3-1
「どうですか。旅はどうですか。もう慣れましたか」
焚火を囲みながら、シャガイが言った。
村を出て七日が立っていた。怜とソマルはシャガイについて旅をしていた。
「初めは怖かったけど、もう慣れました」ソマルが言った。
「そうですか、そうですか。良かったです」
シャガイはそう言うと、水筒の水を呷った。
朝は日の出前に起き、日が暮れるまで平原を歩き通す。山脈は一直線に続いており、方角を間違うことはなかった。怜たちは常に山の裾から離れぬように歩いた。
「シャガイさん」
干し肉を握ったまま、ソマルが言った。
「なんでしょう」
シャガイの両脇には、刺青の男たちが座っていた。周囲の闇に目を光らせている。
「本当に、この山脈の向こうには、犬がいるんですよね」
「ええ、そうです。山脈を隔てた向こうが犬の国です。こちらが人の国です」
「隣り合っているのに、どうして奴らはすぐに攻めて来ないんですか」
「我が国の兵士が犬の国を見張っているからです」
「そうか、だから奴ら簡単には攻めてこられないんだ」
「そう、そういうことです」
夜空は真っ黒で、よく晴れていた。風はなかったが、肌寒く感じた。
「そろそろ寝ましょう。ヨウ、ユウ。僕たちは眠るので、見張りをお願いします。火も消さないように」
刺青の男たちは頷いた。
怜は、毛皮に包まって目を閉じた。ぱちい、ぱち、と薪の爆ぜる音だけが聞こえた。焦げた臭いがした。地面の硬さを感じながら、怜は眠りに落ちた。
寒気を覚えて、目が覚めた。焚火は燃えている。空は黒い。どれくらい眠っていたのか分からなかった。刺青の男たちは、一言もしゃべらず、夜の平原と林の中を見つめている。
怜は、刺青の男たちのほかに、もう一人、焚火の前に座っているのに気が付いた。シャガイは指でつまんだ何かを焚火に翳していた。
「ああ、眠れませんか」
「あ」
怜の口から、声が漏れた。
「んん? これですか」シャガイは火に翳していた物を、怜の目の前に差し出した。
欠けていた筈の人差し指が生えていた。
シャガイが右手でつまんでいたのは、指輪だった。黒く滑らかな光沢の輪に、青く角ばった石が嵌っている。石は揺れる炎を反射して、ちら、ちらと光った。
「これは、昔ある人からもらったものです。綺麗でしょう。綺麗でしょう。もう、この世に一つしかないものです。とても大事なものです」
言い終わると、シャガイはまた指輪を焚火ごしに眺めた。
怜は目を瞑って、焚火に背を向けた。
怜たちは、山脈に沿ってひたすら歩いた。麓の森から、際限のない平野を眺める。山脈から幾筋もの河が平行に這い出して、平原を等間隔に区切っていた。巨大な縞模様だった。どの河にも、山脈と平原の境目に巨大な石の橋がかかっており、怜たちは容易に河を渡ることが出来た。河幅に関わらず、どの橋も形・大きさが全く同じだった。
森の中を歩くとき、シャガイはいつも歌を口ずさんだ。馴染みのない発音で、怜には理解できなかった。
「意味が分かりますか」
怜は首を横に振った。
「じゃあ、じゃあ、これはどうですか」
また、別の歌を口ずさんだ。今度も分からなかった。外国の言葉だと思った。
「ならば、これはどうですか」
シャガイは、ソマルには聞かず、怜にばかり尋ねた。
「分かりませんか。そうですか。やはり、彼女のようにはうまくいきません」
「それは、なんの歌なんですか」ソマルが尋ねた。
「歌ではありません。これは、歌ではありません」
「へえ、難しいんですか」
「はい。僕はずっと練習しています。でも、まだまだです。音の出し方は完璧だと彼女は言ったんですが、まだ意味が乗っていないらしいんです」
「彼女っていうのは、えっと、シャガイさんの、お嫁さんですか」恐る恐る、ソマルは聞いた。シャガイは笑った。
