2-1

 手を取る。

 周りの人が見ている。消す。

 二人きりだね。

 ランドセルが邪魔。降ろして。

 座って。手を見てて。俺の手、見てて。

 もっと見て。

 服が邪魔。脱いでよ。見えないよ。

 俺も脱ぐから。

 ほんとは内臓まで見せたいけど。ほんとは血管で覆ってあげたいけど。まだ駄目。

 まず俺から。俺から中に入る。俺の中に入れてあげるのはその後。

 服、早く脱いで。大丈夫だよ。可愛いから。

 綺麗だよ。白いね。

 細いね。折れそう。折っていい? うそうそ。

 折りたいのはほんと。

 もうちょっとじゃん。全部見せてよ。俺、もう全部脱いだよ。

 見て。俺、見て。上から下まで全部俺。毛とか、しわとか、爪とか見て。全部見て。

 可愛いね。全部見てるよ。可愛いよ。

 俺から入るから。順番だから。終わったら俺の中に入って。

 俺を着て。

 俺を壊してから、俺を着て。

 俺の皮膚を壊して、縫い合わせて、着てよ。

 中に入ってよ。

 俺から入れるから。俺から先に壊れるから。

 壊れるよ。壊して。俺を。着て。壊れて。


 壊れてよ。


 叢に精液がぼとぼとと落ちる。息が上がる。耳に熱が集まっている。顎が震える。顔面に陽光が照り付ける。瞼を開ける。

 勃起が収まってから、怜は足元に放ってあった衣を被った。

「ヨウコ」

 名前を呼んだ。ふと、なぜ呼んだのか分からなくなった。

 意味は無かった。ヨウコ、という音だけがあった。

「ヨウコ」「ヨウコぉ」「よおこ」「ようこ」

 何か忘れている、と思った。何度も名前を呼んだ。

 何の? 何の名前?

 何が? 戻ろう。怜は思った。

 性器がじんじんと痺れていた。麻の生地と擦れて、妙な気分になった。

「おはよう」

 家に帰って、ソマルと粥を啜った。ソマルが椀に口を付けている。黒く長い睫毛が、濃く線を描いている。

 頭がぼうっとしていた。射精のせいなのか、湯気のせいなのか分からなかった。体に力が入らなかった。

 怜は、ソマルの髪に米粒が付いているのを見つけた。

 かわいい。怜は思った。食べているところがかわいい。米粒に気づいていないのがかわいい。

「ソマル」

 怜は、ソマルの頭に手を伸ばした。ソマルが椀を両手で持ったまま、怜の手を目で追う。また、かわいいと思う。

 怜は、ソマルの頭に触れた。さら、と髪が動いた。米粒を指で取り除く。水気のある白い欠片は冷えていた。

「米粒、付いてる」

「ありがとう」ソマルが笑った。

 無数の針金で心臓が締め付けられたように感じた。

 撫でたい、と思った。撫でたい、と思った。

 ソマルはもくもくと粥を食べている。怜が見ていても、気付いていないようだった。

 いきたい。

 いきたい。

 ソマル。

 怜は手を上げかけて、下した。やめた。

 ソマルに嫌われたくなかった。


「怜は、犬を見たことある?」

 崖の縁に座って、ソマルが言った。

「あるよ」

「犬って、怖い?」

「別に」

「どのくらいの大きさなの」

 怜は近所で飼われていた犬を思い出した。いつも車庫で寝そべっていて、怜と弟がその家の前を通ると、いつも立ち上がって吠えた。白い大型犬で、体は怜よりも大きかった。怜が中学に入る頃には、死んだのか居なくなっていた。

