3-2

 王は、白い薄衣を幾重にも纏っていた。豊かな黒髪を頭の両側で結い、紅色の髪飾りを着けている。肌は恐ろしいほど白く、唇は痛そうなほどに紅い。睫毛は長く、鼻筋は通っており、端正な顔つきをしている。羽衣の奥に透ける体は細く、ついと押せば折れそうだった。

 怜は少しの間、王と見つめ合った。心の中も記憶も、全て覗き見られているような気がした。

 やがて、王が薄い唇を開いた。

¥えなちひさみあいにまこぬm¥

¥ねさめきあへちいこわぼとこねらことぢぬおm¥

 何を言っているのか分からなかった。怜には、王が話す言葉を理解できなかった。

 王はなおも、声を発し続けた。ぎょろぎょろぎょろ、というような音だった。いくつもの音が同時に混ざり合い、ぐちゃぐちゃになって、怜の耳に入り込んだ。

¥うおyせづもなちん^いあけs^、うおyんせあきるこいにあけそぬおくもわたなあへらk、あべりさげらこをとくりえったあぎhかちhさたをたたな¥

 音の高さも、大きさもばらばらだったが、それぞれの音は互いにぬるりと連続していた。もはや言葉ではなかった。

 しかし、怜は理解していた。

 なぜか、意味だけが分かった。王の話す言葉は分からなかったが、王の話すその意味は分かった。王が発しているのは言語ではなかった。

 それは〈声〉だった。音であり、意味だった。

 王が発するに音には、本質的に意味があった。ただし、音に意味が付帯しているのではなかった。等価だった。〈声〉は音そのものの意味であり、意味そのものの音だった。

「分かりますね、リンリさん。あなたには王の〈声〉が分かりますね」

 シャガイと王は、怜を見つめたまま、怜を待っていた。怜が気付くのを待っていた。

 怜は、シャガイの目を見た。次に、首に提げている笛を見た。欠けていた筈の指を見た。

 ああ、そうか。怜は思った。

 シャガイと王は、〈神〉だった。

「リンリさん、あなたがこちらに来たのには驚きました。〈無の神〉と接触していたことも驚きました。僕たちにはあなたが必要でした。だからここまで来てもらいました」

「ソマルは」

 怜は尋ねた。ソマルはなぜ都に連れてこられた?

「安心してください。ソマルさんには約束通り、兵士になってもらいます。犬を殺してもらいます。この国の民は皆、犬を嫌っています。犬は人の国を脅かす敵だと信じています。だから、兵士は必要です。安心してください」

〈社会の神〉は笑った。

〈生き物の神〉が寝台から降りて、怜のほうへと歩み出た。裸足だった。背が高かった。

「しかし、あなたには嘘を吐いてしまいました。兵士になって欲しいと嘘を吐いてしまいました。僕たちが望んでいたことは、あなたに戦ってもらうことではありません」

〈生き物の神〉は、怜の目の前に立った。薄衣が怜に触れた。怜は〈生き物の神〉を見上げた。〈生き物の神〉は、怜の顔を覗き込んでいた。〈生き物の神〉の瞳は、ぬめりのある黒だった。

「リンリさん。僕たちは望みます。あなたが産むことを望みます。新たな生き物を産み、新たな社会を産むことを望みます。あなたは特別です。あなたは〈意思〉そのものです。あなたが産めば、今までにない素晴らしい生き物と社会が生まれます」

 〈生き物の神〉は、両手を怜の頬に添えた。土のように温度がなかった。冷たい肉の表面からは、何の感情も伝わらなかった。

「僕たちは今までに、五十六万七千二百二十の社会を産んできました。生き物の種類はそれよりももっと多いです。しかし、今でも生きている社会はそのうちの四百三十二のみです。これらの社会も、もうすぐに滅びようとしています。社会が滅ぶ理由はたった一つです。争いです。争うことで、生き物が死に、社会が滅びます。しかし、争いは止めようがありません。個の集団で社会を作る限り、争いはどうしても起こります。そのため、僕たちは逆に争いを利用して、完全な社会を作ることにしました。この国がそうです。しかしこの社会では、争いの規模を社会が滅びない程度に抑えなければなりません。〈神〉が常に介入しなくてはなりません。でも、あなたがいればそんなこともしなくて済みます。リンリさん。あなたが産めば、その生き物は争いを起こさないでしょう。争いを起こさない生き物ならば、完全な社会を作ることができます。だから、あなたが必要です」

 〈生き物の神〉が、おもむろに顔を近づけ、怜の口を頬張った。ずるりと、唇の間から舌が這いこむ。怜の前歯をなぞる。頬の裏を擦る。手のひらとは違い、〈生き物の神〉の舌は焼いた鉄のように熱かった。顔に鼻息がかかる。〈生き物の神〉の右手が、怜の顎を掴んだ。無理やり口を開け、歯の間に舌を入れた。怜の舌を吸い出そうとする。

