4-4

 怜がヨウコのことを好きになったのは、中学一年の初夏だった。

 怜は毎日、ショウタとヨウコが神社の裏手で会っているのを、木々の間から盗み見た。初めは好奇心からだった。しかし、ずっと見続けているうちに、ヨウコに惹かれるようになっていった。背の高さや笑顔、足の白さ、毛の一本一本が好きになっていった。

 弟が羨ましいと思った。ヨウコとの関係に憧れた。怜は、ヨウコと触れ合うことを夢見るようになった。

 中学一年の夏休みに、ヨウコが怜の家に遊びに来たことがあった。ショウタとヨウコと三人でテレビゲームをした。その時に、怜は初めてヨウコと言葉を交わした。それ以来、ヨウコはたまに怜の家に遊びに来るようになり、その度に三人でテレビゲームをした。家の外でも、ヨウコは怜を見かけると、声を掛けてくるようになった。ヨウコはよく笑った。怜がゲームでミスをしたとき、道で躓いたとき、飲み物で咽たとき、ヨウコは口を大きく開けて、目を細めて、体を仰け反らせて笑った。怜はヨウコに会いたくて、登下校の時間を合わせたり、休日に家の近くをうろついたりした。

 中学二年の夏だった。放課後、怜は小学校の近くでヨウコを待ち伏せ、校門を出たヨウコに声を掛けた。怜は遊ぼうと言った。ビニールシートを持ってくるように言った。ヨウコは言われた通り、リュックにビニールシートを入れて、待ち合わせ場所の神社にやって来た。怜がヨウコの手を引き、階段を上る。木々が光を遮っている。蝉が鳴いている。

 レイプするつもりだった。

 我慢できなかった。木陰から眺めているだけでは足りなくなっていた。ヨウコを思い浮かべて性器を触るだけでは足りなくなっていた。

 来る。来る。

 怜は思っていた。ヨウコが確かに目の前に在った。

 来る。来ている。

 ビニールシートの上にヨウコが座っていた。

 寝そべっている。

 胸元のボタンが外れている。

 いる。ヨウコがいる。

 ゆっくり。ゆっくり。ゆっくり。近く。

 在る。

 しかし、それまでだった。怜の記憶は断絶していた。

 気が付くと、辺りは夜になっていた。ヨウコはおらず、怜は一人、石畳に寝そべっていた。


 週明け、ユウキとその取り巻きたちは、いつものように怜に「干渉」した。上履きを別の靴箱に隠したり、怜のいない間にシャーペンの芯を全て捨てたりした。休日に怜に会ったことなど、忘れたかのようだった。

