4-3

 午後、怜たちはショッピングモールに向かった。県内に一つしかないショッピングモールは、休日のため賑わっていた。

「お母さん手芸売り場に行ってくるけど、どうする? おまんらどこか適当に見てるか?」

 父はすでにどこかへ行ってしまっていた。ショウタは母について歩いてゆく。怜は二人とは離れて、モール内を散策した。

 喉が渇いていた。冷房が効いた屋内は、少し肌寒かった。つるつるとした床に、自分の影が写っていた。

 書店の前を歩いていると、聞き覚えのある声がした。怜は見つからないよう、足早に歩いた。

「あれ、あいつおるやん」「ほんまや」「おい、レイ。こっち来いよ」「きぐうやなーww」

 見つかった、と思った。

 怜を呼んだ男子生徒が目の前まで来て、手首を掴んだ。書店の中へと怜を引っ張って行く。

 雑誌コーナーでユウキたちがたむろしていた。

「こんなとこで何してんの」「お前みたいなやつがイオンにおったらあかんやろw」「おいこれいつもの罰ゲームやらなあかんのちゃうんw」「トイレ行こうや、トイレ」男子生徒たちは、口々に言って笑った。ユウキは口を開かず、怜を見つめていた。

 怜は手首を掴まれたまま、男子生徒たちの後をついて歩いた。

 自分が歩いてきたほうを振り返る。手芸用品の店舗が遠くに見えた。人も多く、母たちが怜を見つける可能性は低かった。見つけたとしても、怜が無理やり連行されているとは、考えないだろうと思った。

〈猿〉は、怜と並んで歩いていたが、怜を見てはいなかった。気まぐれで怜たちと同じ方向に歩いているように見えた。

 一人だと思った。周りにいる人は誰も、怜を認識していなかった。怜は、わざとゆっくりと歩いた。怖かった。

「はやく歩けよ。だるいって」

 手を引く男子が、怜の脛を蹴った。

 怜たちは、薄暗い通路に入った。壁に化粧品のポスターや、注意書きの張り紙が貼ってある。客の声と放送の音が遠ざかる。怜たちは、誰にも見えなくなる。

 怜は、自分の手首と、それを掴んでいる男子の腕を見比べた。怜のほうが一回り細い。背も小さい。力も弱い。おとなしく、ついていくほかない。

 なぜ?

 怜は、ふと思った。

 なぜ僕は、こいつらについていっている?

 自分の行動の意味が分からなかった。なぜこいつらの言う通りにしているのか。なぜこいつらに従っているのか。

 僕の意志ではない。ならばなぜ?

 なぜ、僕でないものが僕の行動を決めることができるのか? どうしてそれが可能なのか。

 意味が分からなかった。

 おかしい、と思った。

 僕は僕なのに、こいつらは僕の行動を強制する。強制されている。そう思った途端、怜は引っ張られて歩くことが、たまらなく辛くなった。苦痛に感じた。

 怜は精いっぱいの力を込めて、腕を振り払った。

「おい」

 怜を引っ張っていた男子が振り返る。

「お前さあ、調子乗んなよ」怜の髪を掴んで、引っ張った。そのせいで怜は前のめりになり、膝をついた。「ふつうにうざいんやけど」

 痛い、と思った。目尻から涙がにじんだ。男子生徒の力は強く、髪を掴む手を振りほどくことは出来なかった。怜は髪を掴まれたまま、トイレに連れていかれた。鏡の前で、自分と向き合う。ユウキとその取り巻きたちが、怜の顔を鏡越しに見ている。

「おまえ頭洗えよ。手ベッタベタになったんやけど」怜の髪を引っ張っていた男子が、自分の掌を見て、言った。怜の頭髪は乱れていた。碌に洗っていない髪が、けばけばと逆立った。

「うわ、なんかテカってるやんww」「きたね」「ううぇーい」「おいっ、ほんまやめろよマジで。それガチで汚いやつやぞ」「早く手ぇ洗えよ」「こいつの頭も洗ったほうがいいやろ」

