2-2
稲穂が色付き始めた。
その日、怜はある噂を聞いた。
「王様が代替わりしたらしいよ」
トマは戸口に持ってきた芋をどさりと下ろし、ソマルと怜の顔を覗くようにして言った。
夕暮れ時だった。村人たちが、それぞれの家に戻ってきていた。
「そうなの?」
「ああ、病で亡くなったらしい。村長が今日、河向こうで聞いてきたんだってさ」
河向こうというのは、対岸に集落を構える村のことだった。
「まあ、あたしらにゃ王様がどうなろうが関係ないけどさ」
そう言うと、トマは腰をさすりながら、自分の家に戻っていった。
「王様が」
次の日、崖の上で、ソマルがぽつりと言った。
鈍色の雲が空を覆っていた。くすんだ灰色の海原を、怜は眺めた。
「王様が代われば、兵隊も代わる」「防人をしていれば兵士に選ばれやすいから、もしかしたらなれるかもしれない」「でも、犬を殺したことがない兵士なんているわけない。兵士になれるわけない」
ソマルはぽつり、ぽつりと言葉を並べた。怜に向けたものではなかった。誰に向けたものでもなかった。
怜は何もできなかった。
遠くで、鳶が鳴いた。
「兵士になるには、犬を殺さないと」「ぼくが、殺さないと」「この、ぼくが犬を殺す」
温く湿った風が吹いた。薄暗かった。背後の森に闇が生まれていた。
ぴいいぃ。また、鳶が鳴いた。
「帰ろう」怜は呟くように言った。妙な臭いがした。風に乗って流れてくる。森から。闇から。
臭いが風に乗ってやって来る。
「ソマル」怜はソマルの手首を掴んだ。「帰ろう」
「だめだよ」
ソマルは手を振り払った。
「ぼくは犬を殺さないと。レイは帰ってなよ」
「ソマル。帰ろう。臭い」
臭いはどんどん強くなってゆく。
「今朝も水浴びしたから大丈夫だよ。臭くないよ。それより、犬を殺さないと」
悪臭が怜の鼻を突く。
臭い。臭い。臭い。臭い。あつい。
「帰ろう、ソマル。早く」
「もう、うるさいな。犬を殺さなくちゃだめなんだよ。犬を殺すためには兵士にならなくちゃいけないためには兵士になるためには犬を殺さなくちゃだめなんだよ」
「嫌だ。帰ろう。良くない」
怜はソマルの腕を掴み、引っ張った。空気が淀んでいる。臭いが近づいてくる。汗をかいていた。逃げないと。怜が力を込めても、ソマルはびくともしなかった。
「ぼくが、犬を、殺す。ほら、犬だよ」
ソマルは森の奥に視線をやった。怜はソマルの視線を追った。
木陰に、犬が立っていた。
全身に薄い毛がびっしりと生えている。瞳は灰色で、鼻は押し潰したように広がっている。頭の上に、歪な耳が張り付いていた。陰茎が勃起していた。
犬は口を半ば開いて、両腕を垂らして、じっと怜とソマルを見ていた。
声が聞こえた。
「僕ですよ。リンリさん。僕ですよ」
犬は少しも動いていなかった。ただ息を吸って、吐いていた。
また、声がした。
「リンリさん。もうすぐ迎えに行きますから。僕たちがそちらに着くまで待っていてください」
「誰」怜は言った。
ソマルが怜の顔を見た。
「なにが? 犬だよ。やっと来たよ。犬だよ」
「違う」
「何が違うんだよ。あの顔を見てみろよ。犬だよ。やっとぼくにも順番が回ってきたんだ」
違う、そうじゃない。誰? 臭い。逃げないと。犬。リンリ? 誰。ソマル。
危ない、逃げないと。
怜はソマルの手首を掴んだ。犬の視界から逃れようと、崖沿いに走り出す。
「ちょっと」
ソマルが叫ぶ。「犬がやってきたんだ。ぼくの番なんだっ」
怜は必死にソマルを引っ張って走った。小石が足にめり込む。痛みを感じる暇すらなく走る。一瞬振り返る。犬の姿は見えない。追ってきていないようだった。
「止まって、レイ。ねえ」
ソマルの声は耳に入らなかった。走ることだけを考えた。
「ねえってば」
ソマルが大きく腕を振った。怜の手からソマルの感触が消えた。怜は振り返った。
「殺すんだよ!」
ソマルは怒鳴った。顔に血が上り、額に筋が浮いていた。
「ぼくが! 犬を! 殺すんだぞ!」
ソマルは背中を曲げて叫んだ。怜が聞いたことのない声で叫んだ。
