第6話 市と春
「クロぉ!人がいっぱいいる!」
市についたハルさんの最初の一言はこれだった
大袈裟ではないが、あまりこの市には人がいない
店が先を争うように客を取っている様子もなく、恐らくいつもの常連が殆どなのだろう
これを見てその言葉が出るとは、この人は市など無いような場所で過ごしてきたのだろうか
なにより、あのボロボロの神社に住んでいたと言っていたがいったいハルさんは何者なのか
疑問符はいくらでも浮くが、今分かるのはこの人が恐らく善人であることだけである
家まで案内させて殺して金を奪う、なんて事を考えているのかもしれない
でも、この人が俺を裏切る想像がどうしてもできない
社で倒れているハルさんを見た時も、こんな気持ちになったことを思い出して、なんだか不思議な気持ちになる
ハルさんはしばらくはしゃいで満足したのか、とことことこっちに歩いてくると石置の方角を聞こうか、と言ってふらふらと道を歩く人たちに声をかけ始めた
ハルさんを見習って声をかけてみようと思い、近くを歩いていた細っこい女の人に声をかける
「あの...」
「あ、あのお金は持ってないです」
「違うんですけど」
「持ってないですってば!」
声をかけた女性は俺に怯えて涙目になりながら叫んで逃げて行ってしまった
人のいない市で綺麗に響いた女性の声に、周りにいた人間たちが綺麗な円を描いて俺を避ける
声をかけようにも触れられすらしない現状
こんな状態で情報など聞けるわけがないので、情報集めは顔の作りが俺より遥かに温和なハルさんに任せて、俺は遠くで眺めている事にした
数分もするとハルさんはふわふわとした顔で、町の人たちと雑談を始める
俺は少し悩み、少し遠くで話を聞いてみる
雑談を始めて暫くすると町人達も心を開いたのか、話が何回か逸れながらもハルさんに色々な話をし始めた
ここら一帯の名前は「一春」で、どこよりも早く春が来るのが自慢なこと
娘が桜が咲く頃に結婚をすること
石置は北東の方に行くと着くこと
今年は春が遅く野菜が育たなくて困ること
皆の話を聞いているとき、ハルさんは相手に寄り添い、楽しそうな顔や悲しそうな顔をして話を遮るでもなく静かに聞き続けていたが、最後の話を聞いているとき、ハルさんは返事もせずに悲しそうな顔をして固まってしまっていた
親を亡くした子供のようなその表情に思わず近づいて肩を叩くと
「あぁ、クロ、そろそろ帰ろうか」
と無理やり作ったような笑顔でこちらを振り返ってくれた
_______________
「春が遅れている」
その一言で、ようやく気づいた
今は冬の時期である
なぜ、私はこんなに大事な時期に下界に降りる等と考え着いたのだろうか
春を巡らせ舞を踊るのが、私の仕事の筈なのに
弟達は自分を探しているはずである
戻らなくては、と考えると同時に思い出す
弟達は一体どんな顔をしていただろうか
母上は、父上は、どんな顔をしていただろうか
あの子の名前は、あの家の色は、あそこから見える花の名前は
思い出そうとすると歩けないほど、左目が割れんばかりに痛んできた
酷く痛む左目を押さえていると、右肩に優しく手が置かれる
「ハルさん?大丈夫ですか?」
押さえていた手を外すとクロが心配そうに私の顔を見ていた
その姿にまた"誰か"の姿が被さる
「ごめんねクロ、大丈夫だよ」
歩みを再開させ、もう一度思い出そうと考え始めるとまた気づいた
私は何を思い出そうとしていたのだろうか?それすら思い出せないことに
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