5-2
夜が来た。
老婆に呼ばれて部屋を出る。
支度をして扉を開けると、女が座っていた。
長い髪を垂らしている。足元に汚れた衣服とブーツが放置されていた。机の上には、ぼろぼろになった本が置かれていた。
女は怜を見た瞬間、目を見開いた。
「お前、名前は」
女が言った。女の細い切れ長の目が、怜の瘦せた体を見ていた。
怜は、女の問いに答えた。「怜」
「歳は」女が言った。
怜は首を振った。
女はベッドに腰かけたまま、怜の全身をじいっと見つめている。
「き、来なさい」女は怜の目を見て言った。
怜は女に近づいた。すると、さっと女の手が伸びて、怜の腕を掴んだ。目が回る。
気が付くと、女が怜の上で、馬乗りになっていた。
「どこで生まれた」
女はわずかに息を切らしていた。
「わからない」
「きょうだいは?」
「わからない」
「いつからここにいる」
「わからない」
「なぜ」
「わからない」
女の手に力が籠った。怜の腕に圧力が加わる。
「お、お、覚えていないのか」
怜ははっとした。覚えていない。思い出せなかった。自分がいつからここにいるのか、なぜここにいるのか、なぜ自分は怜という名前なのか。もしかすると、女は自分のことを知っているのでは、と思った。
「だれ」
女は怜の言葉を聞かず、おもむろに立ち上がると、机に飛びついた。古い本を開いて、必死に紙を捲っていく。
「あれ、あれ、あれ、ここ、違う違う、こっち。もっと後ろ後ろ。あ、あぁ! やっぱり。やっぱりやっぱりやっぱり。ああ。ああああぁ。あああああああああああ。こんなところに。そうか、そうか、子供に化けていたのか。どうりで。ああ、見つかった。やっと、やっとやっとやっとっ見つけた」
女は勢いよく振り返り、怜の顔面を凝視した。目に強い光が宿っていた。
「お前、私と一緒に来い」
「だれ」
「私はシオンだ。私はお前を連れて行かねばならない」
「どこへ」
怜が言うと、シオンはいきなり、猛烈な勢いで話し始めた。
「私は救われなければならない。そのためにお前を連れて行かねばならない。私は救われなければならない。それは私が純粋でないだからだ。純粋な女ではないからだ。私は女だ。私は女性器を持っていて、男に性的興奮を覚える。しかし、恋愛感情を覚えるのは女に対してだけだ。意味が分かるか。私は体も心も女だ。そして男と交わりたい。同時に女と恋愛がしたい。性的興奮は感じない。意味が分かるか。矛盾していると思うか。お前は女か。ならばお前には女性器があり、男に性的興奮を覚え、恋愛感情も男に対して抱くのか? お前の性自認は女か。本当にそうなのか。自分が女である、というのは一体どういう感覚なのか。なぜ女だとわかるのか。自分の性器に違和感を抱かないからか。男を好きになり、交わりたいと思うからか。自分は男ではないと思うからか。神がそう言ったからか。神の声を聞いたからか。周りに言われたからか。自分で本当にそう感じたのか。お前が勝手に定義したのか。
私は女であり、そして女ではない。矛盾しているのだ。しかし私の矛盾している内面は、私にとっては全く矛盾などしていないのだ。男に対する性欲と女に対する恋愛感情が全く同時に独立に存在しているのだ。これは一体どういうことなのか。そもそも世界には男など存在せず、女のみが存在しているということなのか。またはその逆か。あるいは異なるものが同時に存在することはおかしいことではないということなのか。ならばなぜ私は、男と女に対してわざわざ別の欲求を抱くのか。男女どちらにも恋愛感情と性的欲求の両方を抱くほうが自然ではないのか。むしろすべての人間がそうあるべきではないのか。そうでないならば、そもそもなぜ男と女があるのか。なぜ分かれていなければならないのか。それと同時に、なぜ男でも女でもある者や、男でも女でもない者が存在するのか。男と女とは何なのか。なにが男で、なにが女なのか。なぜ人間は人間を男、女、それ以外で区別しうると考えられているのか。なぜ性を平面的にしか捉えようとしないのか。なぜ区別されなければならないのか。私はなぜ自分がどういう性かを知らなければならないと思うのか。