 怜は、自分と〈生き物の神〉の体の間に腕を差し入れて、突き放そうとした。しかし、〈生き物の神〉は微動だにしなかった。すさまじい力で、怜の顔面を捕まえていた。両手で怜の頭を挟んで、吸い付いていた。ぎりぎりと、頭皮に爪がめり込む。血が流れて、赤黒い筋ができる。

〈生き物の神〉は、舌を絡ませるのではなく、舌先を怜の上顎に付けた。次の瞬間、鼻の奥に鋭い痛みが走った。〈生き物の神〉の舌先が、上顎を貫通していた。ぐ、ぐ、ぐ、とゆっくりと脳に向けて昇ってゆく。

 怜は〈生き物の神〉の腰に腕を回して、力いっぱい締め付けた。鼻の奥の痛みが感じられないほど強く締め付けた。ごり、ごき、という音が鳴って、〈生き物の神〉の胴が細くなった。肋骨が折れていた。〈生き物の神〉はそれでも舌の侵入をやめなかった。

 ぐりぐりぐりぐり。

 入ってくる。昇ってくる。侵される。侵される。

「ご、ご、ご、ご」

 舌が、怜の脳に達した。怜は何も分からぬまま、腕に力を入れ続けた。怜の指が、〈生き物の神〉の背中にぐずぐずと刺さった。背骨が指先に触れた。熱い肉を剥がした。どろどろとした内臓を掻き混ぜて、握り潰した。薄衣の上から胸に齧り付いた。衣ごと咬みちぎって、飲み込んだ。血の味がした。〈生き物の神〉の指が怜の頭蓋を突き破った。〈生き物の神〉は泥の塊を舐めるように、ぞりぞりと脳を削り取っていった。

 怜と〈生き物の神〉は抱き合うようにして、互いを食い殺していた。

「〈倫理の神〉、あなたと〈生き物〉が交われば、完全な生物が生まれるはずです。僕たちが生まれた時からずっと望んでいたものです。ありがとうございます。ありがとうございます」

 怜は既に痛みを感じていなかった。思考は麻痺していた。感覚や思考とは独立した本能が、怜の体を動かして敵の肉をちぎり、潰した。怜はただ叫んだ。恐怖によるものではなかった。怒りによるものでもなかった。ただ、喉を震わせた。

「お、おおお、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 怜と〈生き物の神〉は、その場にどちゃりと崩れた。怜が上から覆い被さった。怜は、一心不乱に〈生き物の神〉を食った。ぐちゃり、ぐちゃりと、噛む度に肉から血が噴き出した。鼻と喉に血肉が詰まって窒息した。

〈生き物の神〉の舌が突然、動きを止めた。それから、ぴくぴくと痙攣を始めた。〈生き物の神〉が、耳元で小さく呟いた。怜の耳は死んでいたが、脳に言葉が浮かんだ。


 産みたい。


 最後に舌が大きく脈打ち、その先から苦い汁が出た。

 次の瞬間には、怜は白い靄の中にいた。

 痛みが消えていた。血の匂いも肉の感触も消えていた。

「〈倫理〉さん。見てください。下を見てください」

 隣に〈社会の神〉がいた。足元を指さしている。視線を下に移すと、地面はなく、白い靄が続いていた。少し下のほうに、〈生き物の神〉もいる。怜がつけた傷はなく、元通りの真っ白な格好に戻っていた。

「ここは雲の中です。下を見てください」

 そう言うと、〈社会の神〉は滑るように下降を始めた。

 空の上は寒くも暖かくもなかった。雲は相当な速さで動いていて、風は強い筈だったが、空気の流れを全く感じなかった。

 怜は高度を下げて、雲の下に出た。

 海があった。どこまでも平面の海だった。海面までの距離は五千キロメートルほどあった。

 海には、いくつも島が浮かんでいた。山だらけの島もあれば、真っ白な島もあった。島どうしは互いに相当な距離が離れていた。怜は真下に浮かぶ島に目を向けた。島は一辺がおよそ四百キロメートルの座布団のような正方形で、縞模様があった。四方を崖に囲まれており、黒い山脈が、島をさらに四つの正方形に分割していた。

「これらは今までに僕たちが作ってきた国々です」

¥うさみらかkんえんねしのそよ、いのぬりけだぎぬこぬsとちh¥

「この世界には国が増えすぎてしまったので、別の世界に国を作ります」

 怜は草原の上に立っていた。頭上には空があった。空と草原は決して交わることなく、永遠に広がっていた。境界は存在しなかった。空と草原の、二つの開集合が並んで存在していた。怜と〈神〉たちは、二色の球殻の中に存在していた。

