その3 『依頼人』
「ねえ、マスター」
頭の上を、暖かくも艶めかしいオレンジ色の光が照らしている。
年季が入っているが奇麗に磨かれた木製のカウンター、それに黒く光るカウンターチェア。とてもいい雰囲気。心地よく酔えそうだ。
「なに、サーちゃん」
カウンターでグラスを拭く男……もとい彼女は、ここのマスターである。
スラっとした長身に、紫色のぴっちりとしたシャツ、キラキラと光るサスペンダー、それとタイトな黒のパンツを身に着け、まつ毛はバチバチ。お化粧もしっかりとしており、黒い短髪はオールバックにしてガッチリと固めている。
カウンターの上にグラスを置く。溶けた氷がカランと音を鳴らした。
「オレンジの……ロックで」
「オレンジジュースね」
私がそう言うと、マスターはロックグラスを手に取り、用意していた丸氷をはめ込む。そして、手元からオレンジのボトルを取り出し、こぽこぽと注いだ。
「はい、お待ちどおさま」
「ん、ありがと」
グラスに手をかけ、軽く回す。
「芳醇な香り……」
鼻孔をくすぐる柑橘の匂い。目を閉じれば、目の前に広大なオレンジ畑が広がっているようだった。
「普通のオレンジだけどね」
グラスに口をつけ、小さく一口。ごくりと喉を鳴らす。
「のど越しも最高……」
「市販のだけどね」
グラスを置き、マスターを見つめる。溶けかけの丸氷を指でクルクルと回し、夕焼けのような美しい色の液体になじませる。ああ、最高だ。最高に大人な感じがする。
「ねえ、マスター」
私はそう、彼女に微笑みかけた。
「薄まっちゃうわよ」
再びグラスを掴み、今度はぐいっと一気に飲み込んだ。
この豪快な感覚も癖になる。空になったグラスをカウンターに叩きつけ、息を大きく吸い込む。そして、一言。
「たいくつ」
前回の仕事からすでに一か月が経っていた。その間は何もやることがなく、退屈しのぎに森の木を伐ったり、動物の狩りに出かけたりと色々やってきた。だけど、やっぱり満たされることはなかった。
「仕事ちょーだい」
マスターに向かって手を差し出す。しかし、彼女は残念そうに笑みをこぼし、首を横に振った。
「残念ねぇ、サーちゃん。仕事を振りたいのは山々なんだけど、いかんせん依頼が来ないのよ」
「なんでぇ」
「戦争終わっちゃったしね〜」
マスターは飄々としていた。
「人間以外のとこもないの? エルフとかドワーフとか、そこらへんの小競り合いとか」
「ないわよ。そこらへんは最近おとなしくしてるじゃない」
「……ほんとに? きな臭い話とかも?」
「ないない。あるとしたらオークの国の中でだけど、イヤでしょ?」
「オークはムリ」
オーク狩りはもう飽きた。それに、生理的に無理である。
私は湧き上がる不快感に身を任せ、カウンターに突っ伏せる。すると、マスターはそんな私を見てニコリと微笑み、カウンター下からグラスを取り出した。そして、もう一度オレンジのボトルを手に取り、グラスに注ぐ。
「サービスよ。グラス、空じゃない」
「あんがと」
貰ったグラスを勢いよく掴み、うっ憤を晴らすため、先ほどよりも力強くオレンジジュースを丸呑みした。
「プハァー! マスター、もう一杯!」
「大人になった時が怖いわね」
マスターは差し出されたグラスにジュースを注ぐ。と同時に、私はグラスを取り返す。そして、またしても一気に飲み干した。そして、倒れるようにカウンターへと顔を伏せた。
「なんか……サーちゃん、イライラしてない?」
マスターはカウンターに飛び散った水滴を拭きながら、そう言った。
「だってさ、アイツら、私に感謝の言葉すらないんだよ?」
「アイツらって?」
「城のヤツらだよ。あの時……褒章授与のとき、すっごく酷かったんだから! どいつもこいつも陰口ばっか! それにワザと聞こえるぐらいで喋ってんの」
「なんて言われてたの?」
マスターはきょとんとした顔をしている。
私はあの時向けられた侮蔑のこもった表情を真似しながら口を開いた。
「たかが傭兵のくせに生意気だって。どうせ金になびく守銭奴だって」
「サーちゃん、お金に興味ないもんね」
「へんっ!」
褒賞授与式。
確かに、今の私はただの一傭兵で、お国に貢献した偉い騎士様とは違う。金になびく、ただの戦い好きの野蛮人にしか思われていないのかもしれない。だけれど、一応は国の危機を救った立役者のはずだ。あんな意地悪な顔を四方八方から向けられて良いわけがない。
「だいたい! あんな褒美なんていらないっつーの! 欲しけりゃ誰にだってくれてやるわよ、あんなもん!」
「あら、それは勿体無いわね。じゃあ、アタシにちょーだい」