 男子の一人が、怜の頭を押さえ込んだ。

 しゃあ。頭上から音がして、後頭部から首筋に水道水が浸み込む。じわじわと、怜の髪が水を吸う。ガシガシと爪を立てられ、怜は痛みに悶えた。取り巻きたちは、数人がかりで怜の体を押さえつけている。両腕を洗面台に押しつけられ、台の角に胸がめり込む。無理な姿勢のため、腰と背中が痛い。液体石鹼がこめかみを伝って流れる。薄緑の泡が、耳の穴に入る。石鹸が目に沁みる。怜は瞼をきつく閉じる。誰もいない。怜と、ユウキたちしかいない。引き攣った笑い声が聞こえる。囃す声が聞こえる。水の落ちる音がする。石鹸の臭いがする。 洗面台の滑らかな硬さを、顎の下に感じる。唇から連続的に滴が落ちる。爪が頭皮を引っ掻く。怜の髪から油分がなくなり、髪の毛同士が絡まる。取り巻きはなおも手を動かす。絡まった髪が抵抗になって、頭皮が強く引っ張られる。視界を奪われている。ここがどこなのか分からなくなる。頭が痛い。

 怜は、体を必死にゆすった。もがくことしかできなかった。顔面から滴っているのが、水道水か涙か分からなかった。口に石鹸の混じった苦い水が入り込む。

「アハハハハ! アハハハハハハ!」「なに、いきなりなにw」「どうしたww」「ハハハハハ!」


 かわいそうになア。

 死ね。死ね。


 何かが笑った。

「ガサガサすんなよ」「うざいうざい」「しつこいぞお前」

 取り巻きが、怜の背中をばちんと叩いた。怜は咳き込んだ。わずかに目を開く。視界は濁っていた。

 取り巻きたちが拘束を解く。怜は洗面台に磔にされたような恰好のまま、呼吸を繰り返した。

 ユウキたちが去った後、怜は個室に入り、便器に座った。床は湿っていて、小便の臭いが鼻を突いた。怜はトイレットペーパーを手に巻き取り、濡れた髪を拭いた。

 だるかった。疲れていた。身体中の力が抜けていた。

〈猿〉は体の左半分を扉の外に出して、虚空を見つめていた。

 怜はトイレットペーパーを何回も何回もちぎり取って、髪に付いた水を拭き取った。


 家に帰ると、怜はベッドに突っ伏した。息苦しくなっても、体勢を変えなかった。心臓の動きがだんだんと速くなる。

 死ねるだろうかと思った。

 怜は顔を上げた。部屋の中に、赤々と夕日が差し込んでいる。怜は立ち上がって、窓を開けた。風がカーテンを舞い上げる。澄んだ空気が吹き込む。少し肌寒い。

 寂しい、と思った。胸が弱く締め付けられるように感じた。

 怜はその場で、カッターシャツとズボンを脱いだ。風がびゅう、と吹いて、鳥肌が立った。床に放置されていた短パンとTシャツを着て、ベッドに潜り込む。首まで布団を被る。顔に冷たい風が当たった。目が乾いて、怜は瞬きを繰り返した。

 怜は目を瞑った。

 ヨウコ。

 怜はパンツの中に手を差し込み、性器を掴んだ。

 ヨウコ。

 怜は、性器を引っ張ったり、戻したりした。

 ヨウコ。ヨウコ。

 怜は、この前の休日に見たヨウコの顔を思い出そうとした。

 こしこしこしこし。

 ヨウコの顔が、脳裏にぼんやりと浮かび始める。右手を機械的に動かす。ヨウコの顔にかかった靄はなかなか晴れない。怜は手を動かす速度を上げる。

 ヨウコ。ヨウコ。好き。すき。

 こしこしこしこし。

「はあ。はあ」

 こしこしこしこしこしこしこしこしこしこし。

 呼吸が浅くなる。背中にじわりと汗をかく。右肩が痛くなる。靄は晴れない。「ふう。はあ」尻に力を入れる。腰が浮き上がる。腿が震える。靄が晴れない。ヨウコが見えない。

 こしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこしこし。

 いつまで経っても、勃起は始まらなかった。

 はあ。怜はため息を吐いて、腕の力を抜いた。そのまま天井を見上げた。斜陽に照らされた埃が、ふわふわと漂っている。怜は息を吸った。胸が痛くなるまで吸って、浅く吐いた。

 顔を横に向けると、〈猿〉と目が合った。産毛が西日で金色に照らされている。

 怜は、石英の瞳に手を伸ばした。指が眼球をすり抜ける。空を切る。

〈猿〉は微動だにせず、怜を見つめている。

 怜は目を瞑る。ぐわんぐわんと空間が揺れている。耳鳴りがする。白色が浮かび上がる。立方体のような円錐のような立体が目の前に迫って、離れていく。自分の顔が、空気を入れた風船のように肥大する。萎み、膨らむのを繰り返す。神社の境内がぱっと浮かび、消える。何もない中にぼんやりとした光が生まれ、渦を巻く。

