その7 『転落』
私は落っこちた。
幸せだった日々はこれで終わり。この時からだ。人の生とは、そしてこの世界とは、なんでこんなに理不尽なんだろうと考えるようになったのは。
――――――
「みんな……みんな」
混濁した意識。耳鳴りが止まらない。自分の発する声がこもって聞こえる。
遠くに聞こえるのは崩れる音。次第に晴れていく。クリアに音が聞こえる。
悲鳴、魔法が飛び交い、鉄がぶつかる。地獄の様が、そこにはあった。
私は、白く濁った視界であたりを見渡した。
薄暗い。足が痛い。すごく重い。背中にはあまりにも重い瓦礫が乗っかっていた。
「ジェーン、ナンシー……」
いつもなら駆けつけてくる。どんなに小さな声で呼んでも、どこからかともなく飛んでくる。今回もそのはずだ。絶対に助けに来てくれる。そう信じていた。
だが、違った。
「お、嬢様……」
ジェーンの声だ。消え入りそうな声で私のことを呼ぶ。
声の主は目の前。すぐ近くだった。
「ジェーン! たすけて! 足が痛いの!」
私は出せる声で必死に叫んだ。しかし、その声は囁き声にも劣るほど力なく、とても掠れていた。
瓦礫の隙間。黒髪が見える。炎が揺れ、彼女の輪郭が見えた。
「シィー……」
彼女は口に指を当てていた。喋ってはダメだと。
彼女の傷だらけの顔を炎が照らす。右目が潰れていた。
「ジェーン!」
呼吸音のような声であった。この時の私は、幼く、戦いが何かも知らない少女であった。だけど、この負傷の具合は分かった。絶望的だ。すでに、私の心は恐怖の底に突き落とされていた。
涙がぽろりと流れる。まるで土砂降りの前の小雨のようだ。飲み込めていなかった状況が、堰を切って押し寄せてくる。鼓動が早まり、まるでドラムロールのようだった。
息が上がり、肩が揺れる。体中が痙攣をするように震え、叫びたい気持ちでいっぱいになった。
「きゅぅぅぅぅ……」
だが、必死にこらえた。口を必死につむぎ、押し殺す。
たぶん、今は叫んではいけない状況だ。私は理解していた。瀕死の重傷を負ったジェーンが教えてくれたのだ。大声をあげたら命はない。
何かがどんどん壊れていく音がする。ガシャンガシャンと、鉄くずが地面に落ちる音であった。四方八方から聞こえてくる。この瓦礫の外では、とても激しい戦いが起こっているに違いない。頭を抱えて、じっとしておくほか無かった。
――おかあさま……!
助けて、助けて。そう頭の中で呟き続ける。何回も、何十回も、何百回も。
どれぐらいそれを続けていただろうか。辺りはいつの間にか静かになっていた。
――終わった?
頭に添えていた手をそっと外す。
いったい、外で何が起こっているのだろう。アレから、ずっと訳が分からない。
ヒューイの胸元から砲台が出てきて、真っ青な弾が天井を撃った。天井は崩れ、瓦礫が降り注ぐ。
母に手を握られ、必死に逃げる。だが、なんども放たれる魔法の砲弾からは逃れらなかった。衝撃によってそこら中の壁が崩れる。そこからだ、記憶がないのは。
どうにか、抜け出さなくちゃ。私は必死に身をよじる。
だが、足に走る鋭い痛み。それが一瞬にして体中を駆け巡り、気が飛びそうになる。
「はあ……はあ」
もう一度、足元を見やる。かなり大きい瓦礫だった。私のような小さな子供には、到底どうしようもできない。手を置いて試しに押し上げようとしても、かえって痛みが酷くなるだけだ。
助けを待つ。それしかできることはなかった。
幸い、動かなければあまり痛みはない。おそらく、潰された状態に慣れたのだろう。若干の鈍痛と重いものが乗っかっている不快感はあるが、無駄に動かして体力を消耗するより何倍もいい。
私は諦めるように床に顔を伏せる。
もう何も見たくない。聞きたくない。
瓦礫が崩れる音がする。耳を塞ぐ。
――なんでこんな目に。
何も悪いことはしていないはずだ。ただ、普通に楽しく暮らしただけ。美味しいご飯を食べに来ただけだ。人様に迷惑をかけた訳ではないのに、なぜ。
あまりにも理不尽だ。頬に涙がつたう。
「おかあさま……」
そう発した時だった。声が聞こえた。
「アレは?」
男の声だった。今までに聞いたことのない低い声。何かを被っているのか、少しくぐもった声でもあった。
「回収しました」
今度は高い声だ。だが、女のものではない。子供だ。男の子の声であった。
だが、やけに機械的な声である。抑揚がほとんどなく、まるでロボットのようだった。
「よくやった。やはり、お前は最高傑作のようだな。よくあの出来損ないのアンドロイド共を蹴散らしてくれた」
「私はただ命令をこなしただけです」
足音がこちらに近づいてくる。再び、鼓動が早くなる。
味方じゃない。私はそう確信していた。
「女だ」
少年がつぶやいた。
「生きてるか?」
「いえ、たぶん……」
うつぶせになったジェーンの腹に蹴りが入れられる。彼女の体は、まさしく抜け殻だった。ぴくりとも反応を示さず、ただひっくり返るのみ。少年が再びつぶやいた。
「死んでます」
私は思わず口を覆った。
さっきまで生きていたはずだ。だって、教えてくれたから。人差し指を口に当てて、静かにしなさいと。夜中の屋敷で、ひそひそ話をしたあの時のように。
――なんで……!
