第5章 わたしが消えることにしました

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 大晦日。

 までに手を打とうとしたけど、シマは実家に帰ってないし、京都にもいないらしいし。

 ミフギさんの山にはどういうわけか入れなかった。

 結界みたいなので封じられているわけではなく、何度見回っても入り口が見つけられなかった。

 然るべき日まで待てってことなんだろう。

 それとなく探ったが、シマの親父も知らない。俺が何かを探ってるってことはシマの親父にバレたかもだが。

 本当に誰も知らない。

 俺だけ呼ばれてるってのは。

「え、ちょっと、何しに来たわけ?」マヒカさんが凄まじく嫌そうな顔で玄関に立っていた。「しかもなに?そのカッコ。ふざけてるの?」

 10時半。

 ミフギさん宅。

「俺もそう思うんすけど、いちお、招待状もらったんで」黒い封筒をマヒカさんに。

 見せてから思ったけど、別に結婚式に参列するつもりないんだし、なんならぶち壊そうとしてるのに、上下スーツ着る必要まったくなかったのでは?

「なに?これ」マヒカさんも初聞きだったらしい。「ちょっと、ミフギ? ああ、もう。いないんだった」

 いない?

 マヒカさんは挙式とは別件で実家に帰省しただけみたいで。いつもいるはずの叔父の出迎えもなく、家の中を見回ったけど誰もいなくて。絶対におかしいと思っていたところに、完全に他人の俺がわけのわからない格好で訪ねて来てビックリどころかあきれたとのこと。

 アホまる出しの俺を哀れに思ってくれたのか、でかい溜息を床に叩きつけたあと、室内に案内してくれた。

 居間。

 つい先週、クリスマスイブのパーティをした会場だ。

経慶けいけい寺のとこの長男と婚約がどうとかってのは言ってたような気がするけど」マヒカさんが億劫そうに椅子に腰掛ける。

 4つある椅子のうち、マヒカさんの斜め前に座った。

 室内は適温に保たれている。コートと上着を脱いでネクタイを緩めさせてもらった。

「確か、断られたって聞いてたけど?」マヒカさんが黒い封筒を返して寄越す。

「でしょうね」

「なによその、含みのある言い方」

 まさか断った理由の張本人がここにいるとは言えまい。

「ところで本当に誰もいないんですか?」

「見てわかるでしょ?」マヒカさんが言う。「叔父さんすらいないの。車もあったから、買い物に行ってるんじゃないとは思うんだけど」

 車庫は家の裏にあった。

 俺もバイクを駐めたときに確認している。白い普通車があったはず。

「徒歩とか、自転車とか? あ、バイクは?」

「台所が変なのよ。作ってる途中で呼ばれて已むなく、みたいな」

 隣の台所を覗く。間取りを知っているのを不審がられたけど、ミフギさんに呼ばれたことがあると、本当のことだけ説明した。余計なことに触れなければややこしいことにはならないはず。

 確かに。調理の途中で放置されている。

 年越し蕎麦と海老の天ぷらが中途半端なところで。

「失礼ですけど、叔父さんてこうゆう方ですか?」

 そういえば、先月の集まりのときに初めて会っただけ。

 見た目が日本人形(女性)にしか見えない。喋るとちゃんと男だったけど。

「そんなわけないでしょ? 叔父さんがどうとかてゆうより、調理中に放置してどこか行ったりはフツーしないの。衛生面でも火元的にも危ないから」

 台所に立つことがないからその感覚はまったくわからないが。

「あんた、奥さんに全部任せて何もしないでしょ?」

「ええ、未来の妻はそれは凄まじい料理人なもので」

 マヒカさんが大げさに肩を竦めて椅子に戻った。動きがちょっと鈍そうに感じたのは、体調が優れないからだろうか。

「俺、捜してきましょうか?」

「当ては?」

「シ、じゃなかった、経慶寺とか」

 おっと危ない。シマん家と言いそうになった。

「本当にそこにいると思うの?」

 ううん。そう鋭いツッコミをされると。

「新郎の実家ではありますし」

 自信がなくなってきた。

「電話かけてみたら? 番号知ってる?」

 番号を知らないわけはないし、かけてもいいけど。

 シマの実家の電話って、誰が出るんだろう。

 親父さんは寺にいるだろうし、お袋さん?

 でも、なんて言って取り次いでもらう?

「やっぱ直接行ったほうが」

「全然来ないと思ったら、やっぱりね。会場間違えてるよ」タテマくんが急に現れた。

 見た目はまだ、シマを似せている。

 シマ(にしか見えない男)が、

 紋付き羽織袴を纏っている。

「どうも。本日はお日柄もよく?」

「ふざけてんじゃねえぞ!」

 急に何もない空間に怒鳴ったようにしか見えないだろう。

 マヒカさんには、

 タテマくんが見えていない。

「え、ちょっと、何?」

「ここで待っててもらっていいすか。体調あんまよくないなら尚更」

 ミフギさんの実姉なら当事者には違いないんだけど、妊婦を呪いの真只中に招待するわけにいかない。

「ミフギなの?」

「すんません、説明はあとで」

 タテマくんの背中を追って外に出る。冷たい風が全身をさらった。

 会場は母屋でなく。

「案内するつもりだったんだけど、まさかマヒカの姉貴が来るとは思ってなくてね」タテマくんが言い訳がましく言う。「かくれんぼしてたら諦めて帰ってくれるかなとか高を括ってた僕の落ち度だよね」