「違います。そうですね、彼女は僕の友達です。仲間です。じきに会えます」
さっ、と刺青の男たちが手を挙げた。前方を見つめている。
「犬です。数が多いです。危険です。気を付けてください」ぼそ、とシャガイが言った。
刺青たちとシャガイは、厳しい視線を周囲に向けていたが、怜には犬の臭いを感じ取ることはできなかった。隣に目をやると、ソマルが怜の裾を握りしめていた。かわいい、と思った。安心させようと、怜はソマルの拳に手を添えた。拳は小さく震えていた。
「ヨウ、あなたと僕で犬を殺しに行きます。ユウは二人を守っていてください」
そう言うと、シャガイは刺青の片方と、森の奥へ音もなく走っていった。
残された怜たちは、木の根元に座り込んで、シャガイたちを待った。頭上で梢が揺れている。ざわめきだけがあって、他の生き物はすべて眠っているようだった。ソマルは落ち着きを取り戻していた。ぼんやりと目を開け、怜の肩に凭れ掛かっていた。刺青の男は刀に手を掛け、周囲に目を配っていた。
背中に、樹皮のひんやりと硬い感触があった。地面についた手が、ちりちりと痒くなった。木漏れ日がまばらに膝の上を照らしていた。どこかで、鳥が鳴いている。怜は眠気を感じた。頭に靄がかかる。瞼が落ちる。
ぴいいぃ。ぴいいぃ。
はっと目が覚めた。鳶だった。思い出した。さっきから聞こえていたのは鳶の鳴き声だった。
がさがさ、と茂みが揺れた。怜は体を起こして、左手でソマルをかばった。
「今、殺してきました。犬を殺してきました」
シャガイと刺青だった。刺青が、引きずっていた犬から手を放した。強烈な犬の臭いがして、怜は顔をしかめた。
「山を越えてきたようです。仲間はいませんでした」そう言って、シャガイは笑った。
犬は死んでいた。血は出ていなかった。白目を剥いており、体液に塗れた陰茎は勃起していた。
「犬が、死んでいる」ソマルが言った。死体を食い入るように見つめてから、シャガイのほうを向いた。
「どうすれば、犬を殺せるんですか」
「首の骨を突けば殺せます。首の骨を突けば、すぐに折れるので死にます」
「へえ」ソマルは四つん這いになって、犬の体を凝視した。シャガイは満足そうに、ソマルの様子を眺めた。
怜は、何か妙な感じがした。臭いで鼻がおかしくなったと思った。
シャガイから、犬の臭いがしていた。
犬を運んできたはずの、刺青の男からは全くしなかった。そして犬からも、臭いはしなかった。
怜はシャガイに目をやった。と、シャガイも怜を見ていた。シャガイだけではなかった。刺青の男二人も、怜に顔を向けていた。ソマルだけが気づかずに、犬の死骸を覗き込んでいた。
「こいつの仲間が死骸を見つけてしまうと厄介です。埋めてください」
怜を見ながら、シャガイが言った。ほんの一瞬、怜に何か伝えたそうな顔をしたが、すぐに目を逸らし、刺青たちが穴を掘るのを手伝い始めた。ソマルも小さな手で、一生懸命に土を掘っている。
怜はソマルの隣で土を掻き出しながら、シャガイの様子を窺った。
シャガイの肩から、透明な靄が湧き出していた。色がなく、陽炎のように揺れている。
怜は、カイが二つに分かれた時のことを思い出した。
「んん? どうかしましたか」
シャガイが顔を上げて、怜に微笑みかけた。靄は消えていたが、犬の臭いがきつく残っていた。
嘘を吐いている。怜は思った。シャガイに目を合わせぬまま、首を横に振った。
「あの山の向こうが都です」シャガイが前方を指した。
怜たちが辿ってきた山脈が、遥か前方で直角に折れ曲がって聳えている。木々の間から、黒い山肌が途切れ途切れに見えた。
「あ、あそこ」ソマルが言った。「お城かな。大きな建物が見える」
ソマルが指したのは、前方の山の麓よりもずっと手前にある建造物だった。広い平原の中では、にきびのように小さく見えた。
