2-4

「おい、お前、臭いぞ」

〈無の神〉が言った。

「犬だろう。臭い。臭い。お前、犬を見たろう」

 怜が頷くと〈無の神〉は大きくため息を吐いた。

「〈生き物〉め、くそが。もういい。今日は話はなしだ」そう言うと、〈無の神〉は姿を消した。洞窟が完全な闇になった。怜は固い地面に横になって、日が昇るのを待った。外が明るくなると、体を起こした。

 崖を上り、森を抜ける。斜面の叢を降りる。

 村の近くまで来た時、怜は妙な臭いが、村から漂ってくるのに気付いた。臭い。あつい。

 犬の臭いだった。怜は駆け出した。

 村長の家に、人だかりができていた。怜は一度、ソマルの家に向かった。ソマルはいなかった。怜は村長の家に向かった。

 人だかりの中に、ソマルを見つけた。背伸びしたり、跳んだりして、肩越しに家の中を覗こうとしている。

「あ、レイ。おはよう」ソマルが言った。「都から役人が来たらしいんだ」

 村長の家に集まった村人たちは、押し合いへし合いしながら、噂を囁いている。ソマルの頭は男たちの肩より低く、女たちの耳より低かった。それでも、必死に覗こうとしていた。

 怜は少し迷ってから、ソマルの腰に腕を回した。

「わ、なに」

 怜はソマルを抱え上げた。ソマルの目線が少し上がる。

「ありがとう」ソマルが怜の肩に手を回す。ソマル手のひらは熱い。

「おお」

 突然、家の中から大きな声がした。喧騒が、しんと静まり返った。

 人ごみをかき分けて、男が外に出てきた。足が長く、背が高い。質素な衣に身を包んでいる。目尻と頬に入れ墨を彫っている。獣の牙の耳飾り。黒く細い筒を首から提げている。帯刀した従者を二人、連れている。従者の全身には、びっしりと入れ墨が彫られていた。そのせいで肌が黒く見えた。眼球だけが白く光っていた。

 男は、右の人差し指が欠けていた。

 男は怜とソマルの目の前で止まった。

「やあ、やあ。僕はあなた方を待っていました」

 男は家の方に顔を向け、言った。

「村長、この二人です。僕は探していました。この二人です」

 今度は怜とソマルに向き直って言う。

「あなたがソマルさん。あなたがレイさんだ。僕はシャガイです。都で役人をしています。蔵番です」

 怜は、シャガイをじっと見つめた。シャガイも、怜を見つめ返した。男の瞳は青い。瞳孔の奥に穴のような、塊のようなものが沈んでいた。何か、変だと思った。

 シャガイは言った。

「先日、王が死にました」

 村人の間で、どよめきが起こった。シャガイは意に介さず、つづけた。

「よって、新たな王が生まれました。新たな王には、新たな兵が必要です。そのため、僕が村々を回って、兵士を集めることになりました。

 兵士になることが出来るのは、村の防人だけです。したがって、あなた方に都に来てもらうことになりました」

「え、え」ソマルは面食らって、口を開閉させた。「ぼくたち、ですか」

「そうです。兵士になることが出来るのは、村の防人だけです」

 ソマルが怜の衣の裾をきゅっと握った。

「村長の同意は得ました。今この時から、あなた方は兵士の卵です。次の祭りの日に、もう一度こちらに迎えに来ます。旅の準備をしておいてください。ではまた」

 そう言うと、シャガイは従者を連れて村を去った。

 怜は、ソマルに目を移した。

 ソマルは肩を震わせている。手を口に当てている。村人の視線が集まる。何も言わない。

 ソマルは走り出した。村人が左右に分かれて、道ができた。怜はソマルの後を追った。ソマルは村を抜け、丘を登り、森に飛び込んだ。ソマルは走った。ソマルは風のように木々の間をすり抜けた。獣のように木の根を飛び越え、枝を潜った。両手と両足で地面を蹴って走った。