 客用の平屋。

 障子を取り払って、大きな広間になっている。

 隅に叔父さんが正座していた。長い真っ直ぐな髪で和装というあのときと同じ姿で。

「ようこそおいで下さいました」叔父さんは俺と眼を合わせずにそのまま畳に額を付ける。「いらして下さらないかと、気を揉んでおいででした」

 ミフギさんが、

 床の間を背に座っている。

 タテマくんに合わせて白無垢。

 悪いけど、全然似合ってない。

 綿帽子が大きめなせいで眼が合わないので声をかけるのを躊躇われた。

 やたらと赤い口紅が異様な雰囲気で。

「シマは?」

 見える範囲内にはいなさそうだが。

「だから、シマくんの身体は僕が」タテマくんが答える。ミフギさんの隣で胡坐をかきながら。

「シマをどこに遣ったかって聞いてんだよ」

「ああ、見えてない?」タテマくんが薄ら笑いを浮かべる。「そこらへんにいない? 呪いの残滓になって」

 部屋をぐるりと一周見回して。

 タテマくんが天井を見上げて大笑いした姿が視界に入ってようやく気づけた。

 嘘だ。

「あーあ、本当に面白いよね」タテマくんが涙を拭いながら言う。「さっきのこと思い出してよ。僕の姿がマヒカの姉貴に見えてなかった。てことはだよ? まだ、身体はもらってないってわけね」

「ご親切にどうも」

 落ち着け。母屋からここに移動するまでの間に上着とネクタイは整えた。

 うすら寒いのは単に隙間風が吹き込んでくるから。

 頭と肩がどんよりと重い。

 ここに立ちこめるのは、呪い。

 これまで納家が祓ってきたものの総体と相対している。

 空のお膳と分厚い座布団が一対。

 偽りの新郎新婦に向かい合う形で座る。震えて崩れそうな脚を誤魔化したかった。

「で? どうやって止めるって?」タテマくんが意地悪く嗤う。「なんか名案浮かんでるの?」

「ミフギさんは?」

「見ての通り。おとなしくしてくれてるよ。ね?姉ちゃん」

 ミフギさんは何も言わない。

 何にも反応していない。

「ミフギさん、こんな形でいいの? シマも意思もミフギさんの意思すら無視して。こんな無理矢理」

「誰が誰の意思を無視してるって?」タテマくんが口を挟む。「姉ちゃんは、シマくんと結婚して子どもが欲しい。シマくんは、生きてるのが嫌になっていなくなりたい。僕は、要らなくなったシマくんの身体をもらって、姉ちゃんの望みを叶えて、姉ちゃんと結婚して、次代の巫女を産んでもらいたい。誰の願いが叶ってないか教えてよ」

「俺が望んでない」

 シマを死の淵から引っ張り上げて。

 ミフギさんに正気を取り戻させて。

 タテマくんに。

「僕に? 消えてもらいたい?」

「俺に、呪いを封じる力はないのか?」

 俺がミフギさんと元は同一個体だというのなら。

 ――俺は左眼にしか発現しなかったせいか、中途半端に祓うほうの力も

 兄貴のエイにもあるんだから、きっと俺にだって。

「あったとして、どうするの?」タテマくんがミフギさんの左手を弄びながら言う。「呪いを封じるって意味わかってる? 自分の代だけの話じゃないんだよ? これから未来永劫、それこそ末代まで、子孫が呪いを受け継がなきゃいけないってことだよ? 責任感の強いモリくんに、そんな浅はかな決断ができるとは思えないけどね」

「俺一代で納める方法はないのか?」

 叔父さんが熱いお茶を淹れたのち、一礼して席を外した。

 年越し蕎麦の調理に戻るのかもしれない。

「呪いの量によっては、子孫を諦めればそれでなんとかなるかもだけど」タテマくんが言う。「僕の正体を思い出してよ。納家がこれまで封じてきた」

 呪いの集合体。

「たった一代でなんとかできると思う?」

「出来る方法があるんなら」

「ないよ」タテマくんの返答は早かった。

 その早さが、逆に勘繰らせる。

「あるんだな?」

「ないよ。願望でしょ?」タテマくんが立ち上がって手を叩く。「楽しい歓談はここまで。長覚オサメ?」

 するすると障子が開いて、叔父さんがお神酒を持ってきた。

 お神酒?だろうか。

 その白い容れ物の中身は。

「形だけでもやっておかないとね」

「シマもいないのに?」

「いるよ、ほら」タテマくんが視線を移動した先に。

 ぐったりとしたシマが宙空に磔になっていた。

「シマ!」

 駆け寄ろうとしたところを止められる。

「触らないほうがいいよ。見えてるでしょ?」

 シマの周囲に蠢く透明なそれは。

 濃厚な呪い。

「何してやがる? シマを」

「まだ死んでないよ。まだ、ね。とゆうか、呪いになれば死ねなくなるから」

 呪いになる?

