1-3

 家に戻ると、ソマルは言った。

「そこに吊るしてる干し肉とか、家にあるもの、何でも食べていいよ。仕事は明日からだから、今日は休んでおいてよ」

 ぼくは仕事に行ってくるよ。ソマルはそう言って、外に出て行った。

 怜は、寝藁の上に体を横たえた。途端に全身が重くなった。上から何者かに押し付けられているかのようだった。手足がじんじんと音を立てている。心臓の動きに合わせて、とく、とく、と視界が僅かに揺れる。視界から色がなくなってゆく。耳鳴りがする。頭が働かない。

 ゆっくりと、気づかぬうちに瞼が下りる。

 目が覚めた。

 怜は体を起こした。

 夜だった。

 隣で寝息が聞こえた。ソマルが怜と向かい合うようにして、眠っていた。

 暗い。怜は、ぽそりと呟いた。

 外に出た。夜の風が、音もなく吹いていた。月も星も出ていない。曇っているようだった。どこを向いても全くの闇で、何も見えなかった。

 真っ暗。怜は呟いた。

 真っ暗。何も見えない。

 何も、無い。

 どろりとした濃い闇が、怜に纏わりついている。

 違う、と思った。

 闇は、纏わりついているのではない。

 浴びている、と思った。

 今、俺は、全身に、真っ黒な〈闇〉を、浴びている。

 あらゆるものが見えず、何もかもを隠す〈闇〉が全身に降り注いでいる。

 〈闇〉は怜を押し潰そうとしていた。怜に入ってこようとした。怜の体にぶつかり、あらゆる方向から交わろうとしていた。

 〈闇〉は意志を持っていた。怜は恐怖を思い出した。昨日、急に何も見えなくなり、光のない空間に放り出された恐怖を思い出した。しかし、思い出しただけだった。

 怜は恐怖を思い出しただけで、恐怖を感じてはいなかった。記憶の中の恐怖の形だけを思い出していた。

 ふいに、帰ろう、と思った。食べ物を持っていかないと。

 怜は踵を返し、ソマルの家の中に戻ると、天井に吊るした干し肉を一かけ取って、また外に出た。

 いつの間にか、目が〈闇〉に慣れていた。というよりか、どこに何があるかが直感的に分かった。目を瞑っても問題なく歩ける気がした。

 怜は丘を登って、森に入った。朝に通った時よりも、更に静かだった。時々、風が木の葉を揺らす音が聞こえた。風すら吹かぬ時には、自分の耳鳴りだけが聞こえた。

 森を抜けた。時折、首筋を弱い風が通り抜ける。怜は崖に立った。

 遥か下方で、微かに波の音が聞こえた。

 怜は、たった一人で、夜に立っていた。

 孤独、というのではなかった。ただ、一人だった。寂しくはなく、豊かでもなかった。

 怜は、自分がただ一つである、ということを強く意識した。体は大量の分子で構成されていて、それぞれが働き、結びつくことで命が維持される。そういうこととは別に、仮に自分が切り刻まれてばらばらになっても、磨り潰されて形がなくなっても、自分はずっと一つのものとして存在し続けるのだという気がした。同時に、俺は俺でなくなっても、俺であらざるをえないのだ、とも思った。少し、悲しい気がした。

 夜を風が吹いた。

 怜以外は夜で、夜以外は怜だった。

 怜は夜に内包され、けれども夜の一部ではなかった。怜は夜の中で、夜とは独立に存在していた。


 洞窟に戻ると、〈無の神〉は昨日と同じように、焚火の前に座っていた。〈無の神〉は怜の持っている干し肉に目をやると、ふっと笑った。盗んだか、と言った。

「まあ、よい。お前も座れ。そして食え。一つ、話をしてやろう」

 怜は素直に従った。干し肉を齧るのを見て、〈無の神〉は語り始めた。

「まずは問おう。なぜ、お前は、お前の目から光を見、お前の耳から音を聞き、お前の鼻から匂いを嗅ぐのだ? そして、お前は、お前がお前の中にいることが分かっているのに、なぜお前が一体、どの世界のどこにいるのか分かっていないのだ?

