2-3
「おい、おい」
肩を揺すられて、怜は目を覚ました。
「起きてくれ」
カイが、怜の顔を覗き込んでいた。
「村の狩人たちを集めた。これから犬を捕まえに行く。犬がいたところまで案内してくれ」
怜は上体を起こした。ソマルは隣で寝ている。窓から差した日が顔を照らして、睫毛が薄く透けていた。雨が上がっている。
ソマルを起こさないよう、怜はゆっくりと立ち上がり、カイに続いて外に出た。
入り口を囲むように、男たちが立っていた。粗末な槍や弓を手に持っている。皆若く、樽のような男や、棒のような男もいた。
「行こう。道案内はレイに任せる。レイ、頼んだぞ」
カイは目線で、丘の上を指した。怜は森へと歩き出した。
自分がどこを歩いて帰ってきたのか、怜は覚えていなかった。しかし、臭いが残っていた。怜は犬の臭いを辿って森の中を歩いた。歩いている間、狩人たちは一言も話さず、あちこちに目をやっていた。
時折、葉から落ちた雫が、肩や頭に当たる。下草の露で、腕や足が濡れた。
進んでいくうち、次第に臭いが濃くなってくる。黒い、焦げ茶色の臭いだった。記憶の中の犬の姿が鮮明に蘇る。潰れた鼻の穴を思い出す。毛穴の一つ一つが分かる。目の前に立っているように錯覚した。
さらに進む。奥へと分け入ってゆく。臭いが濃く、強くなる。臭いは熱を持っている。臭い。臭い。熱い。逃げられない、と思った。いつの間にか、臭いが怜の全身に纏わりついている。粘液のように纏わりついている。息ができない。熱い。痛い。動くことができなかった。逃げよう、そう思っても、足が動かない。足の感覚がない。気が付けば何も見えない。何も感じない。
助けて。怜は叫んだ。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助「おい」
「大丈夫か。聞こえているか」
カイだった。「ここなのか。犬がいたのは」
怜は頷いた。握った手のひらに、じっとりと汗をかいていた。
「よし、じゃあここら一帯を捜してみよう。無理はするな、互いの位置が分かるように移動しながら捜すんだ」
狩人たちは頷き、二人一組になって、散っていった。怜とカイだけがその場に残った。
「俺たちも捜そう。後ろをついて来てくれ」
カイが歩き始めた。怜は、カイの背中を見ながら歩いた。
「なあ、レイ」
しばらくして、カイが口を開いた。犬の臭いは薄まっていた。
「旅の当てはもう見つかったか」
「まだ」
「そうか。防人は暇じゃないか」
「別に」
「そうか……ソマルとは、うまくやれてるか」
「うん」
「ならよかった」
それだけ言うと、カイは口を閉じた。
樹上でぴろぴろと鳥が鳴いている。羽ばたいて、影から影へと飛び移る。怜は、前を歩くカイの背を眺めた。棒の先に獣の骨を括り付けただけの槍を、強く握りしめている。迷いそうな森の中を、カイはどんどん進む。真っ直ぐに、どこかを目指しているような歩き方だった。カイにしか見えない道があるかのような、確かな足取りだった。
やがて、ぽっかりと樹木が途切れた空間に出た。端から端まで、十メートルもないくらいの広さだった。地面には草一本生えておらず、砂のように白く乾いた土に覆われていた。
「ちょっと休もう」
カイは広場の中央を見つめながら、言った。カイの目線の先を追っても、なにも見当たらない。
怜は違和感を覚えた。変だと思った。カイが嘘をついているような気がした。
「とりあえず、座れよ」
怜は座らなかった。
「疲れたろ。座って休めよ」
怜は座らなかった。カイも立ったままだった。槍を握ったまま、広場の中央を見つめ続けていた。
空が赤く染まっていた。紅を塗ったような雲が流れる。カイは日が暮れるまでに見つからなければ村に戻ると言っていた。夜が近かった。
カイは一言も話さなかった。気が付かないほどゆっくり、ゆっくりと影が濃くなってゆく。カイの全身が影になって、空気に溶け出し始める。ぴくりともせず、じっと立っている。
「日が暮れてきたな。帰るか」
カイが沈黙を破った。怜を振り返った。
怜は、カイの目を見た。
あれ。怜は思った。
カイは怜の返答を待って、口を閉ざしていた。
カイは怜の瞳を見つめ、口を動かしていた。声は聞こえなかった。
あれ。
カイは、何も答えない怜を訝しげに見ていた。
カイは、ずっと話し続けていた。何かを訴えていた。必死に唾を飛ばしていた。
あれ。
カイが二つあった。重なっていた。二つのカイが重なっていた。わけが分からなかった。
カイは黙っている? それとも、喋っている?