「レイ」「レイくん」

 耳元で、誰かが囁く。

 声が聞こえる。後ろから、足元から、髪の毛の間から、声が聞こえる。

 怜は夢を見ている。


 手を繋いでいる。社の壁に凭れて、肩を触れ合わせている。繋がっている。目を瞑っている。風が吹いている。彼が目を開ける。彼女の顔を覗き込む。彼女も瞼を開く。彼らの目が合う。微笑みを交わす。繋がる。目の孔と孔。針じゃない。線で。道で。一つに近づいている。いつからだろう。いつからだろう。いつからだろう。

 雨が降っている。今日も手を繋いでいる。雨から隠れて、ひっそりと繋がっている。彼女の脚が足が濡れている。軒から出ているからだ。彼の足は濡れていない。彼女が笑って膝を畳む。水を弾いている。彼が笑う。ピンクのランドセル。彼女が彼に頭を預ける。彼は繋いでいない方の手で、彼女の頭に触れる。彼女が頭を擦り付ける。猫? 猫? いいな。いいな。雨が落ちる。僕は濡れている。少しずつ濡れている。

 今日も手を繋いでいる。彼らは眠っている。凭れ合っている。風が吹く。葉が揺れる。髪が揺れる。彼らは眠っている。風が吹いていることを知らない。時間が流れていることを知らない。まだ目を覚まさない。知らない。知らないのに知らないことを知らないまま知らないでいる。

 今日も手を繋いでいる。

 今日も手を繋いでいる。

 雨が降っている。今日も手を繋いでいる。

 風がびゅうびゅうと吹いている。今日も手を繋いでいる。

 雨が止んだ。今日も手を繋いでいる。

 今日も手を繋いでいる。今日も。

 手を繋いでいる。指を絡ませあっている。互いの指の腹と腹を触れ合わせている。手を指を介して連続している。一つになろうとしている。祈り? 手を繋いでいるわけではない。祈っているのだ。彼らは祈っている。半分ずつ祈っている。なぜ? なにを? 喜び。ああ。快楽。喜んでいる。彼らは祈り、同時に喜んでもいる。だから半分なのだ。未来に対して祈り、相手に対して祈っている。祈ることの喜びを感じている。影ができている。日陰なのに、影ができている。彼らの影。一つの影ができている。一つの影が無数にできている。光の粒の一つ一つが彼らに反射し、それ以外が地面に当たる。影の縁はぼやけている。不明瞭に在る。あらゆる角度から飛び込んだ光が、ばらばらに地面に当たるからだ。無数の光の粒が地面に当たり、光の粒が遮られた所をぼくは認識している。光のみが在る。影は存在しない。それでもぼくは影を認識している。同じだ。祈りも同じだ。彼らは影なのだ。世界の粒が祈りに遮られてできた影なのだ。在るように見えているだけなのだ。縁がぼやけた存在なのだ。じゃあ、ぼくも触れられる。知っている。影は曖昧だから。彼らは曖昧だから。ぼくは確かに触れることができる。彼女に。彼女を。することができる。ぼくも繋がれる。同じだから。影と影は近づくと吸い付き合うから。ぼくも彼女に吸い付く。彼女がぼくに吸い付く。一緒になる。一つになれる。彼女とぼくは同じ場に在って、だからいつでも溶け合うことができる。だから好き。したい。好きたい。ぼくは好きだ。


 ぼく? 


 違う。私だ。

 私が認識している。「ぼく」ではない。「ぼく」は確かに影ではあるが、「ぼく」のものはすべて私のものだ。「ぼく」が考えていること、感じていることはすべて私が「ぼく」に考えさせ、感じさせたことだ。「ぼく」の感受性は私が与えたものだ。「ぼく」が持つ語彙は私が与えたものだ。私が実在であり、本質だ。所詮、「ぼく」は私の影でしかない。「ぼく」が好きたいと思っているのではない。私が「ぼく」にそう思わせているのだ。「ぼく」はそう思わされているのだ。「ぼく」は「ぼく」こそが「ぼく」だと思っている。しかしそれは違う。そして私だけが知っている。「ぼく」は「ぼく」ではないと、私だけが知っている。

 私が 怜は目を覚ました。

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