1-2
洞窟の外に出ると、〈無の神〉の言った通り、眼下に海原が広がっていた。水平線が弧を描き、ずっと遠くで空と一つになっている。海の底は、巨大な黒い鉄の塊が沈んでいるように、重く暗かった。風が強く、所々に白波が立っていた。
崖の中ほどに、怜は立っていた。
まずは、降りるか上るかしなければ。怜はそう思って、周りを見回した。ちょうど下のほうに、岩石が天然の階段になっている箇所を見つけた。怜は片手に槍を持ち、そろそろと下りて行った。時折びゅうと強い風が吹いて、体の平衡が崩れかける。その度に鳥肌が立った。
何とか海面近くまで下りると、岩に守られるようにして、椀を横にしたような小さな空間が空いている。大きな岩が嵌まっていたのかもしれないと思った。ひとまずはそこで休むことにした。
上から見ているのとは比べ物にならない激しさで、波が断崖に打ち付けていた。時折、しぶきが岩を超えて飛んで、怜の顔に当たった。
ふと左の掌に痛みを感じた。見ると、細かい傷がいくつもできている。下りて来るときに擦り剥いたようだった。下りている最中は全く気づかなかったが、一度気になるとじんじんと痛んでくる。気を紛らわせようと、怜はズボンとパンツを脱いだ。次にズボンだけを履きなおして、パンツは槍の先に括り付けた。
この波では、魚は突けそうにない。汚れた下着だけは洗おうと思った。
椀から顔を出し、できるだけ、海面に近づける場所を探した。左のほうに、上面が平らな岩が、水から顔を出していた。あそこにしようと思った。
足を滑らせないように、慎重に歩く。岩の出っ張りを、痛む左手で掴んで進む。ざばあん。ざばああん。波が暴れている。飛沫が体中に当たる。怜のすぐ足元まで波が打ち上がる。
もう少し、あと一歩か二歩。そこから岩に跳び移る。頭の中で数秒後の動きを思い描いていた、その時だった。
右足がずるりと滑った。
体が横になる。わけも分からず、咄嗟に岩をつかむ左手に力を籠めた。右手と右肘を地面に着いた。尻にごつ、と衝撃が来た。体が妙な捻り方をして、背中にびしりと痛みが走った。
怜はそのままの姿勢で、数秒固まっていた。心臓がどんどんと跳ねていた。目だけを動かす。右手に握っていたはずの槍が無くなっていた。視線を海に向けると、下着を括り付けた棒が波に揉まれていた。
尻がじんわりと濡れていくのが分かった。足の下には、黒い海苔が生えていた。気が付かなかった。
怜は恐る恐る立ち上がり、一旦、岩の椀に戻った。落ち着いてみると、体のあちこちが痛み出した。擦過、打撲、捻挫。ただただ痛かった。
槍を失くしたと知ったら、〈無の神〉は怒るだろうか。怜は思った。怒るかもしれない。
恐くなった。何が恐ろしいのかも分からないが、恐かった。しかし、槍を取りに行こうとは思わなかった。どぼどぼと唸る激しい波に飛び込むのは、想像すらできなかった。
どうしよう、と思った。どうしようもなかった。あちこちが痛かった。怜はただ、黒い地面を見つめて、座り込んでいた。
「……い」
声、のようなものが聞こえた。怜は耳を澄ました。〈無の神〉がやってきたのかと思った。
「……おーい」
違う、と思った。子供の声だった。声は近づいてきている。
黒い影が、中を覗き込んだ。
「大丈夫?」
影は、怜のすぐ傍まで歩み寄った。
「ねえ、大丈夫?」
現れたのは少年だった。怜よりも背が低い。腕も足も細く、顔も小さい。目だけが大きい。
少年は、心配そうな表情を浮かべていた。
「どうしてこんな危ない所にいるんだよ。……ねえ、大丈夫?」
怜が何も答えないのを見て、少年は束の間、口をつぐんだ。訝しげに怜の顔を眺めた後、あれ、と言った。
「きみ、この村の人じゃないだろ。どこの村の人?」
怜はどう言うべきか分からなかった。ここは、日本? それとも海外? あれ?