「あれは砦です」
砦は、近づくにつれて大きくなっていった。翌日の太陽が傾くころ、怜たちは砦の目の前に辿り着いた。怜は目の前の建物を見上げた。砦は巨大な目のないサイコロだった。岩盤からくりぬいたように、表面はでこぼこも亀裂もなく、完全な立方体だった。端から端まで、数百メートルは優にあった。その立方体の正面には、小さな入り口が開いていた。門番のような者はおらず、打ち捨てられた廃墟のように思えた。
入り口の奥は暗く、何も見えなかった。ソマルはシャガイを窺った。
「行きましょう」
シャガイがさっと砦の中に入っていった。怜もソマルも後に続いた。
中に入ると、入り口から一直線に通路が伸びていた。人がひとり通れるほどの幅で、天井も低い。光源は見当たらないが、壁や床がほんのりと明るく、互いの姿が見えた。通路は長く、終わりが見えなかった。
長い時間歩き続けたが、終端に着く気配はなかった。すでに砦の全長よりも長く歩いている筈だった。
「あと、どれくらいなんですか」ソマルが尋ねた。
シャガイは涼しい顔をして言った。
「もう着きます。ほら、ここです。ここで終わりです」
いつの間にか、終端に着いていた。通路の終わりは、壁だった。シャガイは立ち止って、目の前の壁に両手をついた。
少しすると、ごりごりと音が鳴り始めた。石壁が動き出し、左右に割れる。その向こうに空間が現れた。
全員が通路から出ると、石壁はひとりでに閉じた。
「ここが都です。都の中の、王城です」
薄暗く、広大な空間だった。壁と床は先ほどの通路と同じようにぼんやりと光を発していた。天井は恐ろしく高く、うまく距離を掴めなかった。壁にずらりと灯された蝋燭と蝋燭の間には、全身に刺青を彫った男たちが並んでいた。男たちは、まるで人形のように、全員が同じような顔立ちと背格好をしていた。怜たちと行動を共にした刺青の二人も、その中に加わった。もう、見分けがつかなくなった。
「もう少し前に進んでください」シャガイに促され、怜とソマルは数歩、前に出た。
部屋の中央には、桃色の薄布を被せた円錐形のテントのようなものがあった。中の照明が、薄布に人の輪郭を投影していた。
「跪いてください。王です。跪いてください」
怜とソマルが跪くと、シャガイはテントのそばまで歩いて行った。テント越しに何事かを囁いた後、薄布に耳を当て、ゆっくりと頷いた。
「王からのお言葉です。そなたらは私の新たな兵となり、国を守れ。犬を殺せ」
人影は身じろぎ一つしなかった。ただ、人の気配はあった。
怜は、ソマルの横顔を盗み見た。ソマルは真剣な眼差しを床に向け、胸に手を当てていた。
子供だな、と思った。かわいいと思った。
「明日から、一人前の兵士になるための訓練をします。今日は休んでください。ソマルさんとレイさんには別々の部屋で過ごしてもらいます。ヨウ、ソマルさんを部屋に案内してください」
ソマルは刺青に連れられて、入ってきたところとは別の出口から、部屋を出た。去る間際、ソマルがちらりと怜を振り返った。
ソマルが去ってすぐ、シャガイが手招きをした。
「レイさん、来てください。ここに来てください」
怜がテントに歩み寄ると、シャガイは薄布をめくり上げた。
「レイさん、中に入ってください」
テントの中は、外観よりも明らかに広かった。床には濃い桃色の絨毯を敷いており、中央には鳥の巣のような、椀状の大きな寝台があった。家具はそれだけだった。
そして、寝台には一人の女がいた。女は座禅のように足を組んで、怜を見つめていた。
「彼女がこの国の王です」
シャガイが言った。
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