「はいはい、話はおしまい。姉ちゃん」

 呼びかけられたミフギさんが赤い杯の中身を口に含んでゆっくり立ち上がる。畳の上を平行移動して、シマの傍に。俯いているシマの頬を両手で支え、口に。

「お、おい」

 口が離れると、シマの口の端からお神酒が滴り落ちた。

 飲ませた?

「これで」満足げなタテマくんがワンテンポ遅れて歪んだ。「姉ちゃん?」

 ミフギさんが綿帽子を放り投げて、白無垢から脱皮する。

 白い肩が見えた。

「何したの?」タテマくんが睨んでいる。

「こっち見て大丈夫だよ、モリくん」ミフギさんの声がして。

 闇色のドレス。

 同じ色のアームカバー。

 全身闇に覆われた新婦がそこにいた。

「何したか、言ったほうがいい?」ミフギさんが言う。

「早速呪い汚染の効果出てるじゃん。イジワル」タテマくんは苦々しそうだ。「主導権奪ったね」

 空間に磔になっていたシマが崩れ落ちそうになったので、急いで抱き止めた。

 身体が冷え切っている。

「シマ? 大丈夫か」耳の傍で尋ねた。

 返事はないが呼吸は弱々しく。

 よかった。のか?

「見える?」ミフギさんが俺と、意識のないシマの前でくるりと一回転する。「これね、呪い」

 呪いというのは、重厚な靄のような、少なくとも色は透明だったはず。

 いまは、

 真っ黒の闇。

「わたしが動かしやすいように変えたの。もう大丈夫」

「マジ?」

「うん、マジ」ミフギさんが力強く肯く。「似合うでしょ?」

 幾重にもレースがあしらわれた、Aラインのドレス。

 色が黒でなければ、ウェディングドレスにも見えた。

「うん、ミフギさんには、こっちのほうが、ドレスのほうがいいよ」

「でしょ?」ミフギさんがちらりと、俺が抱き支えているシマに目を遣った。「シマくん連れて逃げて。あとはわたしがなんとかするから」

「主導権奪ったところで」タテマくんがキツそうな顔をして伸ばした手を。

 手首のところで切り落とした。

 血しぶきみたいに、

 濃い色の闇が噴き出てきた。

「言ったでしょ? あなたは単なる呪いの一部。巫女のわたしに」

「痛みはないけど」タテマくんが、ミフギさんの言葉を遮って半歩後ずさる。「けっこうクるね。納家が封じてきた呪いをすべて封じるつもり?」

「そうだけど?」ミフギさんは、タテマくんを真っ直ぐ見据えて言う。「姿も元に戻って? ただの呪いタテマ

 巫女の言葉が空気を震わせるや否や、シマの形をしていたそれが。

 巨大な闇色の塊に変化した。

「モリくん、ここは任せて。早く、シマくんを」

「大丈夫なんだよな?」ミフギさんは。

「うん、これを、タテマを封じて、お正月を迎えるよ」

「信じるからな?」

「ありがとう」ミフギさんが振り返らない。

「ミフギ」シマが痙攣する瞼を開ける。

「シマくん?」ミフギさんが振り返った。「ごめんなさい、わたし」

「それは勝手に口移ししたことへの謝罪か」

「え、あの」ミフギさんが恥ずかしそうに口を覆う。「ごめんなさい」

「いいよ、必要なだったんだろ?」シマが震える足で立とうとする。

「おい、大丈夫か」

 ――赦さない、認めない、ミフギ!!!!!

