第39話 反撃準備


 その事実に思い至ったトバリは、かつてないほどの焦燥感を感じていた。


 なぜなら、そのセフィラという球体のおかげでゾンビウイルスの発症を抑えていたのなら、今のトバリにはゾンビウイルスの発症を抑える力がないのではないかと、そう考えたからだ。


「でも、今のところは普通に……とは言わないまでも、そこそこ動けてるよな? ならセフィラの有無はゾンビウイルスの発症と関係ないのか?」


 そんな楽観的な予測がトバリの脳裏を過ぎったが、すぐに否定した。

 それなら、先ほどから感じているこの寒気はなんだというのか。


 この寒気には、心当たりがある。

 ゾンビウイルスに感染した直後の、あの感覚だ。


 あのときほど強烈ではないが、その寒気はじわじわとトバリを蝕(むしば)んでいる。

 しかし、トバリは今のところ完全にゾンビウイルスに発症しているわけではなさそうだ。

 それは一体なぜなのだろうか。


「セフィラを持っている人間が近くにいれば、ゾンビウイルスの発症を抑制できる……とか? いや、でもそれなら僕が近くにいたのに刹那が発症したことと矛盾するよな……」


 ダメだ。考えても埒(らち)があかない。

 発症を抑えている要因についてはわからないが、どちらにせよあまり長くは保たない。

 トバリにはそんな確信があった。


 いずれにせよ、『知恵(コクマー)』からセフィラを奪い返さない限り、トバリに未来はない。


 いや、トバリだけではない。

 同じようにセフィラを持つユリも、このままでは『知恵(コクマー)』をはじめとする『セフィロトの樹』の連中に狙われ続けるだろう。


 生き残るために、戦うしかないのだ。

 自分のためにも。ユリのためにも。


「生き残るため、か」


 トバリには、その意識が希薄だったように思える。

 ゾンビに襲われず、特に問題なく安藤たちを殺せてしまったことが、トバリに油断と慢心を生んでしまったのだ。


 トバリは覚悟を決めた。


 『知恵(コクマー)』は、トバリたちが無策で挑んで勝てる相手ではない。

 万全の状態で臨まなければ。


「ユリ、起きてくれ」


 寝転んでいるユリの身体を揺り動かす。

 しばらくそうしていると、ユリの瞼《まぶた)がピクリと動いた。


「……ん? トバリ……?」

「よかった。起きたか」


 今度はちゃんと起きてくれたことに、トバリは安堵する。

 ユリはボーッとしていて、今のこの状況を理解できていないようだ。


「ユリ。動けるか?」

「……んー。ちから、はいらない」


 ユリが身体を動かそうとしたが、あまり動かせないようだった。

 特に足は、動かそうとすると痛みに顔を歪めている。


 半ゾンビ化していることで身体の強度が上がっているとはいえ、トバリと一緒に屋上から飛び降りたのだ。

 足が骨折しているのだとしても、何ら不思議ではなかった。


「ちょっと待ってろ」


 トバリは立ち上がり、その辺にいるゾンビの腕に噛み付いた。

 そのまま腕の肉を噛み千切り、ユリのいるところへ戻る。


「トバリ……それ……」


 ユリの言葉は最後まで続かなかった。

 トバリの唇に、口を塞がれたからだ。


「っ!!」


 ユリは最初は驚いていたものの、すぐにトバリの意図するものを理解したようだ。

 トバリから送られてくる肉を噛んで、ゆっくりと飲み込んでいく。

 それを飲み込むたびに、自分の中の何かが満たされていくのを、ユリは自覚していた。


「よし、こんなものでいいかな」


 それを数回繰り返し、トバリはユリから唇を離した。


「…………」


 ユリはボーッとした表情で、自分の唇を触っている。

 心なしか、その顔も赤くなっているように見えた。


「いきなりこんなことしてごめんな。でも、やっぱりそういうことか……」


 先ほどまで何かに引き寄せられて集まっていたゾンビ達が、今は一匹もいない。

 そして、トバリの身体の寒気も消えている。


「多分、ユリの血液と唾液にゾンビウイルスの抗体が含まれているんだと思う……って、言ってもわかんないよな」

「……?」


 疑問符を浮かべているユリを横目に、トバリはある一つの結論にたどり着いていた。


 おそらく、ユリの血液や唾液には、ゾンビウイルスの抗体が含まれている。

 つまり、セフィラ持ちの人間の体液は、ゾンビウイルスの特効薬となるかもしれないということだ。


「まあ、継続的に摂取しないとダメそうだけど」


 先ほどの寒気を思い出す。

 おそらく、あの状態が一定時間以上続けば、寒気が身体全体に伝わって死に至るのだろう。


 今のトバリには、ゾンビウイルスの抗体を自分で生み出す力がない。

 つまりそれは、ユリの血液か唾液を定期的に摂取しなければならないことを意味していた。


 ……精神衛生上、次からは血液を摂取したほうがいいだろう。

 適当に肩か腕にでも噛み付けば、それで事足りる。


「どうだ、ユリ? 動けそうか?」

「ん……」


 ユリの腕の傷口はふさがっている。

 足のほうも、かなりマシになっているようだ。


 トバリが手を貸すと、少しフラつきながらもユリは立ち上がった。

 しかし、まだ『知恵(コクマー)』との戦闘ができるほど元気があるようには見えない。


「それじゃあ、ユリ。僕が刺されたあと、何が起こったのか話してくれるか?」

「うん」


 トバリは、ユリと細かい情報のすり合わせをした。


 やはりというか、トバリが『知恵(コクマー)』に刺されたあと、ユリは屋上から飛び降りたらしい。

 ユリはそこからずっと気絶していたようだ。


 トバリは、自分の身体の状態と、『知恵(コクマー)』にセフィラを奪われたであろうこと、それに伴う処置についてユリに話した。

 ユリは、トバリの話を終止静かに聞いていた。


「……だから、僕たちはここで必ず『知恵(コクマー)』を倒さないといけない。ユリにも、協力してほしいんだ」

「わかった」


 ユリはしっかりと頷く。

 その瞳には迷いの色など欠片もなかった。


「よし。それじゃあ、行こう」

「うん」


 トバリとユリは手を繋ぎ、歩き出す。


 胸部の怪我も、かなりマシになってきた。

 だが、まだ足りない。


 血が足りない。

 肉が足りない。

 半分化け物と化したトバリの肉体が、それらを貪欲に求めている。


 身体を再生させるためには、もっと肉が必要だ。

 ……そのためには、もっとゾンビの肉を食べなければ。


 トバリは目の前に大量にいる獲物たちを眺めながら、溢れてくる唾液を飲み込んでいた。

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