 がささ。がささ。がささ。がささ。

 怜も全身を使って、地を跳ねた。血液がぐるぐるぐるぐると体を巡っている。頭から爪先までが一つの流れとなって、土の上を滑った。緑が木漏れ日が落ち葉が飛ぶように過ぎてゆく。体のすべてで世界を感覚していた。ソマルの感情が空気を伝って怜に響く。笑いが漏れた。どうしようもなく湧き出してくる。たとえようのない喜びを感じる。

 生きている。走っている。喜びが駆け巡る。皮膚が弾けそうなほど張りつめている。黄色が肌の内を満たしている。目と爪が入れ替わって、口と足の肉が入れ替わる。混ざり合う。脳が溶けて隅々まで行き渡る。感覚する。

 がささ、がささ、がささがささがささがささささささささささささ。

「あは」「あはははは!」「ははは!」「あははははあ!」「はははははははははははは!」「あは! あは! あは! あは!」「あははははははははは!」

 怜とソマルは、暗い森の中を駆け回った。獣になって踊った。ひたすら笑った。

 怜は嬉しかった。ソマルが嬉しくて、嬉しかった。ソマルのためなら何でもできる気がした。腕を肩を滅茶苦茶に振り回した。ちぎれそうなほど振り回した。ちぎれてもいいと思った。ちぎれたらソマルにあげようと思った。声が響く。ソマルは笑っている。怜も笑った。心の底から笑った。怜は怜のすべてで笑った。


 秋になった。

 村の小さな広場に、村人が集まっていた。

 篝火を焚いている。輪の中心で、若い女が踊っていた。女は一枚の麻布を被っている。裸足で地面を蹴って、舞っている。女は裸だった。女が跳ねる度、布の下から白い脹脛が覗いた。

 怜とソマルは、女の舞を見ていた。酒と煙の臭いがした。子供も大人も騒いでいる。広場に熱気が籠っていた。熱は白い靄になって、村に充満した。

「行こう」女に目を向けたまま、ソマルが言った。

 怜とソマルは、祭りの輪の外に出た。酒と煙に酔った村人達が、二人に気付くことはなかった。

 家のほうへと歩く。背後の喧騒が、だんだんと小さくなる。

 りりりりりりりり。道端や叢で、虫が鳴いている。風が吹く。怜は夜空を見上げる。星も月も雲もない。足の裏で、砂の地面を感じる。気配がする。気配がする。生きている。

 祭りが生きている。虫の鳴き声が生きている。風が生きている。夜も砂も、あらゆるものが生きている。息遣いが聞こえる。

 その中に、人が混じっている。

「ソマル」

 家の陰から、カイが姿を現した。土壁に寄り掛かるようにして立っている。

「ソマル。本当に、行くのか」

 カイは宥めるように、縋るように言った。

「ソマル。お前、本当に、都に行くのか」

「うん」

 カイはたじろいだ。

「でも、兵士なんて、危ないんじゃないのか」

「うん」

 カイは狼狽えながら、言った。

「なら、なんで行くんだよ。村で過ごしていたほうが安全だろ?」

「うん」

 ただ頷くソマルに、カイは戸惑っていた。

「なんでだよ。危ないのに、なんで行くん」「ぼくが犬を殺すんだ」

 ソマルは、カイを遮って言った。

「だから、行くんだ」

 カイは項垂れた。何も言わなかった。ソマルはカイの横をすり抜けて、また歩き出した。すれ違いざま、カイが呟いた。

「かえってきてよ」

 ぐう。くうぅ。くぐもった嗚咽を漏らした。


 哀れだなア。


 誰かが言った。何かが言った。嘲笑う声だった。

「はは」

 怜は、声につられて笑った。

 カイは泣きそうな顔をしている。両の拳を握りしめて、瞼をきつく瞑っている。歯を食いしばって、体から漏れそうなものを必死に我慢しているように見える。小便を我慢している子供のようだと思った。それがまた可笑しくて、怜は笑った。

「はは」

 怜が笑っていても、構わず泣いている。それが可笑しくて、また、怜は笑った。

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