1-4

「防人っていうのはね、村を守る仕事なんだよ。知ってる?」森の中を歩きながら、ソマルが言った。

 知らなかった。怜は首を振った。

「じゃあ、犬は知ってる?」

 怜は頷いた。

「防人はね、犬から村を守るんだよ。犬はルワン山脈を越えたり、海を渡ったりして攻めてくるんだ。だから防人が見張っておくんだ。そして、犬が攻めてきたらいち早く村に知らせる。それがぼくらの仕事だよ」

 ソマルは胸を張った。しかしすぐに苦笑した。

「でも、ぼくが防人になってから、一度も犬は攻めてきていないんだ。いや、それは良いことだし、嬉しいんだけど」

 ソマルはその先を言わなかった。

 森を出た。二人は、適当な草地に並んで腰かけた。

「レイの生まれた村は、どんな村だった?」

 どんな村。怜は思い出そうとした。

 ヨウコ。

 それしか、浮かばなかった。

 憶えている。自分が生まれた家も、通っている学校も、小さいときに作ったひみつ基地の場所も、家族の顔と名前も、すべて憶えている。

 しかし、憶えているということを、憶えているに過ぎなかった。言葉にしようとすると、途端に記憶が立ち消えた。

 思い出すことはできた。しかし、それだけだった。

 怜が押し黙るのを見て、ソマルは口を開いた。

「別の話をしよう。レイは何をするのが好き?」

「セックス」口から勝手に言葉が出た。

「へえ、何それ」

「いや、なんか、男と、女でする、祭り、みたいな」

 どう言えばいいのか分からなかった。

「へえ、祭りかあ。ここの村でも祭りをやるよ」

「そうなの?」

「うん。年に一度、村のあちこちで火を焚いて、美味しいものをいっぱい食べて、朝まで踊るんだよ」

 ソマルは楽しそうに言った。

「秋になって、稲刈りが終わったらやるんだよ。水の神様にお礼をして、また次の年も河の水を流してくれるように祈るんだ」

 それから、怜を見つめて言った。

「だから秋まで、一緒に防人しようよ。祭りの日まで、村にいてよ。きっと楽しいよ」

「……いいよ」

 怜が頷くと、ソマルは笑った。

「やった」

 ソマルが身じろぎした。怜の肩と、ソマルの肩が触れた。

 草と土の匂いの間に、ふいとソマルの肌の匂いが混じった。微かに吐息の匂いもした。

 怜は、ちらとソマルを見やった。

 細い肩。膝を抱える腕。焼けた肌。小さな顔と艶のある黒髪。ふっくらした頬。長い睫毛。くりくりとした濡れる瞳。

 ソマルの姿が、いっぺんに脳裏に焼き付いた。

 胸が妙に疼いた。どうしてか、嬉しい、と思った。

 しばらくの間、二人は無言で座っていた。青い水の塊はどっしりと沈んでいて、水平線は微動だにしない。吹き上がる潮風が梢を揺らし、怜の、ソマルに借りた衣をはためかせた。

 何も起きる気配がなかった。

 昼になると、二人は一度、村に戻り、今朝の残りの粥をかきこんでから、再び海の見張りについた。

 高い雲が音もなく、空を渡ってゆく。雲の影が、海面をすううと滑る。背後の森で、ぴちぴちと鳥が鳴いている。

 時がゆっくりと流れていた。

 毎日、ずっと一人で、一日中、海を見ているのか。

 うつらうつらとしながら、怜は思った。

 ソマルは今朝のように、活発に話しはしなかった。眠そうな怜に気を使っているのかもしれなかった。

 別に、話しかけてくれてもいいのに。

 そう思って、隣を見ると、ソマルも眠っていた。瞼を閉じて、すう、すうと寝息を立てている。薄い胸がゆっくりと膨らみ、また元に戻る。


 かわいい。


 ふと、思った。それから、心の中でそうか、と納得した。かわいいんだ。

 嬉しい、と思った。自分がソマルをかわいいと思えることが嬉しい、という気もしたし、ソマルがかわいいことが嬉しい、という気もした。

 怜は、ソマル顔を覗き込んだ。

 ソマルは何も知らないのだ、と思った。怜がソマルに対して抱いた感情を、ソマルは知らない。何も疑わず、安心して眠っている。

 規則的に息を吸って吐くのを見ていると、胸が、きゅ、と締った。

 ソマルに触れたい、と思った。でも、触れたら嫌がるかもしれない。嫌われるかもしれない。君悪がられるかもしれない。怜は結局何もせず、海に目を戻した。


 防人として働く日々が続いた。

 朝飯を食べ、河で水を浴び、日が暮れるまで海を眺める。夜になると、帰らねば、という気持ちが湧き上がって、洞窟へと降りていく。〈無の神〉はあれから、長い話をしなくなった。以前のように、米の育て方や、塩の作り方を語って聞かせた。〈無の神〉の話を聞いた後、ぼうっとしていると朝が来た。

