかと申し訳なくなったが、直に、同僚の方から口を開いて尋ねた。

「あのさ、俺も話があるんだけど、いいかな」

 後ろめたそうなその顔を見て、俺は少しだけ推理をした。

「ははあ。さては金に困ってるのかい、そんな深刻そうな面持ちで……」

正直どっちでもあるんだけど、違うんだ。ただ深刻なのは確かだよ、君と同じでね」

 俺はそれならば、と彼にならって襟を正し、前のめりに肘をついて話を聞く姿勢に入った。

「笑わないでくれよ。真剣な話なんだ。でも、今の君なら一言聞けば事の重大さもこの気苦労もすぐに理解できるだろうから、とにかく冗談じゃないと思って、しっかりと聞いてほしいんだ。そしてどうするべきか助言が欲しい」

「俺じゃあるまいし、そこまでの念押しは必要ないだろ。さ、話してくれたまえ」

「実は最近……」




「オドラデク拾ったんだ」




・・・


「どうでもいいことだが、わたしはこう考えてみるのだ。これから先、やつはどうなるのだろう。死ぬことがあるのだろうか? 死ぬものはみな、あらかじめ何らかの目標を持ち、何らかのやることをかかえている。そして、そのためにあくせくする。だがオドラデクの場合、こういったことが当てはまらない。」――Franz Kafka『DIE SORGE DES HAUSVATERS(家のあるじとして気になること)』大久保ゆう訳 青空文庫より

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オドラデク拾った 泡森なつ @awamori

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