声が聞こえた。
お前は、いつまで村の米を食うんだ。いつまで河の水を飲むんだ。いつまで俺たちの村にいるんだ。
ここにはさ、犬を捨てるんだよ。殺した犬を捨てている。だから草も木も生えない。なぜか生えない。芽が出ても腐ってしまうんだ。この白いの見ろよ。砂じゃないぞ。骨だよ。犬の骨だ。なぜか広がるんだ。犬の死体を埋めておくと、いつの間にか肉が腐って、骨が砕けて、地上に出てくるんだよ。俺も大人から聞いた話だから、本当なのか分からない。でも、これは骨なんだ。本当は骨じゃないかもしれない、土が乾いて白くなっているだけかもしれない。変なキノコが生えているのかもしれない。でも、これは骨なんだ。骨じゃないとしても、これは骨なんだよ。なぜかは誰も知らない。村長も占い師も旅人も、本当のことは何も知らない。でも、これは骨だ。
お前は本当は何がしたいんだ。何が目的なんだ。なぜソマルから離れない。お前達はいつも一緒にいるじゃないか。働いているときも、飯を食っているときも、寝ているときも、ずっと一緒にいるじゃないか。なあ。お前、何がしたいんだよ。おい。答えろよ。何がしたい。なんでこの村に来た。どこで、どうしてソマルと会った。なあ、答えろ。さあ、答えてくれ。頼むから。何も言わないのか。おい。おい、おい。おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! こ! た! え! ろ! よ! なんでなんだよ。なんでお前がっ。返せよ。ソマルを俺に返せ。ここはソマルと俺の秘密基地だったところだ。二人で見つけたときは本当に嬉しくて、楽しかった。でも、お前が、ここを、汚した! 俺のソマルの思い出を、お前が汚した! ソマルは変わってしまった。変えられてしまった。ソマルの心をお前に向けるようにお前が呪いをかけた。そうだろ、そうだろう図星だろう。お前人間じゃないぞ。人の心なんて持ってないだろう、お前。村にも全く馴染もうとしないでいつもソマルとくっつきやがって。村の奴らもお前なんかどうでもいいんだぞ。どこで死のうが誰も気にしない。お前が死んでしまえばソマルの呪いも解けるはずだ。俺がソマルを取り戻すんだ。俺のだ。俺のソマルだ。だから、だから、だかっら、し死ね。
本当は、本当はなあ。お前は犬だったんだ。誰も気づかなかった。でも俺は気づいた。お前は犬だった。正体を隠せていると思ったか。お前をそのままにしていたら村のみんなが腐って死んでしまう。俺が村を守る。お前は本当は犬だから。俺が犬を殺す。なあ。
わけが分からなかった。喋っている男の両目の焦点は、怜に合っていなかった。怜ではない何かを見ていた。
日が暮れる。
男が槍を持っている。睨んでいる。ぶつぶつと呟いている。目が血走っている。
怜は丸腰だった。武器を持った男に勝てる見込みはなかった。
穂先が怜を向いている。震えている。男はゆっくりと歩み寄る。近づいてくる。怜は背後の森に目を走らせた。深い穴のような闇がどこまでも続いている。
男は怜を殺そうとしていた。怜の体を突いて、殺そうとしていた。
「おい、大丈夫か」
カイが、怜の顔を覗き込んでいた。
「あっ」
槍を構えた男は霧散した。目の前のカイは一人に戻っていた。
「疲れたんだろう。すまんな。連れまわして」
カイが先に立って、広場を出た。
「おおい、皆、村に戻るぞ」カイが叫ぶと、あちこちから声が返ってきた。
村へ戻る途中、カイが言った。
「レイも今日は疲れてるだろうから、ソマルの世話は俺の家でやるよ。レイはゆっくり休んでてくれ」
「だめ」
勝手に口から言葉が出た。言って少ししてから、だめだ、と思った。カイは少々、面食らったようだった。
「あ、おう、そうか、わかった。じゃあソマルの世話を頼めるか」
怜は頷く。
「じゃあ、頼んだ」
カイは肩越しに軽く頭を下げた。
ふ。
カイが目線を前に戻した時だった。カイの両肩から、黒い陽炎が湧いた。闇の中でもはっきりと揺らめいている。水が落ちるように、揺らめきは下から上へと昇っていく。しかし、ほんの数秒後にはすべて立ち消えて、何も見えなくなった。
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