 洞窟を出て、朝日を背に受けながら崖を上っているときは、必ずヨウコを思い出して、泣いた。崖を登りきると、涙は枯れた。


〈無の神〉は、一日に一つだけ、話をした。それは魚の正しい干し方だったり、縄のほどけにくい結び方だったり、獣の狩り方だったりした。〈無の神〉はよく、儂はお前の生活が豊かになるように、知恵を与えてやっているのだ、と言った。そういう時は大抵、怜を嘲る様に笑った。

 その日も怜は、干し肉を片手に、洞窟に入った。〈無の神〉はいつものごとく、焚火を見つめて座っていた。

 風のない夜だった。深い洞窟の奥は静かで、炎の揺れる音すら聞こえそうだった。

「来たか」

〈無の神〉は、怜に目を向けずに言った。虚空を見つめていた。何かを思い出しているようでも、未来を見通そうとしているようでもあった。

 怜はその場に立ったまま、〈無の神〉が語り出すのを待った。いつもなら、話は始まっている筈だった。〈無の神〉は、一向に口を開かなかった。

 なにか、やってしまったのかもしれない。怜は不安になった。何も心当たりがなかった。

 地面に目を移すと、自分の体が炎の橙を照り返していた。ちらちらと光の濃淡が揺らいだ。

 怜は、炎の熱が感じられないことに気づいた。何も、燃えていなかった。炎に見えていたものは、炎ではなかった。

〈無の神〉は顔を上げて、怜の両目を見た。

「今日は少し、違う話をしてやろう」

〈無の神〉は、語り始めた。小さくはないが低く、静かな声だった。


 三角形の中で最も美しいのは正三角形だ、というのは間違いだ。三角形というのはな、正三角形のことだけを言うのだ。ひしゃげていたり、とんがっていたりするものは三角形ではないのだ。正三角形が三角形に含まれるのではない。三角形が正三角形なのだ。

 お前たち人間はそのことに気付かない。三角形の在り方は一つしかないということに気付かない。己の感覚を軽視し、理解しやすいだけの数学上の定義を信じ切ってしまっているのだ。

 もっと己の感覚を信じなければならない。三角形は正三角形である、ということを知るのではなく、感覚しなければならない。そして、そのためには、世界ではなく、己に目を向けなければならない。

 ただしそれは、己について考えることだけを意味しない。

 己に目を向ける、とは、己と己の知覚する世界に目を向けるということだ。

 世界を知覚しろ。

 お前は、世界とは何だと思う? 己とは何だと思う?

 まず初めに世界が在って、長い歴史の中のある時点でお前が生まれた。世界の中にお前が住んでいて、お前が死んでも世界はずっと続いていく。

 こういう世界の在り方をしているとほとんどの人間が思っているが、全くの勘違いだ。そういう世界の在り方は、経験や感覚からある程度推測ができるだけのものに過ぎない。実際の世界は違う。

 実際の世界というのは、お前たちに説明するまでもない。なぜなら、お前たちには既に、実際の世界がありのままに知覚できているからだ。

 ありのままに世界を感じるのだ。そして考えろ。

 世界とは、

 世界とは、お前の目の前に、お前を中心として広がり、お前が知覚することで初めて存在しているそれのことだ。

 お前が見る景色、お前が聞く音、お前が感じる手触り、お前が得る知識、お前の痛み、お前の言葉、お前を中心としたすべてが世界だ。そしてお前は、必ず世界の中心だ。お前が歩くということは、世界が後退するということだ。お前が何かを見るということは、世界がお前にそれを見せるということだ。

 世界は単に、お前から見える世界としてしか存在していないのだ。お前が実際に知覚している世界、目で見え、音が聞こえる世界は、お前を中心にせねば成り立たないのだ。 

 お前以外の他人にも世界が知覚できている、などとは思うな。現に世界は、どうしようもなく、お前にしか見えていないのだ。お前は他者が知覚しているであろう世界を知覚することはない。ならばお前の知覚するその世界以外に、世界は存在しない。

 故に、お前が存在しなければ、世界は存在しなかっただろう。

 世界はお前のみに依存しているのだ。お前なしに世界が存在することはありえないのだ。お前の誕生が世界の始点で、お前の死が世界の終点なのだ。

 まだまだ続きはあるが、とりあえず、世界についてはここで話を終えておこう。

 さて、儂は今、世界とは何か、について語った。次は自己についてだ。

 お前は、お前を中心として広がる世界の中にいると思うか? まあ、当たり前ながら、「お前の体」は世界の中に存在する。お前の目からお前の手や足は見えるだろう。それは当たり前に分かる。では、お前はどうだ?