私は性に縛られている。私だけではなくすべての人間が性に縛られている。私は変えなければならない。壊さなければならない。私を縛る性を殺さなければならない。私は自分が女であることを捨てなければならない。ただしそれは男になることではない。私は男であってはならず、女であってはならず、それ以外であってはならない。性を持ってはならない。性別からの脱出が私の救いだ。すべての人間の救いだ」
シオンは怜の腕を掴んだ。「来い」怜を立ち上がらせる。その時、怜は気付いた。シオンの左手の薬指が欠けていた。
シオンの手に引かれて、怜は部屋を出た。廊下の両側には扉が並んでおり、嬌声や衣擦れの音が漏れていた。シオンは館の主に硬貨を何枚か渡し、店から怜を連れ出した。
怜にとって、外に出るのは初めてのことだった。通りには、怜のいた館と同じような建物が何件も並んでいた。軒先には明かりが吊るされており、黒い服を着た男たちが、声を上げていた。様々な格好をした男たちが、ゆっくりと流れを作るように歩いている。稀に女も混じっている。
シオンは怜の手を引き、人混みをすいすいと通り抜けていった。シオンが堂々と目の前を横切っても、目を向ける者はおらず、気付いてさえいないようだった。怜は、体が透けてしまったのではないかと思った。
通りをしばらく進むと、やや広い場所に出た。円形の広場で、四方に道が伸びている。中央では大きな火が焚かれている。広場を囲むようにして店が開かれており、椅子に座った男たちが酒を呷っていた。
怜は、シオンに引かれて広場を出た。しばらく歩いた後、シオンは建物の間の、暗い路地に入った。途端にざわめきが遠くなる。人が一人通れるほどの細い道を進んでいく。腐った卵のような臭いが漂っている。生温い空気が路地に停滞していた。
細い路地は、別の道に繋がっていた。道幅は狭く、人がいない。音がしなかった。
砂を踏むシオンのブーツが、ざり、ざり、と規則的に音を立てる。対する怜は裸足だった。疲れていた。足の裏が痛かった。今まで長い距離を歩いた記憶がなかった。しかし、遅れてはいけない気がして、無理に歩を進めた。
ふいに、シオンが立ち止まった。怜もならって、足を止めた。小さな家だった。正面に扉がある。
シオンは懐から鍵を取り出し、木製の扉をぎい、と開けた。
扉の先は暗闇だった。何も見えない。
「入れ」
シオンが言って、怜を中に引き入れた。怜は、闇に飲み込まれたような感覚がした。
「ここで寝ろ」
足の裏に布の感触があった。中はどのくらいの広さがあるのか、感覚が掴めなかった。怜は言われた通り、横になった。布の下は固い。どうやら床は石で出来ているようだった。怜は、布越しに伝わってくる石の冷たさを感じた。
シオンは怜の手を離すと、どこかへ行ってしまった。オグの気配も、怜は寝返って俯せになり、布の匂いを嗅いだ。黴臭かった。遠くのほうで、物音と声がしていた。シオンのものだと思った。
怜は目を開けていた。とろりとした闇が、眼球に張り付いていた。
〈闇〉
ふと、途轍もなく遠い過去の記憶が蘇ったような気がした。怜は〈闇〉を知っていた。懐かしい、と思った。〈闇〉は、怜の目を丁寧に舐めていた。胸の奥がむずがゆくなった。怜は、ふふ、と笑いを漏らした。「ふふ。こそばゆい」怜が言うと、〈闇〉は目を舐めるのをやめ、今度は首筋をなぞった。「くふふ。きもちい。こそばゆくて、きもちい。ねえ、もっとやって。きゃあ。ふふ、くふ。ねえ、もっと前のほう舐めて。あはは、きもちい」
かわいい。怜は思った。かわいい。赤ちゃんみたい。弟みたい。
やがて満足したのか、〈闇〉は気配を消した。怜はほんの少し寂しいと思った。黴臭い布に顔を当てて息を吸う。また、来てほしいと思った。〈闇〉を褒めてあげたかった。
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