枯れた涙が再び溢れ出す。ポロポロと大粒の涙が地面に落ちた。
少年と謎の男が歩き出す。足音が離れていく。私の心は今にも叫びだそうとしていた。だけど、ここで感情に任せていてはジェーンの死が無駄になってしまう。搾りかすのような理性を総動員して声を押し殺す。地面に顔を擦りつけ、必死に耐える。地面がじめっと濡れていた。
ジェーンの遺言を守るんだ。絶対に死ぬわけにはいかない。この場を乗り越えて、絶対に――
しかし、現実は非情であった。
「クンクン」
少年が立ち止まったようだ。何かを感じ取ったかのように鼻を鳴らす。
「どうした?」
「いえ……なんだか」
少年の軽い足音が近づいてくる。彼は言った。
「生き物の匂いがします」
彼は、目の前にいた。
ゾクリ。悪寒が走る。
――バレた!? なんで!
思わず口を覆う手に力を込める。息の音すら漏らさないように、隙間なく抑える。
「まだ生き残りがいるのか?」
「たぶん。ここに一匹」
そう言って、少年はしゃがんだ。衣擦れの音がする。音がどんどん近づいてくる。私の心臓は今にも破裂しそうだった。ドクドクドクと、自らの鼓動の音が聞こえる。
――やめて! お願い!
少年の手が伸びる。私が身を隠すその瓦礫へと――
ガラリ!
「チュー!」
すぐ隣だった。土に塗れた小ネズミがどこかへ走り去っていく。
「すみません。どうやらネズミだったようです」
「しっかりしろ、最高傑作」
「すみません」
少年が立ち上がる。一瞬、何かが地面から持ち上げられたような音がした。だけど、ほんの些細な音。私は気にしていなかった。
それどころではなかったのだ。口から飛び出そうな心臓をしっかりと抑え込み、息を殺している。目は血走り、体は震えていた。
――たすかった……?
たぶんだが、バレていない。そんな声色だ。少年の声は、明らかに当たりを外したような、そんな落胆したような声だった。
大丈夫、大丈夫。何回もそう言い聞かせ、心を落ち着かせる。
――大丈夫。私は大丈夫。このまま気づかれないで、このまま逃げられる。大丈夫なんだから。
ほおと大きく息をつく。
やっと落ち着いた。鼓動もいつものスピードに戻り、汗もひいていく。
大丈夫、大丈夫。もう音はしない。あいつらはいなくなった。そのはずだ。
そうして私は前を向く。炎で照らされる瓦礫の隙間。さっきまでジェーンの体があったその空洞に目を向けた。
ひらひら。
手が振られている。男の物ではない。傷だらけではあるが、白魚のようなスラリとした指。爪はところどころ欠けているが、おそらく相当手入れがされていたのだろう。残っている部分は、まさに芸術品のように美しかった。
だが、少し青白かった。血の気がない。生気が抜けている。
ひらひらと振られ続けるその手。薬指には、何かが嵌められていた。
「あ……」
指輪。バラの形をした銀の指輪。見たことがある。
「ああ……!」
思い返せば、なんども見ていた。その手の平に何度撫でられたことか。手の暖かい感触は今でも覚えている。
「なんで!」
サーシアは声を殺すことを忘れていた。いつの間にか、叫び声が飛び出ていた。
「やっぱり」
少年の声は、若干笑っていた。
「おかあさまああああ!!!!」
その絶叫から逃げるように、彼女の手の平は視界から消えた。代わりに現れたもの。それはとても不気味で、私の脳裏に一生刻まれるものになった。
真っ赤な瞳。黒く塗られた瞳孔は、トカゲのように細長かった。
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