 タテマくんだったものが地を震わせるような重低音で建物を揺らす。

 限界か。

「後日ちゃんと謝りに来るように」シマがこめかみのあたりを押さえながら言う。「頭にキンキン響いて、君の声がよく聞こえないんだ」

「うん」ミフギさんが、これまで見たどんな笑顔より眩い表情で微笑んだ。「うん、きっとね」

 後ろ髪引かれる思いで客用平屋を脱する。

 ずん、と圧し掛かった重しは。

 建物ごと呪いに染まりつつあることを表しているのか。

「シマ、こっち」

 ヘルメットを渡して、バイクの後ろに乗るように目線を遣った。

 寒い。

 11時過ぎ。

 挙式の時間は過ぎた。

「これ着ろ」俺のダウンジャケットをシマにやった。

 シマの格好は、この間ここでパーティをしたときの姿のまま。

 さすがにセーター一枚では寒すぎる。

「行くぞ」

 シマが俺に手を回してぎゅうと抱き付いたのがわかったので、発進した。

 逃げるってゆっても。

 支部に戻ったらミツ姉が待ってそうだし。

 とゆうか、今日は何時にどこ集合でシマん家の除夜の鐘を聞く予定だったっけ。

「このままどっか行きたい」シマが言う。そんなにスピード出していないのでなんとか声は拾えた。

 寒い。

 急に気温が下がってきた。

 雪降りそう。

 降る前にどこかにバイクを止めたい。

「聞いてる?」

「いま考えてるとこ!」余計なことを考えているのを誤魔化すために大声になっていた。

 あった。

 まだ取り壊す前だったはず。

「つかまってろよ」

 スピードを上げる。

 タテマくんと初めて会った場所と言うといろいろぐちゃぐちゃうるさそうだから黙っていよう。

 廃ホテル。

「めちゃくちゃ気味悪いんだけど?」シマが疑り深い目で見てくる。

「誰も来ないとこのほうがいいだろ。ほら、大丈夫だって」入り口を封鎖してるロープを持ち上げてシマをくぐらせる。

 取り壊しの業者が決まらないとかで延期に延期を重ねているんだとか。

 お陰で一人になりたいときここに来たりしてた。

 さすがに年明けにはどこかしらに決まるだろう。社長じいさんも目星はつけたようなことを言ってたし。

 中もそこまで廃墟と言うわけではない。はすだが。

 シマがやたら肩をさすって目線が落ち付かない。

 もしや。

「なんかいる?」俺には見えないけど。

 俺には見えないってことは。

 呪いじゃなくてホンモノの。

「いるから廃業になったんだろ? バカ」

「バカって、お前」

 割れたガラスを踏まないように。

 ロビィのソファはそのままになっているのでそこにシマを案内した。

 寒い。

 寒いが外気が当たらないだけマシだ。

「埃っぽくて別の病気になるな」

「文句言うなら帰るぞ? ほら」伸ばした手を。

 握られる。

 指と指の間に指を絡ませる。

 それはまるで。

「助けに来てくれたんだろ? ありがとう、て言ってなかった」シマは俺がいないほうを向いたまま。

 真横に座ってるってのに。

「どういたしまして」

「あのまま呪いに取り込まれてミフギと結婚させられそうになってた」

「らしいな」

 沈黙。

「腹減ったな」

「空気読めよ」シマが額を押さえて俯く。「っい」

「やっぱ場所悪かったな。移動し」

 シマがぎゅうと強めに手を握った。

「結婚するのか」

 主語は、俺とミツ姉だろう。

「大学卒業したらな」

 シマは片手で俺の手を握って、もう片手で顔を覆う。

「結婚してほしくないんだろ」

「私が反対したところで未来は変わらない」

「俺が反対すれば変わるかも」

「するなよ」

「してもいいけど?」

 シマが顔を上げる。

 俺と眼が合って。

 すぐに逸らした。

「またそうやって、私に期待させるような」

「ミツ姉のことは大切だけど、好きって感じはないんだよ。でもお前は、シマは」

「だからそうゆうのやめろって」シマが手を振りほどこうとしたので。

 両手をそれぞれの手でつかんで。

 押し倒した。

「放せ」

「放してほしくないくせに」冷たい首筋に唇を這わせた。「こんままヤる?」

「調子に乗るな。性欲処理なら」

「性欲処理だと思ってたけど?」

 シマが馬鹿力で俺を突き飛ばした。

 俺は、埃だらけの床に落ちた。

「本気で言ってるなら、私との関係は今日限りだ」シマはまた俺がいないほうを向いている。

 肩が、

 震えている。

「泣いてんの?」

「私を傷つけたいなら最初からそう言えばいい。もうは終わりだと」

「遊びだと思ったことはないかな」埃を払いながら立ち上がる。「ミツ姉に嫉妬してんだろ? 俺もそう。さっきさ、ミフギさんがお前に、その、口移し?したときに、なんかちょっと、ピリっと、こめかみのあたりが疼いてさ。そもそもお前とミフギさんが結婚するって招待状渡されたときも」