「このくらい」

 怜が腕を広げて示すと、ソマルは目を見開いた。

「ええ。色は? 強い? そんなに大きいやつ、どうやって殺すの?」

「殺さないよ」

「なんで」

「犬は飼うものだから」

「だめだよ。殺さないと。咬まれたら頭が壊れちゃうんだよ。それに村も乗っ取られてしまうかもしれない」

「どうして」

「犬はぼくたちの国を乗っ取ろうとしているんだ。やつらの国は稲が育たないし獣もいないから。だからあんまり腹が減ると、仲間すら食べてしまうんだよ」

 怖いだろ。ソマルは言った。

「犬は仲間を大事にしないんだよ。いざとなったら食べてやる、そう思っているんだよ。頭がおかしいんだ。だから人間なんかじゃない」

 意味が分からなかった。

「人間じゃないって、当り前じゃないの」

「そうだよ。当り前さ」

 ソマルは興奮していた。顔に血が上って、耳が赤くなっていた。怜を見つめる目に力が籠っていた。

 ソマルは息を吐いて、海に目を戻した。

 潮風が吹いていた。海上で、海鳥がひらひらと舞っていた。

 いつ見ても変わらない風景を、怜とソマルは眺めた。

「ぼく、兵士になりたいんだよ」

 ソマルが言った。海を眺めていた。

「ぼくたちの国を襲うなんて許せないだろ。仲間を食べてしまうなんて許せないだろ。だから、ぼくはあいつらを殺したい。兵士になってあいつらを殺しに行くんだ」

「軍隊があるの?」

「うん」

 ソマルは頷いた。海を眺めていた。

「王様が軍を持っているんだ。兵士たちは普段、都で暮らしていて、王様を守っているんだけど、五年に一度、軍の中から選ばれた兵士たちが、犬を殺しに行くんだ。ルワン山脈を越えて犬の国に攻めていくんだ」

 吹き上げる風が強くなった。下草が大きく倒れてざわめいた。

「犬たちがもう攻めてこないように殺しに行くんだ。だからぼくは兵士になりたい。兵士になって犬を殺しに行きたい」

 ソマルは己に言い聞かせるように言った。海を見つめていた。

「防人をしているのも兵士になるためなんだ。この村からも何人か兵士になるために都に行ったけど、みんな防人として働いて、犬の殺し方を学んでから行くんだよ。だからぼくも防人になったんだけど」

 ソマルは残念そうな顔をした。

「ぼくの父さんが前の代の防人だったんだけど、死んでしまったんだ。ぼくが犬の殺し方を教わる前に」

「なんで死んだの」

「神様と交わったんだよ。絶対にやってはいけないことなのに。分かるだろ?」

〈神〉。怜は思った。

「神様と交わった父さんはすぐ死んだよ。母さんも酒の神様に体を売って死んでしまった」

 だから、ソマルは一人だったのか。怜は思った。

「レイはさ、神様のこと、好きかい? この世は好き?」

 ソマルが怜のほうを向いて尋ねた。

〈神〉。

〈世界〉。

 好き。

 怜は考えた。ソマルと見つめ合った。

「好き、と思う」

〈神〉、がソマルなら、いいと思った。〈世界〉がソマルなら、好きだろうと思った。

「そう」

 ソマルは言って、目を伏せた。

「ぼくは神様は好き。ぼくを生かしてくれているから。でも、この世は嫌い。犬がいるから」

 ソマルは一瞬、言葉を切った。それから、ぽとりと落とすように、言った。

「ぼくがいるから」

 ソマルは目を瞑った。抱えた両膝の上に、頭を載せた。何かを堪えているようにも、昼寝をしているようにも見えた。

 しばらくして、ソマルが口を開いた。

「ぼくは、やせで、ちびで、力が弱い。だから、兵士に向いてないって父さんは言った。なんでぼくはぼくなんだろうって思った。なんでもっと強い体じゃなかったんだろうと思った。この世に人はたくさんいるのに、なんでぼくはぼくなんだろうって思った」

 怜は、〈無の神〉が語ったことを思い出した。

 なぜ、お前はお前なのか。

「ぼくは、村の男の人みたいな強い体が欲しかった。強くなりたかった。でも、ぼくの体は女の人より弱っちい。体を鍛えても力がつかない。背も伸びない。なんでぼくだけなんだろう。なんでぼくだけが弱いんだろう」

「……なぜ」

 怜は、ぽつりと言った。

「なぜ。あ」

「うん?」

「あ」

 怜は、触れた気がした。何か見えないもの、〈それ〉であるものに、触れた気がした。

 なぜ、お前はお前なのか。


 それは、お前がお前だからだ。


「それは」

 怜は、ソマルに伝えようとした。ソマルが怜を見ていた。伝えないと、と思った。いまの気付きを伝えないと。

「それは」

 しかし、そこから先は、言葉にならなかった。伝えるべきことが複雑に巧妙に隠れてしまった。掴んでいたはずのものが、するりと手から零れ落ちたような感覚だった。水のように形を変えて、怜の頭から零れ落ちた。

