4-2
その日も、授業と奴らの「干渉」が終わった。
怜は神社に向かった。鳥居を潜り、蝉が鳴き交わす中、階段を上った。苔生した石畳を歩き、社の裏手に回る。怜は雑木林の中に分け入って、神社の建物が見える位置にカバンを下した。そのままじっと身動きせず、ヨウコたちが来るのを待った。
日が暮れた。ショウタたちは来なかった。怜は一度、帰宅した。
夜になると、怜はそうっと家を抜け出した。夜空はよく晴れて、大きな月が出ていた。
神社の前を通りすぎ、学校の脇を通り過ぎた。
りいいいいいん。しりしりしりしりしりしり。じじじじ。
虫が鳴いていた。小川と並走する道沿いに、ぽつりぽつりと住宅が点在している。怜は月の光をちろちろと反射する川面を見ながら歩いた。ハローキティのビニールシートを丸めて抱えていた。ヨウコの家までもう少しだった。
ふう、とぬるい風が吹いた。
すると、いつの間にか月明かりが消えていて、〈闇〉が怜を包み込んでいた。何も見えなかった。
独りだった。
怜は独りだった。世界の誰も、怜がそこに存在していることを知らない気がした。怜の味方など一人もいないのだと思った。ただ在る世界に、独り放り出されたような気がした。〈闇〉が、怜の背後を全て塗りつぶした。急に恐ろしくなって、怜はその場にしゃがんだ。目を瞑った。瞼を〈闇〉がぬろりと舐めた。
ヨウコ。
怜は心の中で、必死にヨウコの姿を思い浮かべた。
白い肌を思い浮かべた。艶のある短い髪を思い浮かべた。怜よりも長い脚を思い浮かべた。薄い唇を思い浮かべた。小さな鼻を思い浮かべた。細い体を思い浮かべた。澄んだ目を思い浮かべた。
〈闇〉を振り払うように、怜はヨウコの記憶に縋った。
「いょう……kおっ?」
ざらざらとした、砂のような声がした。
「いょう……kおっ」
怜は反射的に顔を上げ、目を開いた。
何かが、〈闇〉の中で立っていた。
「いょう……kお。あ、いちぃ」
それは、ヒトのような形をしていた。ひどく前傾姿勢で、頭を前に突き出していた。手足の指は奇妙なほど長く、全身に産毛が生えていた。
それが現れると、すぐに〈闇〉は消え去り、月の明かりが戻ってきた。
「いょうこおっっっ。いょうこっ。お、い、たぃ。いれ、る」
怜は、それを初めて見た。しかし、それの名を、怜は知っていた。
〈猿〉だった。
〈猿〉には、瞳がなかった。石英のような球が眼窩に嵌っているだけだった。〈猿〉は顔面を怜に向けたまま、ぼそぼそと呟いていた。
「いょうこ、お。ぃいれたい」
そうだ。と思った。ヨウコに会いに行かないと。
怜は立ち上がって、歩き始めた。〈猿〉は、怜のすぐ後ろをついてきた。歩く間も、〈猿〉はしきりに呟きを漏らしていた。
ヨウコの家は、二階建ての一軒家だった。小さい庭に子供用のブランコがある。車庫に車が二台止まっていた。
ヨウコの部屋は、一階にある。窓のカーテンは締まっており、明かりも灯っていなかった。ヨウコは寝ているようだった。怜はしばらくの間、洋子の部屋の白いカーテンを眺めてから、踵を返した。
〈猿〉は家に帰ってからもずっと、何事かを呟いていた。
〈猿〉の姿は、怜以外に見ることができず、〈猿〉の呟きは、怜以外に聞こえることはなかった。そして、〈猿〉に触れることは、怜にもできなかった。
〈猿〉は昼夜を問わず、呟き続けた。必ず怜の傍にいて、怜のほうに顔を向けていた。しかし何日か経つと、〈猿〉が呟くことはなくなった。何をするでもなく、ただ黙って怜の後をついて来るようになった。
「レイ、もう起きなよ」
母が、怜の部屋のドアを開けて、言った。
「外へ食べに行くで。もうちょっとで、家出るからよ」
ドアが閉まった後、怜はもぞもぞとベッドから起きだした。時計を見る。昼前だった。
記憶を探って、今日が弟の誕生日だったことを思い出した。窓の外から、音の割れた放送が聞こえる。十一時を知らせる放送だった。
立ち上がる。頭が重かった。目の下がじくじくと痛んだ。
寝間着を着替えて外に出る。車に乗り込むと、父が運転席に座っていた。リクライニングを倒して、膝を組んでいた。助手席側の後部座席には、ショウタが座っていた。怜は父のシートを揺らさないようにして、運転席の後ろに座った。