「私をからかってるのなら、いますぐやめてくれ」

「からかってもないかな。もっかいよく考えてみたわけ。俺はホントにミツ姉と結婚してもいいのかって」

「今更だろ? 指輪まで贈っといて」

「婚約指輪だし」

 結婚指輪じゃないし。

 とか屁理屈を口の中でこねてるのは、シマにはお見通しのようで。

「お前それ、私がミツ姉の立場だったら、お前と私を殺しても尚憎いってやつだけど?」

「やっぱそうだよな」ソファに座り直す。

 ぽわん、と埃が舞い上がった。

 シマがごほごほと咳をする。

「大丈夫か? そろそろ出るか?」

「ここってホテル?」

「何年か前はな」

「じゃあ」シマが俺の耳元で囁いた。

 手をつないで。

 そこに行く。

 ホテル内チャペル。

 ちょうどお誂え向きに、十字架が取れてなくなっていた。

「えっと、病めるときも健やかなるときも」

「誰もいないんじゃ、誰に誓うんだ?」シマが誓いの言葉を遮った。

「誰かはいるんだろ? 霊的なやつが」

「ムードとか考えたことあるか?」逐一ツッコミを入れる割には、シマの顔は嬉しそうだった。

 正面で向かい合う。

 目線があったりずれたりする。

 こっちを向かせるために両手を掴んだ。

「好きだよ、シマ」

「フツーこうゆうときは愛してるって言うんだよ、バカ」シマの顔が紅くなった。

「じゃあ、愛してる」

「じゃあ、てなんだよ」

「愛してる?」

「疑問形にするな」

 腰と首の後ろを掴んで。

 口づけた。

 目線が絡まり合う至近距離。

「愛してるよ、シマジ」

 この世に生きてる存在で一番愛おしい。

 最初はそんなでもなかったけど、今にも死にそうだったシマを助けたかっただけ。

 だって断ったらそのまま、シマは命を投げ捨てそうだった。

 命を人質にされたら、じゃなくて。

 助けたかった。

 だいじな友だちを。親友を。

 付き合うっていうのが実際に何をするのかよくわからなかったけど、シマがその日を境に生きることを諦めないでくれたのが嬉しかった。

 嬉しかった。

 本当に、

 嬉しかったんだ。

「なんで、そうゆうことを」シマは泣いていた。

 モットハヤクイッテクレナカッタンダ。

 俺の決断の遅さをなじった。

 俺のスーツの襟が涙でぐちゃぐちゃになるほどに。

「嬉し泣き?」

「うるさい」

 俺の襟に張り付いているシマを剥がした。

 両手が届くだけの距離を取った。

「まだだけど?」

「愛してる」珍しくシマが真っ直ぐに俺の眼を見て言った。「愛してるに決まってるだろ? 好きだ、大好きなんだ、モリヒト。私は」

 もう一度口を吸った。

 今度はもっと長く深く。

 止まらなかった。

 俺も、

 シマも。

 廃チャペルで求めあった。

 誰も見てないからいっか。

「じいさんにも、シマの親父さんにも納得してもらえる方法が浮かばないから、卒業式終わったらお前を京都まで迎えに行って、それで」

「それで?」シマがけだるそうに眼を開ける。「国内に逃げるとこあるか?」

「じゃあ海外? パスポートとっとかなきゃな」

「犯罪者みたいだな」シマの口調は、自分たちは何も悪いことをしていないのに、と言わんばかりの。

 好きな人と一緒にいたいだけなのに。

 なんでこんなに後ろめたいみたいにしなきゃいけないんだろう。

 除夜の鐘に間に合うように経慶寺に向かった。

 途中で着替えもしたからばっちり。

 暗闇の中、シマの親父さんが俺を見つけるなり血相変えて走ってきたときはさすがに覚悟したが。

 違う。

 俺らのことじゃなくて。

「かっちゃんが」

 死んだ。

 雪が、降ってきた。












     B


 書類やらなんやらが片付いたのは17時を回った頃。

 完全にマヒカもだろうな。

 と思って帰宅したが、台所はおろか、自室にもいない。

 まだ実家から戻ってきてないのか。

 悪いが少し眠らせてもらおう。昨日からほぼ寝ずに働いていた。

 眼が覚めたのが、20時。

 やばい。

 寝すぎた。

 部屋の照明が暗いまま。

 カーテンを引いた。

 さすがにおかしい。

 ええと、あいつの実家の番号は。

 電話が。

 鳴った。

 嫌な音だった。

「もしもし?」

 無言。

「もしもし?」

 無言。

「マヒカか? すまん、疲れて寝ちまってて」

「ごめんね、ケンゴ。年越し蕎麦、作れなかった」

 電話が切れた。

 急いで実家にかけ直した。

 つながらない。

 マヒカのバイクがない。

 ということは、やはり帰ってきていない。

 車ならあの山までそう遠くはない。

 やけにパトカーとすれ違う。

 違う。

 パトカーが向かっている先は。

 やめてくれ。

 そこだけは。

 マヒカの実家の私有地の山。

 パトランプで暗闇が真っ赤になっていた。

 同僚がいたので詳しいことを聞こうとしたが、刑事課の強面に車まで引っ張られた。

 帰らされると思った。

 強面は、メモを見ながら俺に状況を教えてくれた。

 19時半に110番通報があった。

 妹を殺してしまった。

 その女の名前は。

「マヒカのわけがないだろ!?」

 片山茉火佳と名乗った女は、住所を言って電話を切った。

 現場は、納家の私有地の山。

 捜査員が駆けつけると、女の姿はどこにもなく、納深風誼と名乗る女と生まれたばかりの赤ん坊が畳に転がっていたのみ。

 すぐに近隣を封鎖し、片山茉火佳を捜したが居所がつかめず。

 片山茉火佳の夫の、片山健吾―俺だ―を重要参考人として。

「そんなことを聞いてるんじゃないんです。なんで、なんでマヒカが?」

 妹を殺さないといけないんだ?