 怜は、上履きを探して授業に遅れ、ボールペンで小テストを解いた。午後には、ボールペンの芯も捨てられた。

 怜は怒らなかった。抵抗しても怒っても、どうしようもなかった。怜の無気力な様子を見て、取り巻きたちは笑った。

 いつもは散発的に起こる「干渉」が一か月、休みなく続いた。

 秋が終わった。

「じゃんけんぽん。はいー出さんかったレイくん負けー」

「ミスド奢りやな」

「俺がみんなの分買ってくるから、財布かしてよ」

 非常階段の下で、怜はユウキたちに囲まれていた。

 放課後だった。金網と校舎に挟まれた狭い空間は夕日が差さず、ひんやりとしていた。地面は湿っていて、苔が生している。土の匂いがした。

 一人の男子が怜からカバンを取り上げ、中を漁った。

〈猿〉は怜の横顔を見つめていた。鞄を漁る男子生徒と重なり合っていた。

「ありがとうな、じゃあかりるわ」

 男子生徒が、探り当てた小銭入れをユウキに手渡した。

「レイくんやさしいやん」

 別の男子が笑いながら言った。


「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」


 枯れた声がした。怜は〈猿〉に目を向けた。

〈猿〉が声を発していた。

〈猿〉は、小銭入れを持つユウキに近づいた。

「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」

 怜は〈猿〉の動きを目で追った。〈猿〉はゆっくりとユウキに近づき、やがて重なり合った。

「あ、なに。なんか言いたいことあんの」

 怜は〈猿〉だけを見ていたが、勘違いしたユウキは舌打ちをした。

「おい」

〈猿〉は、ユウキの右手をじっと見つめていた。怜の小銭入れをじっと見つめていた。

「おまえまじやめろって、その黙るやつ。それ、腹立つねん。なあ、おい、聞いてんのか。おい」

 ユウキが、怜の腹に靴の裏を押し当て、蹴った。怜は後ろによろめく。二人の男子生徒が、怜の両脇を支えた。

「おい、俺が話したら返事せえよ。ほら、返事しろ」

 怜は黙っていた。ユウキは怜の脛をごつん、と蹴った。錐で穴を空けられたような、鋭い痛みを感じた。じんじんと痛んだ。足が震えた。〈猿〉は怜の様子を気にもせず、小銭入れを見つめているだけだった。

「おい、答えろ」

 怜は何も言わなかった。ユウキは怜の腿をどす、と蹴った。

「おい」「おい」「おい」

 ユウキが何度呼び掛けても、怜は決して答えなかった。目の前の空間を睨んでいた。〈猿〉が助けてくれることはないのだと思った。一人で耐えるしかないと思った。怜が呼びかけを無視する度に、ユウキは怜を蹴った。腰、腹、肩、と順番にごす、ごす、とつま先で蹴りつけた。痛かった。息が止まった。痛みを我慢しようとすると、涙が出た。頭の中が、痛みでいっぱいだった。どこもかしこも痛くて、どこが痛いのかわからなかった。ただただ痛かった。苦痛だった。抜け出したかった。辛かった。動けなかった。どこにも行けなかった。誰も助けてくれない、そう思うと、余計に痛くなった。怖かった。もう、痛くなくなりたい。解放されたい。許してほしい。終わりたい。楽になりたい。どこかに行ってほしい。死んでしまってほしい。痛い。痛い。ずっと痛い。さっきから。昨日から。もっと前から。痛い。痛い。痛い。これからもずっと痛い。肌が肉が骨が体の中にあるすべてのものが痛い痛い痛い今この時すべて永遠に痛い。


 もういやだ。


 痛い。まいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちまいにちずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。

 終わらない。決して終わらない。一秒先も二秒先も三秒先も、奴らにいじめられている。何秒先でも、いじめられている。殴られて、蹴られて、痛いまま、一秒一秒をこつこつこつこつこつこつと生きている生きているずっとずっと生きている。何千秒も何万秒も何億秒も、気の遠くなるような数の一秒一秒一秒一秒を生きていかなくてはならない。

 怜は意識が遠のいて、目を瞑った。

 空を飛んでいた。怜は海の上を飛んでいた。正方形の島がある。怜は崖に降り立つ。森に入り、森を抜け、丘を降りる。川の手前に集落が広がっていて、子供たちが走り回っている。太った女が、籠の中の芋を選り分けている。怜は一軒の家に入る。囲炉裏に火が入っている。粥が沸いていて、湯気が立ち込めている。もうもうと上がる湯気で白くなった屋内に、浅黒い少年が座っている。少年は裸だった。痩せこけており、性器も萎びている。裸で、茣蓙の上に座り、粥をかき混ぜている。怜に気づいた少年は顔を上げて、怜に笑いかける。何か言っているが、怜には理解できない言葉だった。

¥いれあこ、いえr!¥

 少年が粥を椀に掬い、怜に手渡す。怜は湯気の立つ椀を覗き込む。椀の中は海で、島がいくつも浮かんでいる。怜はそのうちの一つの島の上に立った。草原だった。怜の近くに、顔のところどころに入れ墨をした男と、白い薄衣の女が立っている。男と女は微笑んでいる。何かを呼び掛けている。男が笛を吹く。見たことのない獣が現れる。獣が怜を取り囲み、圧し潰す。