 怜は口を閉ざした。ソマルも目を伏せた。

 風が吹く。草木が揺れる。日が動く。二人で座っている。

 存在している。

 水平線の上を、雲が滑っていた。


 家に戻るとすぐ、カイが訪ねて来た。

「元気か。ソマル」

「どうしたの」

 村長の息子は入り口を潜って、中に入った。カイは、村の大人と比べても大柄だった。

「いやあ、まあ、ちょっと。最近あんまり話す時間がなかったろ? 元気でやってるか見に来たんだ」

 カイは、怜にちらちらと目をやりながら言った。

「元気だよ」

「ならよかったよ。旅人ともうまくやってるのか」

「うん。あれ、レイのことなら、村長に聞いてるんじゃないの? ぼく、レイのことはいつも村長に話しているけど」

「ああ、そういやそうだ」

 カイは家の中を眺めまわした。

「それにしても久しぶりだなあ。ソマルの家」言いながら、囲炉裏の前に腰を下ろした。窓から西日が差し込んでいる。

「昔は毎日遊んだね」

「そうそう、森でかくれんぼしたり、河で泳いだり。楽しかったよなあ」

「うん。楽しかった。そうだ。毎朝レイと河で水浴びしているんだけど、カイも一緒に行かない? 気持ちいいよ」

「え、あ、おう。じゃあ、俺も行こうかな」

 カイは戸惑うように怜を見た。温く、温度の低い笑みを張り付けている。

「レイ……とは、仲良くやってるのか」

「うん。レイは面白いよ」

「そうかあ、はは」

 薄暗い空間に、笑い声が響いた。

 少し間をおいてから、カイは言った。

「なあ、ソマル。お前、狩りをする気はないか」

「え」

 ソマルの表情が固まった。「どういうこと?」

「防人を辞めてさ、俺たちと一緒に狩りをしないか」

 カイは両手を広げた。

「いや、お前、防人になってからはいつも暇だって言ってたろ? 親父さんも何も教えてくれないって。犬だってめったに現れない。それに一日中ただ海を眺めて過ごすなんて、辛いだろ? なら、俺たちと一緒に狩りに出たほうがお前のためになると思ったんだ。大丈夫。初めは不安かもしれないけど、俺がちゃんと守るから。だから、な」

「いや、でも」

「俺も最初は怖かったよ。怪我をすることもあるし、獣に襲われることもある。でも仲間がいるから大丈夫さ。慣れてくるよ」

 ソマルが黙っているのを見て、カイは猫撫で声になった。

「ん? 何がそんなに気になるんだ?」

「レイだよ」

 ソマルは言った。

「レイはどうなっちゃうの? レイも狩人になる?」

「レイは旅人だから、狩りはさせられない。レイは正式に村の者になったわけじゃない」

「なにそれ」

「ていうか、レイはいつまで村にいるつもりなんだ? いや、いてくれるのは全然いいんだ。旅人が来るのは稀だから。でも、なんだ、心配、なんだよ。何か理由があって旅を再開できないなら、手伝ってやりたい。どうなんだ?」

 カイは、怜と目を合わせた。

 ソマルと一緒にいたい。怜はそのことだけを思っていた。

 答えないとだめなのか? 怜は思った。なぜ? こいつはなんだ? なぜソマルと話している? 俺を探っているのか? なぜ? 疑っている? 警戒している?

 カイの両目は、怜を見ているようで、見てはいなかった。ただの記号としてしか、怜を見ていなかった。怜はそう感じた。急激に憎悪が増した。邪魔だ、と思った。

「ぼくが頼んだんだよ。村にいてほしいって」

 ソマルが言った。今度は、カイのほうが固まった。

「狩りもほんとうはやりたいけど、でも、ぼくは兵士になりたいんだ。それにレイと一緒に仕事ができないのは、なんか、嫌だ。それなら防人のほうがいい」

「あ、はは、そうか」

 カイは、乾いた笑いを発した。

「うん、分かった。じゃあ、まあ、気が変わったらいつでも言ってくれよ」

 それから誰にも目を合わせず、立ち上がり、入り口へと歩いた。家を出る間際に、振り返って言った。

「ソマル、また、遊ぼうぜ」

「うん」

「……じゃあ、またな」

 カイは背を丸めて出て行った。入ってきた時よりも、小さく見えた。

 日は沈んで、暗さが増していた。ソマルは頬に手を当てて、考え込んでいた。何度か口を開けたり閉じたりした。

 少ししてから、ソマルは言った。

「レイは、防人、楽しい?」

「うん。楽しい。すごく」

 すぐに答えた。ソマルといられるだけで楽しい。

「……良かった」ソマルは微笑んだ。

 ソマルが囲炉裏を回り込んできて、怜の隣に座った。肩が触れた。ソマルの肌は温かかった。心臓がとくんと波打った。

「良かった」

「うん」

「レイの肌、冷たい」

 ソマルは、怜の肩に頭を預けた。頬に絹糸のような髪が触れた。

「きもちい」

 ソマルは目を閉じた。呼吸の度、髪がさら、と頬を撫でた。

「い、よう。一緒に」言おうか言うまいか、しばらく逡巡してから、怜は言った。

 ソマルは顔を上げて、怜の横顔を見た。

「うん」

 笑みを浮かべて、頭を怜の肩にまた戻した。

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