その4 『謎のシスター』

「おみずの……すとれーと……」


 あれから一時間。マスターに連れられ、シスターと呼ばれるその女は奥の部屋で横になっていた。


「はいはい、お冷ね」


 ポットからグラスに注ぎ、彼女に渡す。シスターは震える手でそれを掴むと、ゆっくりと口元に持っていき、少しずつ飲み込んだ。


「ゆっくりね~」


 マスターはのそのそと立ち上がると、私に目くばせをする。私は壁に身をもたれると、この酔っぱらいのシスターを睨みつけた。


「この人、ホントに依頼人?」

「ええ。あのカードを持ってるってことは、そうなんでしょうね」


 やはり、どこをどう見てもそうは思えない。ただの一般人だ。

 顔の赤みは若干引いたが、それでもまだ酔っているようで、半分寝ているような状態である。


 体を冷ますため、上着を軽く脱がせ素肌を露出させている。少しはだけた白い肌、汗で濡れて艶っぽく光る胸元……二十かそこらの若さなのだろうが、まるで熟れた女のような雰囲気を纏っていた。


「うっ……うぅん」

 

 救いを求めるように身をよじり、吐息交じりの声を出す。


――なんか……妙にエロくない?


「この人、カタギでしょ? そんな人に渡したの?」


 特別会員証は傭兵稼業の顧客の証だ。顧客同士の繋がりで一度バーに来店し、直接仕事の話を持ちかける。そして、次からはこれを使ってと、マスターが直接カードを渡すのだ。だから、カードを持つ人間は必ずマスターと面識があるはずである。


 本来の顧客なら、アレを渡した後にマスターから特別な一杯をもらい、バーの雰囲気をゆっくりと楽しむ。その後、奥の部屋で仕事の話をするのだが、この女は少し特殊だった。


「渡してないわよ。大体、初めて会ったし」


 マスターは動揺していた。明らかにというほどではない。むしろ一般的には、落ち着き払っているようにしか見えないだろう。だが私には分かる。彼女の瞳は僅かながら揺れていた。


「こんなこと、今までにあった?」

「いいえ、なかったわ。カードを他人に預ける、譲渡する行為は禁じているの。もし破ったら、その人はここを利用できなくなるしね」


 ここを利用できなくなる。それは、兵士を欲する者たち、いや戦いを支配しようとする者たちにとっては、致命的であった。


 マスターは各種族に跨り、幅広い傭兵ネットワークを形成している。彼女の一声でネットワークに属する兵士たちは動き、依頼人の味方にも敵にもなる。

 さらに、彼女はかなりの情報通だ。あらゆる場所の戦争や紛争、水面下での揉め合いでさえも、彼女は知っている。


 マスターが何者なのかは私自身も知らない。なぜなら、決まりがあるから。


『過去の詮索は禁止』


 彼女のネットワークに属する傭兵、全員に課せられたルール。私がここにいられる理由の一つでもある。


「カタギの人を巻き込まないため?」

「そっ。こんな血みどろな世界を見せられるわけないでしょ?」


 マスターは笑う。屈託のない笑顔だった。


「ふーん」 


 若干の不信感はあるものの、マスターの言うことなら納得できる。


「誰の? 名前、書いてないの?」


 私は、マスターの指に挟まれたカードに目を向けた。


 先ほど、彼女はこのカードの裏面を睨んでいた。十中八九、そこに名前が書いてあるはずだ。じゃないと、彼女にあそこまでの表情は出せないはず。あの、鬼が宿ったような緊迫した表情は。


 マスターは黙りこくっていた。


「ひ・み・つ」


 そう声に出し、口に人差し指を当てる。マスターはいたずらっ子のように笑うと、カードをズボンのポケットに仕舞った。


「教えちゃったら、それこそダメよ。ルールを破ったとしても、元はお客様。情報漏洩は三流のやることなんだから」

「ちぇ~」


 残念だ。なにか面白そうな感じがしたのに。

 マスターはそんな私を見てクスリと笑う。そして私の隣にある扉に向かって歩き出した。


「起きたら聞きましょ。今はゆっくりさせておいたほうが良さそう」

「はーい」


 マスターが扉を開け、私はその後をついていく。


――なんか、引っかかるなあ。


 アルコールに溺れた哀れな彼女を一瞥する。どこかで似たような匂いを感じたことがある。

 誰にかは分からないが、どこか懐かしさを覚える……そんな香りがした。

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