 痛い。痛い。痛い。

 胸の中がぐるぐると渦を巻き、波打っている。獣が押し寄せる。腹を殴られている。ユウキが睨んでいる。獣とユウキの姿が重なる。痛みがやってくる。

 痛い。痛い。痛い。

 獣たちが発熱を始める。男と女は泣いている。草の上に両手をついて、泣いている。男と女の両肩から赤い煙が恐ろしい勢いで吹き上がる。飛沫が天球に模様を作る。すぐに空のすべてを赤く染める。痛みがやってくる。

 痛い。痛い。痛い。

 女が口を開ける。真っ赤な口を開ける。叫ぶ。喉の奥から、声を絞り出す。声は枯れている。唇が震えている。目を見開いている。髪の毛の間から赤黒い血が垂れている。血が女の顔面を覆う。目だけが血の間から怜を見つめている。怜の目を見つめている。

 痛い。痛い。痛い。

 ユウキが腹を殴る。何度も殴る。繰り返す。繰り返す。

 犬に圧し潰されながら、怜は空を見上げた。顎が外れそうなほど口を開いて、声を出した。

「ああ、あああああああああ、あああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああああああああ」

 怜の目と女の目は繋がっていた。瞳孔に針が何本も何本も突き刺さる。痛い。ぎちぎちぎち、と針が押し合いながら、瞳の奥へ奥へと入り込む。無数の針が瞳孔を押し広げる。はちきれる。

「あああああああああああああ。あああああああああああああああああああ」

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。しぬ。しう。しう。なくなる。なくなる。私がなくなる。怖い。こわい。こわい。こわ。こわ。こ、こ、こ、こ、こ、こ。


 子。


「子を」「私が」「私の」「子ら」「子を」「私」「在る」「死ぬ」「膿む」

 吐く。

 怜はその場に嘔吐した。

「うわっ」「きたねっ」「最悪やお前」

 怜を捕まえていた男子二人は、とっさに怜の体を放した。ユウキは怜の脇腹にどすり、と蹴りを入れた。

「もう死んでまえよ」

 怜は土の上に蹲った。吐瀉物のつんとした臭いが、鼻に刺さった。胃酸で喉と鼻の奥が痛かった。吐き気は収まらなかった。怜は蹲ったまま、何度も吐いた。腹の奥がびりびりと痺れていた。額に触れる土が冷たかった。

「じゃあ、俺らでミスド買ってくるわ」「あ、ありがとうな。はは」

 ユウキはもう一度、怜を蹴ってから、その場を去った。取り巻きたちは、笑いながらユウキの後を追った。怯えているものもいた。

〈猿〉は男子生徒たちが去ったほうに顔を向け、しきりに同じ言葉を繰り返していた。

「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」

「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」

「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」

「わたしの。

 とrな。わたs

 iの

 を、

 見」

 しばらくして吐き気が収まった後、怜は放置されたカバンを拾い上げ、肩に掛けた。よろよろと歩き出した。

 校庭から、生徒たちのかけ声が聞こえる。ボールを蹴る鈍い音がする。夕日が怜の顔面を照らす。ざり、ざりと、靴の裏で砂が擦れる。

 気が付くと、怜はヨウコの家の近くにいた。川をチョロチョロと水が流れている。

 腹が痺れている。ひくり、ひくりと引き攣る。頭も痺れていた。なぜ、ヨウコの家を眺めているのかと、不思議になった。すぐにその疑問も靄となって消えた。

 怜は、塀の上からヨウコの部屋を覗いた。窓は締まっており、カーテンがかかっている。怜は家の表に回った。表には塀がなく、家の前が駐車スペースになっていた。二台分のスペースに車はなかった。どの窓も、カーテンが閉ざされていた。怜は敷地の中に入り、扉の前に立った。黒い扉だった。怜は息を吸った。脇腹が痛んで、咳き込んだ。怜は、扉の取っ手を掴んで、引いた。