あれ、一体ここはどこなんだ?
怜は今になって、そのことに思いが至った。
「とにかく危ないから、早く戻ろう」
あれ?
「おい、聞いてる? じきに潮が満ちるから早く出ないと。ねえ」
なんで、俺、ここにいる。
「おーい、聞いてる?」
分からなくなった。
塾が終わって、ヨウコと神社に行って、木があって、神社があって、苔が生えてて、ハローキティのシートを敷いて、ヨウコが座って、ヨウコのボタン、ヨウコのスカート、ヨウコの丸い肩、ヨウコの柔らかい胸、ヨウコのふっくらした手、ヨウコの白い首、ヨウコに触れた、ヨウコを見た、ヨウコが見た、ヨウコと、ヨウコと、
ヨウコとセックス、したい。
「にほん。日本から来た。○○県××市から来た。たすけて、たすけて」
がばりと体を起こして、怜は少年に縋りついた。
「帰りたい。たすけて、お願いします。したい、セックスしたい。お願いします。セックス、セックス。ヨウコと。たすけてくだ、さい。お願いします」
「え、なに、ちょっと落ち着いて。ねえ」
怜は少年にしがみついた。怖かった。孤独だ、と思った。むやみに怯え、親に抱き着く子供のように、少年に顔を押し付けた。
「お願いします。こわい。こわい。……こわい、助けて! セックス。セックスしたいです。お願いします。日本。ヨウコを、ここ、日本。助けて」
必死だった。声を出すのを止めてはいけない気がした。
「ちょっと落ち着いて、大丈夫だから、ねえ。うちに連れてってあげるから。大丈夫、大丈夫だよ。ほら」
少年は怜の背中に手を当てて、優しくさすってやったが、なだめる声は怜の耳に届かなかった。
「ヨウコ。お、お。ヨウコぉ。ごめんなさい。セックスしなくてごめんなさい。助けて。助けて。怖い。お願いします。ごめんなさい。もう、ごめんなさい。たすけてくださ、い。いやだ。こわい」
それからしばらくの間、怜はヨウコの名を呼び続けた。次第に嗚咽交じりになって、最後には口を開き、ただただ涙と涎を流した。
やがて、涙が止まった。体の中は、何もかもが抜け落ちたように空っぽだった。
ざばあん。波の音がした。潮の匂いと、少年の汗の匂いがした。今はこの少年に縋るしかない。そんな気がして、怜は膝立ちのまま、少年の腰に回した腕に力を込めた。
「落ち着いたかい?」
「……うん」
「じゃあ、とりあえず上に戻ろう。潮が満ちてしまう」
少年は、怜を優しく引き剥がした。
怜は少年の後について、崖を上った。海から遠ざかると、思考と感覚が少しずつ戻ってきた。怜は前を行く少年の後ろ姿を眺めた。少年は麻の貫頭衣を着て、草鞋を履いている。肌は浅黒く、あちこちにかすり傷があった。肩と首に入れ墨を彫っていた。
二人が崖の上に出ると、目の前には巨大な森が広がっていた。奥は暗く、終わりが見えない。入るものを拒むように聳える木々の壁は、崖の縁に沿ってずっと続いていた。怜は振り返って、遥か眼下にある海を呆然と眺めた。足元の断崖は、陸と海を隔てる境界のように、蛇行しながらも左右に果てしなく伸びている。がむしゃらにしぶきを上げる波は笑ってしまうほどに小さく、対する水平線は恐ろしく遠くにあり、世界の輪郭を描いていた。
糸が切れたように、怜はその場に座り込んだ。疲れていた。全身がだるく、痛かった。腕も足も動きそうになかった。地面には草が生い茂っており、ひんやりとしていた。
少年も怜の隣に腰をかけた。膝を両腕で抱えて、空を仰いだ。
「ぼく、ソマルっていうんだけど、君は名前、なんていうの」
潮風が吹いて、怜のほうを向いたソマルの前髪をさらった。怜もソマルの顔を見た。ソマルの髪はさらさらとしていて、光沢があった。
「怜」
