4-1
背中に当たる硬い石の感触で、怜は目を覚ました。
暗闇だった。じじじと虫の音がしていた。
見上げると、頭上の軒が月明りを遮っていた。建物がある。周囲は薄明るく、建物の周りを囲むようにして、黒々とした森が佇んでいる。
怜の手に何かが触れた。薄く、つるつるとしている。
ビニールシートだった。暗闇の中でも、かろうじてハローキティのイラストが分かる。
「ああ」
怜は思い出した。
「ヨウコ」
怜の口が自然と動き、声を発した。
「ヨウコ」
そこは、怜の家の近所にある、小さな神社だった。
怜は、長い夢を見ていたような気分だった。連れて来た筈のヨウコはすでにいなくなっていた。怜はピンクのシートを掴んで立ち上がった。
寝てしまってから、どれくらい経ったのだろう。怜は社の正面に回った。時計や携帯は持っていなかった。怜は鳥居を潜り、階段を下りた。歩を進めながら、怜は思った。ヨウコに会いたい。
ヨウコに会いたいと思った。ヨウコを会いたいと思った。探さないと、と思った。喉が渇いた。
家に帰った怜を、父は打った。
「おい、おまえ今までどこほっつき歩いとった」
母は目元を赤くして叱った。
「今何時やと思ってんの」
「おまえ他人に迷惑かけるような真似すんなよ」
「お母さんら、ほんまに心配したんやで」
「今はまだわえらが世話してやってるけどな、おまえ一旦社会に出てみよよ。だーーれもおまえのことら助けてくれやんぞ」
「お父さん」
「なあおい、ちゃんと話聞いてんのか。ずっと下向いてるけどよ。舐めた真似しくさってからに」
「お父さん。そうとちゃう」
「ああ。なんやねん」
「怒らんといて」
「怒るなも糞もあるかよ。躾やろ」
「お父さんのは躾と違うって」
「何が違うねん。おい!」
「だから怒らんといてよ」
「おまえがいらんこと言うからやろ」
「いらんことってなによ」
「おい! レイ! おまえ、なに関係ないみたいな顔しとんねん。ガキみたいな真似やってんとなんか言えよ!」
「お父さん、もうほんまにやめて!」
「なんやと」
「もう、やめて。お箸も投げやんといて。いつもカリカリ怒るんもやめて」
「うるさいなぐちぐちぐちぐちと。やめたらええんやろやめたら」
「ちょっと、どこいくん」
「なんでそんなことまでおまえに言わなあかんねんやかましな」
バン、と音を立てて、家を出た父が乱暴にドアを閉める。急に静けさが這い寄ってくる。
少しすると、母はため息を吐いた。机に突っ伏して、二度、三度と鼻を啜った。
長い沈黙の後、母はぼそりと言った。
「もう、レイもいらんことせんといて」
「わかった」
怜が答えても、母は何の反応も示さなかった。
怜の通う中学校は、丘のような小さな山の麓にあった。小学校が県道を挟んで向かいにあり、その周りには民家と道だけがあった。古い校舎の木の床は、いつも黴の臭いがした。
怜が登校すると、机の上に落書きがあった。コンパスの針のようなもので、机に性器の絵が彫られていた。その下に、「机上位ww」の文字もあった。
怜が机を見下ろしていると、斜め後ろから笑い声がした。数人の男子生徒が、怜の机に集まった。
「レイくん。数学の宿題見せてよ」
一人の男子が、半笑いで言った。
怜は答えなかった。
「なあ、聞いてる? おーい。え、無視?」
怜は机の一点を見つめていた。
「なあ、もうええて。おい。はー、おもろないわー」「さすがにしらけるやろ」「こいつ日本語忘れてきた?」「ははは」
ユウキが、机の脚を蹴った。
「なあ、俺ゆったよな? 喋ろうやって。友達とは目ぇ見て話さなあかんやろ。なあ」
怜は、虚空を見つめていた。
「はーい、怜くんは人としてのマナーがダメなので罰ゲームやりまーす」別の一人が、調子よく叫んだ。また別の男子が、怜の両脇を抱えて立たせた。椅子ががたがたと鳴った。クラスには怜たちの他に来ている生徒は少なかったが、全員がうるさいくらいに喋っていた。教室の隅で起こっていることを自らの声でかき消そうとしていた。
「腹パンのけーい」
ど。
怜の息が止まった。鈍い痛みが脇腹へとじわじわと移動して、怜はその場に蹲った。
「んぐぅん」喉から息が漏れた。
「ははは、あは、あは」
「お前ガリガリのくせにやるやんけ」
「やろ、やろ」
「うわー、えぐ。めっちゃいい角度で入ってたで」
「いや誰目線」
怜は黴臭い床に額をつけ、歯を食いしばっていた。床のささくれが、ちくちくと額を刺した。
〈しね〉
学校では、怜は誰とも喋らなかった。しかし、ユウキを中心とした男子グループは、怜に干渉したがった。やがてそれは、中心グループ以外の生徒たちにも広がっていった。
「レイくーん。ヒョージュンゴ喋ってよ」「あかんって。こいつ前に一回イジってから喋らんくなったもん」「マジ? 可哀想すぎん。お前サイヤクやな」「なんでやねんww」「ヒョージュンゴも守っていかなあかんねんで。お前エスディージーズ知ってる?」「それぜったい使い方違うやろww」
「カンチョー」「やばい。レイくん全然反応ないやん」「トーキョー人やからちゃうん」「うわまじか。おれカンチョーしてもたから、トーキョー人なってまうやん」「逃げろ逃げろ。喋れんくなるぞ笑」
同級生たちの「干渉」は、毎日続くこともあったし、一週間ほど途絶えて、また突発的に再開することもあった。予測できない災害のようなものだった。「干渉」される度、怜は加害者たちが死ぬ場面を想像して、苦痛をやり過ごした。ある時は、コンパスの針で奴らの腕にいくつも穴をあけ、それを切り取り線にして腕を引きちぎる妄想をした。またある時は、奴らの肌を金たわしでごしごしと削る妄想をした。またある時は、寝ている奴らの頭を全力で蹴り飛ばす妄想をした。殺し方が惨ければ惨いほど、胸がすっきりとした。頭の裏に氷水を流したような気持ち良さを感じた。
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