 がちゃん。ひい。鍵が開いている。玄関には、小さい靴が一足、揃えて置かれていた。赤い靴だった。ヨウコの靴だった。

 カラスが鳴いている。怜は靴を脱ぎ、板張りの短い廊下を歩く。左右に部屋が一つずつ並んでいる。暗い。

 廊下の先はリビングだった。大きなテレビと白いソファがある。棚の上には、犬の置物と並んで、家族写真が飾られている。キッチンは汚れておらず、食卓には、肉やキャベツの入ったビニール袋が放置されていた。怜は、リビングの奥のドアに目を向けた。

 いる、と思った。ヨウコがいる、と思った。喉が渇いた。怜はドアの前に歩み寄った。

「ヨウコ」擦れた声が出た。「ヨウコ」擦れた声で、何度も呼んだ。「ヨウコ」「ヨウコ」

 ヨウコに会いたい。痛みを、取り除いてほしい。助けてほしい。

「れいくん?」

 ドアの向こうから、声がした。

「れいくん? 来たの?」

 にわかに鼓動が速くなった。ヨウコの声だった。音色が、耳の奥に纏わりついた。ずっと欲していた声だった。目の前で色が弾けた。

 パン! パン! パン! パン!

 頭の中の細胞が、次々と破裂した。

 パン! パン! パン! パン!

 鼓膜が破裂した。水晶体が破裂した。味蕾の一つ一つが破裂した。肺胞が破裂して、皮膚から空気が漏れてゆくのを感じた。怜は自分自身が破裂する音を聞いた。

「あ……うん」声が出た。「会いに、来た」声が震えた。

「どうして?」

「あ、会いたかった、から」

 怖い、と思った。否定される。ヨウコに、否定される。拒否される。恐ろしかった。

「ゆる、して。ごめん」「あいたか、ったから」「来た」「ごめん」

 怜は言葉を重ねた。ヨウコは何も言わない。胸が痛くなった。心臓がどぐ、どぐ、と自らを強く強く圧迫していた。

「おねがい、開けて」「ごめんなさい」「おねがいします」

 怜はドアに額を強く押し当てた。瞼をきつく閉じた。ヨウコの息遣いが聞こえる。いる。ヨウコがいる。会いたい。姿を見たい。息を吸う度に、肺に痛みが走った。息を吐く毎に、細胞が腐っていく気がして、恐ろしかった。助けてほしい。逃げたい。このドアの向こうに逃げたい。痛みのない場所に逃げたい。怜は跪いた。

「ふう、ふう」

 怜は、自分が勃起していることに気がついた。勃起はズボンに阻害されており、じりじりとした痛みが上ってくる。

 見て欲しい。

 怜は思った。今、感じている痛みを、見て欲しい。中に満ちている痛みを見て欲しい。土まみれの膝を見て泣いた顔を見て痣だらけの腹を見て欲しい。ヨウコの目に見られたい。怜は心の底から望んだ。ヨウコに見られることだけを望んだ。怜の体は、ヨウコに見せるためのものだった。汚し、傷つけるためだけのものだった。汚れだけが、怜の体の価値だった。

 会いたい。

 会いたい。

 助けて。

 かちゃり。

 ドアが開いた。

 怜は見上げた。

 ヨウコが立っていた。怜を見ていた。


 救い。


「れいくんだ」

 ヨウコは扉を開けた。

「どうしたの。おなか痛い?」

 ヨウコは息を吸った。

「痛い? 大丈夫? 泣いてる。大丈夫?」

 ヨウコは怜に顔を向けた。

「れいくん? 来たの?」

 ヨウコは前を向いた。

 ヨウコは椅子に座っていた。

 ヨウコは壁に凭れていた。

 ヨウコはなんの前触れもなく、出現と消失を繰り返した。順番が滅茶苦茶なコマ送りを見ているようだった。現在がぶつ切りになって、怜の前を通り過ぎ、そして戻った。まったく別の時点どうしが接続していた。