 でもその妹は、無傷で発見されている。

 市内を走り回っているパトカーは、自称容疑者の片山茉火佳を捜している。

 刑事課の強面は、俺が本当に何も知らないことを見抜いて、取りあえず今日は帰れとだけ言った。

 そのあとは誰に食い下がっても誰も何も教えてくれなかった。

 遠くで除夜の鐘が聞こえても、俺はそこを動かなかった。

 雪が降ってやがる。

 翌日。

 年が明けた。

 赤ん坊の親はまだ見つからない。


 また、マヒカが110番した同時刻頃、岐蘇キソ不動産の社長の息子が自宅で死んでいるのを、夕食を届けに行った妻が発見した。死因は急性アルコール中毒。

 年末で気分がよくなって飲み過ぎたんだろう。よくある話だ。

















     2


 親父が死んだ。

 酒の飲み過ぎらしいが、親父は酒が飲めないはず。

 じいさんにそのことを伝えたが、苦々しい顔をするだけ。

 お袋は、葬式の前に離婚届を見せていなくなってしまった。

 なんで、

 こんなことに。

 警察は碌に捜査もせずに、親父は親父の不注意のせいで死んだことになった。

 そして、ミフギさん。

 あのあと何があったのか。

 警察が俺とシマのところに(別々で)来た。

 12月31日、どこで何をしていたのか。正直に言えという。

 じいさんが手を回して俺のところには来なくなった(弁護士でも立てたのだろう)けど、シマのところには(京都にまで押し掛けて)しつこく尋ねて来てる。

 シマが精神的に参っている。

 支えてやりたいが、俺も急に親父が死んで混乱してるのが事実。

 ミフギさんは警察の眼が届く病院にいるらしい。

 見舞いには行けなかった。

 そうして、

 1ヶ月経った。

 2月。

 雪が降りしきる中、俺は軽井沢の別荘にいた。






     C


 何が何だかちっともわからない。

 俺は、

 交番から異動になった。引き抜かれた。

 暴力団対策係。

 俺がマヒカのことを調べたがってるのを知った上司が、事件から遠ざけようとして飛ばしたんだろう。もしくは、そのしつこさを向こうさんが買ってくれたか。

 どうでもいい。

 俺はどこの部署に行こうと、マヒカを捜し出してみせる。

 あの夜、山で何があったのか。

 俺はそれが知りたい。

 そして、

 突き止めた。

 あの夜、マヒカと一緒にいた男を。

 岐蘇キソ盛仁もりひと

 岐蘇不動産の社長の孫。

 たしか、あの日社長の息子は死んだ。

 この二つの事件は無関係か?

 大雪の中、軽井沢の別荘に向かった。

 社長の孫が出してきた条件。

 この場所でないと話さない。

 だったら行くしかない。

 雪道なんか走ったこともない。もうだいぶ積もっている。

 まともに雪掻きもされていないので、途中から車を置いて歩いた。

 頼りない地図を頼りに。

 別荘はそう苦労なく見つかったのがせめてもの救い。

「どうも」

 孫はどこからどう切り取っても苦労の欠片もしたことがないようなボンボンで。

 これから話を聞く必要がなければ顔に一発お見舞いしていた。

 暖炉に火が入っていたが、どことなく隙間風が吹き込んでいて。

 結論を言うと、

 寒すぎる。

「火のそばでいいすよ」孫が俺に気を遣って椅子を運んできた。「すんませんね、こんなとこまで来てもらって」

 別荘は、小さくもなく大きすぎもない手ごろなサイズ。

 核家族がひと夏を過ごすには充分な広さと設備がある。

 壁の暖炉を挟んで右と左にそれぞれ座った。

「マヒカさんの旦那って呼ぶの長いんで、名字でいいすか。片山さん」孫が顔の前で手を合わせて。「マヒカさん、生きてると思いますか?」

「テメェ、クソガキ、言うに事欠いて」本当に殴りそうになった。「生きてるに決まってるだろ? マヒカが死ぬわきゃ」

「希望の話をしてるんじゃないすよ、俺は、片山さんが知らないことを知ってます」

「知らないことなんざどうでもいい。訂正しろ。マヒカは」

「死んでないけど生きてないって感じじゃないすかね」

「だから」椅子を蹴飛ばして孫の首根っこをつかまえた。「テメェは何の権限があって、んな暴言のたまわってやがんだつってんだよ」

「俺は、マヒカさんの弟なんすよ」孫が真っ直ぐ俺を見て言う。「マヒカさんの家―納家のことも全部知ってます」

 手の力が勝手に緩んだ。

 たぶん、

 本当のことを言っている。

 パチパチと薪が爆ぜた。

「納家が代々呪いを祓う一族ってのは、片山さんも知ってると思うんすけど、マヒカさんの妹、つまり納家の巫女――ミフギさんはあの日、去年の大晦日、でっかい呪いを祓ったとき、それに巻き込まれたんじゃないかと思ってます。確信はあります。だって、ミフギさんは生きてる。まだ病院にいるらしいんですけど、少なくともミフギさんが生きてるってことは」

 だから。

 呪いだとか。

「マヒカが、巻き込まれた?」

 納家が呪いをどうこうしてるってのは、マヒカから聞いたことがある。

 妹が生まれるまでは、自分が巫女になるはずだった、と。

 妹のほうが適性が高かったから、自分は不要になった。

 だから、嫁にもらってくれ、と。

 別にそんな理由じゃなくたってもらってやったんだが。

「ええ、巻き込まれるとその人は呪いに呑み込まれて、呪いの一部になります。だから、生きてないけど死んでもいない状態になります。問題は、その状態になった人間を、呪いの集合体から引き剥がして人の形に戻せるのかってことなんすが」