¥うさみえったのちむあぐおさきあs、いhしあだがかんなm、あろさげうんあびち。うさみえてらかうぃぬおsんあさひあけそのk¥

「産みましょう、ここに。産みましょう、あなたの子らを」

 じくじくと、土が膿み始めた。草の間から、水が浸み出す。草原が数秒の後に、沼地へと変貌した。泥水は増え続け、足首が見えなくなった。

「はやく。さあ、はやく。産みましょう。産みましょう」

¥いにhくうらあぐじみにhしあd¥

〈神〉たちは、怜を急かした。

「はやくせねば、水が引いてしまう」

 一旦、怜の足首まで上昇した水位は、ゆっくりと下降を始めた。

「お願いします。〈倫理〉さん。産んでください」

 怜はその場に立って、〈社会の神〉を眺めていた。

「ああ、ああ、早くしないと。産んでください。〈倫理〉さん。産んでください。お願いします。僕たちの願いです。心からの願いです。お願いします。産んでください。あなたが産んでください。〈倫理〉さん。子を、子を、子を」

〈社会の神〉は、泥の中にばしゃりと膝をついて、怜に手を伸ばした。怜は〈社会の神〉を見下ろした。怜の肌に衣に泥水が飛び散って、黒い点がいくつもできていた。水がぐんぐんと引いてゆく。〈生き物の神〉も怜に縋った。涙を流していた。純白の衣が泥水を吸った。

¥いあさづけdんううさみhしあげの。いあさづけdんう! おをこにhさたw! いあさづけdんう¥

「私は〈倫理〉ではない」

 怜が口を開いた。

「何を言っているのですか。あなたは〈倫理の神〉です。あなたも〈神〉です」

「違う。私は〈神〉ではない。お前たちも〈神〉ではない」

 二人の〈神〉は訳が分からず、ただ怜を見上げていた。

「お前たちが〈神〉であるならば、なぜお前たちは形をとっている? なぜ世界に存在している? 内包されている? 具現している? なぜ一つとして存在している?」

 沼地が草原に戻った。二人の〈神〉はそのことに気付かず、怜を見ていた。

「お前たちは明らかに〈神〉ではない。形があり、意識があり、感情がある。それは〈神〉ではない」

 怜は、シャガイと王の両手首を刎ねた。二人は叫びをあげた。

「なぜ血が出る? なぜ痛い? なぜだ」

「ひぐぅぅ。ぐいぎぃぃ。ああああああああぁぁぁぁあ! いたあいぃぃぅう」

 シャガイが唸った。涙を流した。歯を食いしばって、涎を垂らした。手首からは血が垂れた。王は両手首の断面を地面に着いて、体を支えていた。静かに泣いていた。地面に両手が埋まり、抜けずに泣いている子供のように見えた。

「はは」「哀れだなア」「くあはは」「アホだ」

 怜は笑った。自分のことを〈神〉だと思い込んでいる者たちが滑稽で笑った。

「〈神〉は〈意思〉そのものだ。〈神〉は世界の中に存在しない。確かにお前たちの本質は〈神〉だが、それはお前たち自身が〈神〉であるということではない。お前たちは窓に過ぎない。〈神〉と世界が接続する窓に過ぎない。いくら〈声〉を発することができても、世界を行き来できても、お前たちは〈神〉ではない。〈神〉になることもできない」

 シャガイは、怜を睨んでいた。首にかけていた笛を咥えて、吹いた。

 ぴいいぃぃ。ぴいいぃぃぃぃ。ぴいいいぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいぃぃいいぃいい。

 犬がいた。三人を囲むようにして、円形に並んでいた。その後ろにも、そのまた後ろにも犬が並んでいた。怜よりも背の高い犬たちが、視界を遮った。

 草原が、犬で埋め尽くされていた。

 ぴいいいいいいいいぃぃぃぃぃ。

 シャガイは笛を吹き続けた。終いには咳き込み、草の上に突っ伏した。

 犬たちは、怜ににじり寄った。王とシャガイには目もくれなかった。怜を取り囲み、もみ合い、怜を圧迫した。犬の群れが怜を圧し潰そうとしていた。犬はどれも人形のように焦点が定まっておらず、怜に目を向けるものは一つもなかった。

 怖い。

 怜は、不意に思った。昼寝から目が覚めたような気分だった。ぎちぎちと密集する肉の壁の中から、腕が何本も伸びて、怜の肩を掴む。髪を引っ張る。腹を引っ掻く。獣の臭いがする。犬の臭いがする。

 怖い。

 怜は動くことができなかった。恐怖に震えていた。

 ごろごろごろごろごろごろ。

 密集した犬たちは、ミツバチが外敵を殺すように、急激に発熱を始めた。

 熱い。

 溶けた鉄のような異常な熱が、怜の素肌を焼いた。

 ごろごろごろごろごろごろ。

 殺される。怜は激烈に思った。


 殺される! 今、殺される!


 ふ。

 怜の視界が消失した。

 体がばらばらになって、痛みだけがあった。

 怜の中には、記憶も意思も感情も残っていなかった。怜はただ感覚していた。怜の感覚、それは痛みや光や音ではなかった。世界における現象については、まったく何も知覚していなかった。怜は、〈在る〉のみを感覚していた。〈在る〉を感覚しているその感覚のみが在った。

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