マスターは、それきたとばかりに表情を明るくした。そして、金色の指輪をはめた左手を私に向ける。
いつも見る光景である。この人は金にがめついのだ。
「……なんかヤダ」
「えぇー! いけずなサーちゃん!」
ぶっきらぼうに突っ返すと、マスターは悲しそうな声をあげた。
私は呆れて大きなため息をつく。そして、濡れたグラスの縁をクルクルと撫でた。
「たかが傭兵って。英雄って言われてもおかしくない活躍したのに」
「サーちゃん、名声が欲しかったの?」
「そんなんじゃないよ。でもさ、だーれも感謝してくれないの。なんか、”当たり前”っていうような感じで。そんでもって、”たかが”なんて言われるんだから、たまったもんじゃないよ」
思いを吐露すると少し心が軽くなる。どんよりとした雲が少しずつ晴れていくような、そんな感覚であった。
私の嘆きに、マスターは言葉を詰まらせる。うーんと天井を眺めているその様子は、なにか言葉を考えているかのようであった。
「まあ、期待しすぎないことね」
マスターの口からぽろりと言葉がこぼれる。
「……何に」
「みんな、そんなに出来た人間じゃないってこと」
グラスの淵から、小粒の水滴がたらりと落ちた。
「期待してたのかなあ」
「するわよ、人なんだから。それに若いし」
「期待してないもんだと思ってた」
私が何かに期待をしていたなんて考えたことがなかった。この言葉を聞いた今でさえも、まだ疑心暗鬼である。
期待という感情はあの時に捨て去ったと思っていた。なんだか、嫌な気分だ。
マスターの顔をちらりと覗く。彼女の瞳は、そんな私を包み込むように暖かかった。
「でも、それって悪いことじゃないのよ。人を信じれなくなったら、人間終わっちゃうんだから」
「う〜ん……」
そう言われても困る。だって、私は――。
その時だった。
カラン、カラン。
「いらっしゃーい」
反射的に声を出すマスター。慣れた声だが、おもてなしの色がはっきりと出ている。そんな優しい声に迎えられたのは、挙動不審な女だった。
黒いローブで全身を覆い、あまり見られたくないのか、辺りをキョロキョロと見渡している。両手に藍色のレースの手袋をはめており、頭が揺れるたびに、ローブの中から稲穂色の綺麗な髪がはみ出していた。
女は駆け足でカウンターに向かう。トタトタと軽い足音だ。彼女は息を荒げながら私の隣に座った。
私は、素知らぬ顔でグラスに口をつける。横目でちらりと見てみると、女はローブの中から何かを取り出しているようだった。
――こいつ。
その時、確信した。こいつは依頼人だ。
この慌てようから察するに、依頼が初めてどころか、この業界に手を出したことすらない人間。いわゆる”カタギ”である。
女の手は震えていた。震えた手でカウンターに一枚の名刺を置く。それは、光をも飲み込みそうなほどの黒いカード。このバーの特別会員証である。
マスターはそれを一度見ると、女に向かって微笑んだ。
「少々、お待ちを」
そう言って、後ろを振り向く。まるでアートのように綺麗に並べられた酒瓶の中から、オレンジ色の液体が入った一本の瓶を取り出した。
マスターは慣れた手つきでそれをグラスに注ぐと、紫色の妖しいコースターをカウンターに敷き、それを置いた。
「マッカリン、二十年です」
女はそれを両手で握ると、それを口に当て、ゆっくりと……ではなく、グビっと一気に飲み込んだ。
マスターも、それには思わず驚いたようだ。一瞬、止めようとしたが時すでに遅し。グラスは空になっていた。
「大丈夫?」
マスターが声をかけるが、女は何も反応を示さない。ただ一言、
「だ、だいじょーぶで……」
と言ったそばからだった。顔から蒸気があがり、ぐらりと揺らめく。そして、女はひっくり返った。
「きゅ~……」
床に倒れる。ローブが剥がれ、彼女の素顔が明らかになる。噴火した火山のように真っ赤になっている。グラスいっぱいのウイスキーを一気飲みしたのだ。そうなるのも当然である。
小さな顔だった。鼻は少し高く、唇もシュッとしている。おっとりとした目はぐるぐると回っており、目元には小さなホクロがあった。
「あら。この人」
マスターの顔色が一瞬変わった。
「知り合い?」
「いえ、知り合いって訳じゃないけど……」
マスターは、カウンターから出ると、彼女の肩を抱きかかえた。
「この人、山奥のシスターさんよ。孤児院をやってるの」
こんな真面目そうな人が、こんな裏稼業に頼るなんて。
なんだろう。少しの違和感が、私の心をざわつかせていた。
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