 孫が口を開くのを待った。

 喉がひたすらに渇いた。

「あ、なんか飲みます?」孫が台所に立った。「不味いコーヒーと、不味いお茶しかないすけど」

「飲みもんはいい。わかった。戻せないんだな?」

「少なくとも俺には無理すね。できる可能性があるとするなら」

 納家の巫女。

 ノウ深風誼みふぎ

 県立病院で保護していたはず。俺もまだ会ったことはない。

 マヒカが言うには、マヒカには似ていないんだとか。

「俺が片山さんに話せることは何でも言います。だから、ミフギさんに会えるように工面してもらえませんか?」

 なるほど。

 これが本音か。

「テメェ、俺に言うってことは、警察こっちに筒抜けってことだからな? それでもいいなら」

「言ってますよ、ケーサツに全部。ただ、言い忘れたことがあるかもってことですけど」

 言いやがる。

 さすがあのやり手で有名な岐蘇不動産の孫だ。

 見くびっていたことは謝ろうか。

「期待させたとこ悪いが、俺の部署はそことは別でな。会わしてやりたいのは山々なんだが、越権行為に当たる」

「えー、そこに知り合いとかいないすか?」

「いるにはいるが、叶えてくれる保証はない。んなことより、なんでも話すっつったな? マヒカの妹と一緒にいた赤ん坊はどいつの子だ?」

「赤ん坊? なんすか?それ」

 本当に知らなそうだった。初耳のような顔をされる。

「え? 赤ちゃん?なんで? 赤ちゃんがいたんすか?」

 この食い付き様は。

 なんか、知ってるな。

「あの夜、マヒカの妹と一緒に、生まれたばっかの赤ん坊がいたらしい」

「男すか?」

「いや、女だ」

 孫が眉を寄せた。予想と外れたような顔だった。

「いまお前なんか思いついたろ? 言ってみろ」

「いや、呪いの総体がいたんすけど、そいつの性別って男だったよなあと思って。あ、いや、性別はミフギさんが後付けしただけだったっけな。とするなら」孫が急に俺の両腕を掴んだ。「まずい、片山さん。その赤ん坊、いま」

 赤ん坊は、マヒカの妹と同じ病院にいたはず。

「ミフギさんが危ない」

 大雪の中、なんとか何時間もかけて神奈川まで戻った。孫を乗せて。

 こいつ、俺を足代わりにしやがったな。

 県立病院。

 待合までは問題ない。なにせ県立病院だ。

 案の定、マヒカの妹のいる病室の前に同業者がいた。

 何も知らされていない末端相手なら俺は手帳で騙くらかしてフリーパスだが、孫は。

「ここで待ってます」

「何言ってんだ? テメェも行くんだよ」首根っこをつかまえて無理矢理。

 嫌な、

 予感が掠めた。

「片山さん!」孫はすでに病室の中に入ろうとしていた。

 末端が孫をドアから引き剥がそうとするが、急に突風でも吹かれたんじゃないかとゆう衝撃で。

 末端が廊下の端までかっ飛んだ。

「おい、大丈夫か」末端を気にしている余裕はないが、俺の眼の前を滑空したのでさすがに無視できなかった。

 身体を強く打ちつけただけで特に目立った外傷はない。

 いまの衝撃音で、応援がやってきてしまう。

 その前に。

「おい、孫。生きてるか?」病室の中は。

 全裸の女がベッドに横たわって。

 孫は、

 女の頭の少し上に視線が固定。

 俺には見えないものが見えてやがる。

 納家の血を引くというのは、こうゆうことか。

 マヒカにも、なんか見えてたんだろうか。

「タテマくん、じゃないよね?」孫は俺には見えないものと話をしている。「娘? 誰の? え」

 孫が、

 俺を見た。

「なんだ、どうゆう」

 わかってしまった。

 マヒカは、

 妊娠していた。

「うそだ」

 誰か、

 嘘だと言ってくれ。

 そのあと、駆けつけた捜査員に俺も孫も取り押さえられた。

 やべえ。

 クビにならなきゃいいが。







    3


 2月。

 久しぶりに会ったミフギさんは、ガリガリにやせ細って、まともに喋れないような状態だった。

 ミフギさんの、頭の辺りにいたは俺にこう言った。

 自分は、納家の巫女の後継者だと。

 が片山さんの言っていた赤ん坊かどうかはわからないが、あの日生まれたってことは間違いない。

 あの赤ん坊――後継者は、俺にしか見えてなかった。

 とするなら、呪いが巫女を継いだってことになる。

 わけがわからない。

 ミフギさんにはもうその力はないんだろうか。

 ミフギさんに会いたい。

 まだ病院にいる。









     D


 俺とマヒカの子が、

 巫女の後継者だと。

 孫は言っていた。

 仕事に身が入らない。

 そのせいで、

 乗り込んだ暴力団事務所で。

 顔にナイフがめり込んだのを気づくのが遅れた。

 このツラは、自業自得だ。

 傷は消さなくていい。

 どうせ自分のツラなんざ、鏡がなきゃテメェで見えやしねえんだから。

 少し休めと言われた。

 俺もそれがいいと思った。

















     E-


 バイクが走り去った音が聞こえた。

 なにが、

 起こってるの?