 問いの意味が分かるか?

 一つ目は、なぜお前は、お前以外の誰でもなく、お前からしか世界を知覚することができないのだ? という問いだ。

 二つ目は、なぜお前は、お前自身が存在することを確信しているのに、どこにいるかわからないのだ? という問いだ。おい、洞窟の中にいるじゃないか、なんてことは言うなよ。それはお前が感覚器官に依存しているからだ。目を瞑って、耳と鼻を塞いで、肌の感覚を無くしてみろ。同じことは言えまい。お前が二次元に押しつぶされたり、四次元に広げられたりしたとき、お前はそれを感じ取れるか? 実際、ここはお前の元いた世界とは違うからな、それすらお前には感じられんだろう。

 さて、一つ目の問いの答えを教えてやろう。それはな、お前が人間だからだ。生物の意識は皆、一つになるようにできている。それは〈生き物の神〉が決めたことだ。儂は鷹の目から海を見下ろすこともできるし、岩魚の肉になって水の流れを知ることもできる。生き物は不自由だ。それこそが良いという奴もいるがな。

 二つ目の答えも教えてやろう。それはお前がお前として存在しているからだ。お前が一人の人間として存在してしまっているからだ。お前が人間でなくても同じだ。常に何かである場合、例えば馬でも石ころでも、神でもよい。何かである場合、お前はすでに一部と化しているのだ。すでに内包されているのだ。〈在る〉ということに内包されているのだ」

〈無の神〉は、嬉々として語った。〈無の神〉が顔に浮かべた恍惚を、揺れる炎がちらちらと照らしていた。

「今日はここまでにしておこう。明日も腹を満たし、豊かになれ。また話をしてやる」

 そう言うと、〈無の神〉の体がすうと透けて、消えた。焚火だけが燃えている。怜がぼんやりと火を眺めていると、ぱちり、ぱちりと爆ぜた。

〈在る〉

 この言葉が、怜の頭の中でぐるぐると回っていた。〈在る〉という状態を想像しようと思っても、うまくいかなかった。目的地に向けて歩いていても、いつの間にか違う方向を向かされている。そんな感じだった。

 怜は、焚火を眺めて、じっと座っていた。やがて薪が灰になり、炎が消えた。ついと視線を上げると、洞窟の壁のでこぼこがよく見えるようになっている。入り口を振り返ると、光が入ってきていた。

 怜は立ち上がって、洞窟を出た。ごつごつとした岩場を登ってゆく。潮風が吹き付けている。振り返ると、地と海の境目から、朝日が昇っている。怜は光に目を細めた。

 あ、と思った。

「ヨウコ」

 急激に記憶が蘇った。夢から現実に引き戻されたような感覚だった。

 悲しみと寂しさが、どっと押し寄せて、怜を締め付けた。

 ヨウコに会いたい、と思った。触れたい、と思った。自分よりも細く、背の高い体と交わりたかった

 ヨウコに会いたかった。セックスが恋しかった。

 胸が詰まり、こらえきれなくなって、涙が出た。喉の奥と、顔が引き攣れて痛かった。

 怜は腕で涙を拭った。歩くしかないと思った。

 村に戻ると、怜を見つけたソマルが、慌てた様子で走り寄った。

「レイ、どこ行ってたんだよ」

 朝起きたらいないから、心配したよ。ソマルは言った。

「ごめん」

「まあいいよ。朝飯にしよう」

 ソマルは、粥を炊いた。椀によそい、漬物を載せて怜に渡した。玄米の粥には湯気が立っていた。例は匙で粥と、濃い緑の萎れた漬物を一緒に掬い、口に入れた。

 うまい、と思った。

 粥を食べた後、二人は河で水浴びをした。日差しは強く、肩や背中を陽光が焼いた。怜とソマルは裸で水に浸かった。河の水は冷たすぎず、心地よかった。

 怜の陰毛にこびりついていた精液は、乾いてかぴかぴになっていた。怜は股間に痛みを覚えながら、それをこそぎ取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る