ソマルの声を聞いた瞬間、怜の全身の毛が逆立った。心臓の下の辺りが揺れて、下半身が痛く痒くなった。ソマルが怜を睨んでいる。怜の息が荒くなった。拍動が早く、強くなった。怜は危機を感じていた。殺されるかもしれない、と思った。ソマルに咬み殺されるかもしれない、と思った。ソマルは下から突き殺すような視線を怜に向けていた。股の間に血が集まる。殺される。と思った。殺されてみたい、と思った。ソマルの口から、獣のような臭いがした。ソマルに殺される光景を想像した。怜は勃起した。ソマルが見ている。怒っている。殺そうとしている。怜を見上げている。睨んでいる。怜の目を突き殺している。殺されたい。蹴られたい。咬まれたい。ちぎってほしい。ばらばらにして、捨ててほしい。潰して肉にしてほしい。爪の先まで殺してほしい。拒んでほしい。内も外も何もかもすべて否定してほしい。
もうぜんぶ、ソマルにこわされたい。
「あぁ」
性器が痙攣を起こした。
「あぁ」
怜は射精した。
涙が溢れた。胸に熱が込み上げる。怜はその場に膝をついて嘔吐した。溢れて、零れて、止まらなかった。胃の中のものを出し切っても、まだ溢れてきた。
ソマルは怜を見下ろしていた。
鼻の奥で、胃酸がつんと臭った。喉が痛かった。
ぽつり、ぽつりと、雨が降り出した。しとしと、ぱらぱらと降り出した。
衣に雨が浸み込む。顔に雨粒が当たる。冷たい、と思った。いつの間にか、犬の臭いは消えていた。
どさり、とソマルが倒れた。怜は慌てて傍に寄って、背中に手を回した。小さく息をしている。眠っているようだった。
また、声が聞こえた。
「リンリさん。逃げないで。僕たちは仲間です。安心してください。もうすぐ迎えに行きますから」
怜は森に目をやった。何の気配もなかった。
雨は次第に強くなって、辺りが白く煙り始めた。既に二人はずぶ濡れになっていた。
ざああああ。
降り続く雨の中で、怜はソマルの肩を抱き、覆い被さった。濡れた肩は冷たかった。ソマルの皮膚の奥から、体温がじわりと湧き出る。雨で、肌と肌が溶け合うようだった。怜はソマルの首筋に息を吐き掛けた。ソマルの顔に付いた雫を舐め取った。ほんのりと甘く、苦かった。水の味だった。
怜がソマルを背負って村に戻ると、家の前で待っていたカイが目を丸くした。
「どうしたんだよ」カイが二人に駆け寄って、訊ねた。
「犬」怜はそれだけ言った。ソマルを運ぶので疲れていた。
雨は止んでいたが、雲は上空に佇んでいた。
「ソマルは犬にやられたのか」
怜は首を振った。
「犬がいて、逃げてきた」
「ソマルに怪我は」
「ない」
「分かった。とにかく、犬が出たことは皆に知らせてくる。お前は家に戻ってソマルの様子を見ていてくれ」
怜は家に入ってソマルを横たえた。衣を脱がせて、替えを着せた。怜も衣を着替えた。
村の外が騒がしくなった。怒号が聞こえた。家の中は暗く、しんとしていた。土壁から、灰色の影が射していた。暗がりの中に、ソマルの輪郭がぼんやりと浮かんでいた。
静かだった。外の喧騒が、遠くの出来事に感じた。空気が水の膜のように緩んで、張りつめている。小さく耳鳴りがする。ソマルは眠っている。
怜はソマルと向かい合うようにして、横になった。間近にソマルの顔があった。目を瞑って、小さく開いた口から寝息を吐いている。怜の歯茎が痒くなった。怜はソマルの顔に、自分の顔を近づけた。唇の間に、鼻先が付いた。そのまま少しだけ、唇を突いた。やわらかい、と思った。ソマルの吐息の匂いがする。生温く、透明な匂いだった。ソマルは眠っている。どんな夢を見ているのだろう。怜は思った。ソマルと同じ夢を見たい、と思った。ソマルと同じ夢の中にいたい。夢の中でも一緒にいたい。怜はソマルの手を取り、その指を吸った。細い指を舌でなぞった。ソマルが今見ている夢を、注いで欲しいと思った。指を咥えながら、怜はソマルを見つめる。ソマルは眠っている。
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