 近づくなと言われた離れに向かう。

 入口に叔父さんが立っていた。

 叔父さんは、私を見るなり黙って首を振った。

 入るなということだ。

「お願い、何が起こってるのかだけでも」

「存じ上げません」

「じゃあ、ミフギは無事なの? ミフギ?大丈夫?」

 寒い。

 せめてコートを羽織って来るんだった。

 雪が降りそうな雲が拡がってる。

 空も暗くなってきた。

「お帰り下さい」叔父さんがゆっくりと頭を下げる。「この先は、マヒカ様には」

「なによ、私には関係ないっての? 巫女の資格もなくなった、納家に必要のない女には」

 叔父さんは黙って首を振るだけ。

「退いて!」無理矢理通ろうとしたところを止められる。「放して! ミフギが無事なのを見たら」

 ――マヒカの姉貴じゃん。

 脳の中に直接声がした。

 見えない。

 けど、きっとそこにいる。

「どいて、私はこの先に用があるの」

「おやめください。マヒカ様」叔父さんは力づくで私だけを遠ざけようとする。

 私だって。

 私だって、役に立ちたい。

「お姉ちゃん、来ちゃ駄目!!」ミフギの声がした。

 遠くで。

 手に、

 ナイフを持ってて。

 それで、

 ミフギを刺してた。

「ミフギ!!」

 ミフギはすでに動かなくなってて。

 叔父さんは腰を抜かしてこっちを凝視してて。

 ――ありがと、マヒカの姉貴。充分役に立ったよ。

 脳内のこの低い声は、

 誰なの?

 ――僕? 僕は、納家の呪いの総体。つまり、納家が巫女なんかやらなくちゃいけない元凶。

 ミフギは。

 ――死んだよ。マヒカの姉貴が殺してくれたんだ。ありがと。おかげで助かった。

 どういうこと?

 ――姉ちゃん、ああ、ミフギのことだけど、僕を胎内に封印しようとしてたから。

 私が、

 穴を開けたってこと?

 ――さすが、察しがいいね。もともと開いてた穴があってさ、そこにもう一回刺してくれたから、トドメ。

 叔父さんが真っ蒼の顔になって首を振っている。

 叔父さんには見えてるの?

 ――いや、僕の禍々しさを感じてるだけだね。長覚オサメ、いままでありがとう。

 そう聞こえたあと、叔父さんの姿が煙みたいに消えた。

 私も消すの?

 ――どうしよっかな。

 ナイフを床に捨てて、走って母屋に戻った。

 電話。

 110番の前に。

 帰ってるといいけど。

「もしもし?」

 この乱暴な言い様に、声が詰まる。

「もしもし?」

 駄目だ。

 何も言えそうにない。

 何かを言ったら涙が零れてしまう。

「マヒカか? すまん、疲れて寝ちまってて」

 嬉しい。

 なんで、

 わかるの?

「ごめんね、ケンゴ。年越し蕎麦、作れなかった」

 限界だった。

 零れて溢れ出るものを我慢して。

 自分で電話を切って。

 そのまま110番して、正直に言って、それで。

 電話線を引っこ抜いた。

 ――お別れは済んだ?

 私、どうなるの?

 ――僕の役に立ってくれた恩もあるし、そうだな。選ばせてあげる。

 人間として死ぬか。

 呪いとして生きるか。

 そんなの、

 決まってる。

 納家が祓ってきた呪いの総体は、

 私が選んだ選択肢を叶えると約束し、

 私を。

 ごくりと呑み込んだ。






     4


 3月。

 ようやくミフギさんが退院できると片山さんから聞いて、県立病院まで行った。

ミツ姉も付いてきてくれた。

 納家の生き残りはもう俺とエイの兄貴しかいない。

 よな?

 エイとも話をしたいが、どこにいるのかよくわからない。

 小張神社にも行ってみたが、だいぶ前からここには帰ってきていないようだった。

 ミフギさんは、

 更にやせ細り、もはや骨と皮みたいになっていた。

 それを見たミツ姉が眼に涙を浮かべてミフギさんに抱き付いた。

 身寄りは俺だけなので、俺が面倒を看ることになった。

 ミツ姉も一緒にと申し出てくれた。美味しいご飯をいっぱい作ると泣きながら言っていた。

 ミフギさんは、

 何も話してくれない。もともと口がきけないみたいに。

 ミツ姉が作った超絶美味しい料理にも口をつけない。

 ミツ姉はミフギさん用に流動食を作って、三食口に運んでくれた。

 食べるときもあったし、食べてくれないときもあった。

 下の世話もミツ姉が買って出た。そりゃ俺にはさせられないだろうけど。

 こんな状態で何年生きられるんだろう。

 退院できたのって、最期は病院じゃなくて、て意味じゃないのか?

 春休みにシマが京都から帰ってきた。

 ミフギさんの変わり果てた姿を見て、さすがのシマもツラそうに壁を殴った。

 どうすれば。

 どうすればミフギさんを守れる?

 お袋が言っていたことがよぎる。

 後継者が生まれれば、女のほうは消える。

 そうゆうことなのか。

 でも、ミフギさんは生きてる。

 手も暖かいし、呼吸もしている。

 消えるというより、死に向かって落ちて行っているってほうが正しい。

 そして、

 その日が来た。

 ミフギさんは。

 4月。

 桜の見える窓にもたれて、静かに息を引き取っていた。

 遺体は、俺とミツ姉とシマが見ている前で消えた。

 三人でしばらくその場で泣いていた。

 綺麗な桜が、ミフギさんの笑顔みたいに咲いていた。


 2年後。

 大学の卒業式。

 その翌日に俺とミツ姉は結婚する。

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