「おん? あいつまだか。ほんまいっつもどくさいな」
父がぼやいた。
五分ほどしてから、駆け足で来た母が、車に乗り込んだ。
「おまたせおまたせ」
「化粧にどんだけ時間かけちゃうんなよ」
「化粧だけとちゃうよ。お金とかも用意せなあかんやいしょ」
父はエンジンを掛け、車を出した。
「王将でええやろ」
「ショウタに決めさしちゃってよ。誕生日なんやから。ショウタ、なにがいいん」
「……王将」
「ほれみよ」父は鼻で笑った。
「ええ、そんなとこでええん」
「うん。王将いきたい」「えー、ほんまに?」「うん」「ほんまにええの?」「しつこいな。おまえが王将行きたないだけやろ」「だって誕生日やで」「えーやろがもう。こいつが王将行きたいんやったら王将でええやろ」「そんな怒らんでも」「怒ってないやろが」
怜は、窓の外を眺めていた。山の上に、雲が浮かんでいる。
父と母の口論は、いつものことだった。ショウタも気まずそうな顔で、外の景色を眺めていた。
怜は、道に一人で立っている妄想をした。秋晴れだった。穏やかな風が流れてゆく。山の斜面から、モノラックのエンジン音が聞こえる。鳥が飛んでいる。
怜はゆっくりと歩いた。
誰も、怜が歩いていることを知らなかった。怜は誰にも知られず、雲が音もなく動くのを眺めた。
店内はごみごみとしており、食べ物の匂いと熱気で蒸し暑かった。
「なんでも食えよ笑」父が言った。
「お金出すん誰やと思ってんのよ」
「冗談やろがよ」
父はそう言って、くたびれたメニュー表を手に取った。
怜はコップに水を注いで、飲んだ。ガラスのような、無機質な味がした。
テーブルの端に、水垢ができている。聞いたことのない曲が流れている。油の匂いがする。怜は料理が運ばれてくるまでの間、切れかけのラー油の瓶を眺めて過ごした。
やがて、店員が器を持ってやって来た。怜の前には味噌ラーメンが置かれた。大きな器に、チャーシューやメンマやネギが浮かんでいた。怜は割り箸をぱきりと割って、スープの中に突っ込んだ。ゆっくりとかき混ぜると、具が散らばってゆく。
「何やってんの。普通に食べな」母が言った。
ずぞぞぞ。
ずぞぞぞ。
怜たちは、無言で麵を啜った。
ずぞ、ずぞぞ。
ずぞぞぞ。
「あらこんにちは」
頭上から声が降ってきて、怜は顔を上げた。
怜たちの座るテーブルの脇に、背の高い女が立っていた。その女の背に隠れるようにして、子供が立っている。怜は目を瞠った。
ヨウコだった。
「あれ、こんにちはあ」
母は笑顔を向けた。
「お昼食べに来たんですかあ?」
「そうなんよ。下の子の誕生日やから。ヨウコちゃんこんにちは」
「こんにちは」
ヨウコは、はきはきと答えた。
「元気に挨拶できてえらいなあ。うちの子ぉらは挨拶なんか全然しやんのよ」
母たちが話している間、怜はヨウコを見つめていた。
ヨウコは店内を見回し、母たちの様子を窺っていた。そしてショウタに顔を向け、胸の前に掌を掲げた。
ヨウコはショウタに手を振った。
怜は、ショウタのほうを振り向いた。弟は、ヨウコに気が付かないふりをして、小さな器に視線を落としていた。恥ずかしそうに、箸でスープをつついている。それでもヨウコは、手を振って微笑んでいた。怜のことは目に入っていないかのようだった。
「それじゃあ、また」
「うん。ヨウコちゃんも、またな」
ヨウコの母は、ラーメンを啜っている父にも会釈し、ヨウコを連れて店の奥へ向かった。去り際、ヨウコはショウタの両肩に手を置いた。ショウタの体が、ぴくりと跳ねた。
「また遊ぼ」
ヨウコは、後ろからショウタの横顔を覗き込んだ。
母が満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうなあ。これからも遊んでやってな。これ、ショウタ。仲良くしな」
母はショウタを叱った。ショウタは無視を続けた。ごまかすように、ひたすら麺を啜った。ヨウコたちが去った後、母が言った。
「ほんまにヨウコちゃんええ子やな。ショウタと仲良くしてくれて」
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