「立って」

「遊ぶ?」

「ショウくんは?」

「大丈夫?」

 今、怜の前に確かに存在している〈現在〉は一つであった。そして無数に存在してもいた。怜の視界では、無数のヨウコが怜に話しかけていた。そして、無数の怜がその光景を目にしていた。無数の怜は更にその視界に無数のヨウコを映し、さらに無数の怜がそれらの光景を目にしていた。〈現在〉は怜が知覚する以前から無数に存在しており、それぞれが独立していた。怜が知覚する〈現在〉は途方もなく膨張を続け、同時に一つに収束してもいた。

「ぼく、ヨウコに、会いたくて。あ、あ、遊びたくて、来た」

 怜は言った。目の前には無数の〈現在〉が存在し続けていたが、なんとか言葉を発した。

「ショウくんは?」

 ぱ、とコマ送りが止まった。目線の先にヨウコがいた。

「家にいる」

「そうなんだ。何して遊ぶの?」

 ヨウコは床に座り込んだ。ハーフパンツの隙間から、白い下着が見えた。

「ぼく、は」


 ぼく?


 何かが言った。

「わからない。なんでも」

「じゃあ、スプラトゥーンやろ」

 ヨウコは部屋を出て、リビングのテレビとゲーム機の電源を点けた。怜にコントローラーを手渡す。

「あはは、れいくんめっちゃ下手。あはは」

 ヨウコはキャラクターをすいすいと操作し、敵を次々と倒していった。

 カーテンの隙間から、夕日が細く差し込んでいる。暗い部屋の中で、テレビがぴかぴかと発光している。怜は時折ヨウコの横顔に目を向ける。ヨウコは胡坐をかいている。コントローラーのスティックを指で弾くのと一緒に、足の指がくね、くねと動く。あー、と悔やんだり、あはは、と笑ったりする。白い肌にテレビの光が反射している。ヨウコの肌の匂いがする。

 怜がミスをすると、ヨウコは必ず笑った。口を大きく開けて、目を細めて、体を仰け反らせて笑った。怜はそれが嬉しかった。ヨウコを楽しませることができているのだと思った。

 しばらくすると、表に車が停まる音がした。玄関が開いて、ヨウコの母がリビングに入ってきた。

「ただいまー」

「おかあさん。おかえりー」

「電気つけときなよー。目え悪なるで。あれ、お友達? 遊びに来てくれたん?」

 ヨウコの母は、怜に目を留めた。

「初めて来る子?」

「うん。れいくん。ショウくんのお兄ちゃん」

「ああ、そやそや。ショウタくんのな。まえ王将に来てた。……あれ、ショウタくんのお兄ちゃんて、いま中二、やったわな」

「うん」

 ヨウコの母の顔が強張った。

「ああ……そう。うん? お兄ちゃん服やら膝やらえらい汚れてるけど、大丈夫?」

 ヨウコの母は、怜の体を怪訝そうに見つめた。

「大丈夫、です。学校で転びました」

「そう。うちのお風呂入って行ってもいいけど、どうする?」

「入らなくて、いいです」

「そう、そしたらヨウコ。もうゲーム終わりな」

「えー」

「もう帰ってもらいな。お兄ちゃんの家の人も心配するやろ」

 ヨウコの母はキッチンに入って、忙しなく動き始めた。ヨウコが抗議しても、無視して手を動かしていた。

「うーん。わかった。じゃあ、帰る?」

 ヨウコの言葉に、怜は頷いた。

 怜はヨウコの後をついて、リビングを出た。

「お邪魔、しました」

「はいはいー」

 ヨウコの母は、怜に目を向けずに言った。

「またね」

 玄関で、ヨウコは小さく手を振った。

 空は青黒かった。怜はアスファルトの上を歩いた。どこかから、焼き魚の匂いが漂ってきた。怜は空腹を感じた。気づけば、〈猿〉が隣を歩いていた。〈猿〉は、口を閉ざしていた。蟋蟀が鳴いている。空気がひんやりとしている。ごおお、と音を立てて、車が横を通り過ぎる。

 怜はヨウコの笑顔を反芻しながら、夜に変わりつつある道を歩く。

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