「お前の体」ではなく、「お前」はどうだ。

 言っておくが、お前の体は当然、お前ではない。当たり前だろう。お前=お前の体、ということが成り立つわけがない。感覚的にもそうだろう。もしお前の体がお前だったならば、儂は「お前の体」などと表現せず、「お前」と言うだろう。お前の体はお前の所有物ではあっても、お前の本質ではないのだ。まずこれを理解しろ。お前の体はお前ではなく、他者であることを理解しろ。

 お前の本質は、核は、お前の体とは別のところにある。

 では、お前とはなんだ。

 お前の体、お前の心、お前の名前、そういうお前の所有物をお前から削り落としていった時、最後に残るのがお前だ。

 つまり、お前とは、世界の中心にある、ただ一点のことを言う。それ以外、すなわちお前の体も含め、お前が世界の中身として知覚できるものはすべて世界であり、お前ではない。お前以外のものが世界であり、お前は世界を成り立たせる原点なのだ。


 つまり、お前が知覚する世界にお前は存在していないのだ。


 だからこそ、お前は己に意識を向けなければならない。

 現に存在しているのに、存在しないお前を、お前は探し出さなくてはならない。お前がお前の居場所を突き止めた時、その時に初めて、世界とお前自身に明確な定義を与えることができるのだ。


 お前に関して、必ず言えることが一つある、それは、一つだけ在る、ということだ。

 ただ一つだけ、在る。

 お前の体だと思っているものは、もしかするとお前の単なる勘違いで、お前のものではないかもしれない。しかし、お前は現に存在している。すなわちお前以外のすべてが偽であろうと、お前だけは在る、ということだ。しかも一つだけだ。二つではない。必ず一つなのだ。

 それはなぜか?

 二つの状態が同時に、同一の場所に存在するとき、そこにはある状態が二つ存在するのではない。二つの状態が存在する、という一つの状態になるのだ。在るのは必ず一つだ。同時に存在する状態が三つでも四つでも同じだ。それらが同時に存在した瞬間、それらは、同時に存在する一つの状態として存在せざるを得ないのだ。これを覆すことはできない。存在してしまっている以上、在るものは在ることしかできず、その在り方は必ず一つだ。

 例えばお前が右目で見れば女で、左目で見れば男、という人間がいたとする。そして両目で見たときは女と男が重なり合っていたとする。この場合でも、お前が見ている人間は、右目で見ると女で左目で見ると男となる人間、という一つの存在に過ぎない。

 どれだけ別の状態を同居させようが、在る、という事実によって、それらの状態は常に一つに統合せざるを得ない。

 これが在る、ということだ。すべての存在は、在る、という土俵の上でしか動くことができない。どんな在り方をしようが、その存在は既に在ってしまっているのだから、一つの状態として在らざるを得ない。別の世界にいても、虚数的に存在していても、存在している限り、それは在る、ということに縛られているのだ。

 在る、の外側に行くことはできない。どんなに力のあるものでも、〈在る〉という決まりを否定することはできない。

 故に、儂は無を求める。儂は在ることに飽きてしまった。どのような在り方をしていても、結局は〈在る〉から逃れることができないからだ。

 儂はもううんざりしている。

〈在る〉ことにうんざりしている。


 語り終えると、〈無の神〉は姿を消した。後には、温度のない焚火のみが残った。

 気づけば、朝だった。怜は洞窟を出た。

 頭がぼうっとしていた。嵐が来て、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していったような感じがした。隅々まで破壊された。記憶と思考と感情が崩壊していた。

 怜は、日の光を浴びた。崖を登り切って、草の上に座った。

 まぶしい。と思った。

 まぶしい。

 誰が?

 誰でもない。

 誰って、なに?

 わたし? ぼく? おまえ? あいつ? これ?

 生きてます。在ります。ありがとうございます。どこから?

 朝。あさだよ。起きて。誰に言ってんの? ほんとうに朝ですか? 朝ってどういうことですか? 

 緑、黒、青、白、が、ある。

 これは、なに? この、見えているの、なに? どういうこと?

 なにがあるの?


 おれは、なにを、わかっている?


「おおい」

 遠くから、ソマルが歩いてくる。

 ソマル。

 ソマル。名前を思い出す。

 怜は立ち上がる。

 ソマルは怜の前で立ち止まって、おはよう、と笑った。怜が夜中になると家を抜け出すことに、何も言わなくなっていた。

「朝飯食べようよ」

 怜は、ソマルの背後の太陽を見た。白い光球が映った部分だけ、何も見えなくなった。

 太陽の残像。

 何も見えなくなった。

 何も見えない世界で、怜は思った。

 俺が在る、と思った。ソマルが在る、と思った。それだけだった。

 俺とソマルだけ。

 ソマルは、怜を見ていた。瞳が清水のように澄んでいた。舐めたいと思った。きれいだと思った。

 かわいい。怜は思った。心臓が硬くなった。

 動きたい、と思った。「心が動きたい」と思った。

「おはよう」

 怜は、ソマルと出会ってから初めて、おはようと言った。

 ソマルが笑った。おはよう、と言った。

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