「レイ。きれいな名前」
ソマルは、光を湛えた大きな瞳を細めて、笑った。
「レイは、どこの村の人?」
「……日本」言っても伝わらないだろうなと思った。
ソマルはくりんと首を傾げた。黒髪がさらりと流れた。
「ニホン、へえ。聞いたことないな。どこら辺にあるの」
「……たぶん、ずっと遠く」
日本でもないのに日本語が話されている国を、怜は知らない。ここはどこなのか、なぜ自分がここにいるのか。何もわからなかった。
「へえ、ま、いいや。どこの誰でも、人間はみんな友達だしね。とにかくうちの村においでよ。疲れただろ。なにか食べよう」
ソマルは、よっ、と言って立ち上がった。笑顔と眼差しを、怜に向けた。
「うん」
怜は言うとおりに立ち上がった。どうしていいのか分からなかった。ただソマルの言うことを聞いて、その通りにしようと思った。
ソマルが歩き出す。怜はそのすぐ後ろをついて行った。
しばらくは、崖に沿って歩いた。
風が吹いて、下草がざわざわと揺れていた。崖の縁にはそれほど草が生えておらず、黒々とした地面が剝き出しになっている。下草の間には角ばった小石が紛れていて、怜は踏まないように恐る恐る歩いた。
「レイの来てる服、なんか不思議だね。上と下が分かれてる。草鞋も変な形だ」
「よくない、かな」
「大丈夫だよ。うちの村にもよく旅人がきたりするけど、似たような格好だしね。あ、レイってもしかして、旅人?」
「分からない。そう、かも」
「ふうん」
ソマルはそれ以上のことを聞かなかった。
「こっちだよ」
ソマルは森へと分け入った。
海から吹き付ける潮風は木々に阻まれているためか、森の中は静かだった。所々に木漏れ日が差している。草が脚に擦れて、ちりちりと痒い。道らしい道もないが、ソマルは迷いなく歩を進めていった。
十分ほど歩くと、木々がまばらになった。
「もうすぐだよ」
ソマルが振り返って言った。
森を抜けると、足元は斜面になっていて、その先に平原が広がっていた。ずっと遠くに、山脈が霞んで見える。平原を、幅の広い河が横切っている。視線を左に向けると、天を衝くような山脈が連なっており、河の水はその谷間から流れてきているようだった。河を挟んだ両側には、いくつもの用水路と田が並んでおり、胡麻粒のように見える人がまばらに働いている。怜の立っている丘の麓には、藁葺きの家が集まっていた。河の対岸にも、同じように藁葺き屋根の集落があった。
「着いたよ。あれがぼくの村」
ソマルは麓の集落を指差した。
集落の近くまで行くと、一軒の家から出てきた女がソマルを見て、おう、と言った。
「ソマル、旅人かい」
恰幅のいい女は、芋の入った盥を持っていた。
「うん。そうらしいんだけど、荷物を失くしてしまったらしいから、ぼくの家で何か食べてもらうよ」
そうかい。女は言って、怜をじっと眺めた。ずいぶん若いね、と呟いた。
ソマルの家は、村の端のほうにあった。藁を練りこんだ土の壁は低く、その上から藁葺き屋根が覆いかぶさっていた。小さな窓と、小さな入り口があった。ソマルは怜を中に招いた。
家の中は外よりも一段低くなっていた。中央には囲炉裏があり、明かり取りの窓から、日が差し込んでいる。壁際には、毛皮が吊るされてあったり、甕が置いてあったりした。涼しかった。土のにおいがした。
「はい」
ソマルは水を掬った椀と、分厚い煎餅のようなものを怜に差し出した。怜は水を飲み、煎餅を齧った。硬く、味がしなかった。
食べ終わって少しすると、一人の青年がソマルの家の戸口から顔を覗かせた。
青年は、自分のことを村長の息子だと名乗った。カイと言った。カイは浅黒い肌で背が高く、手足も長かった。
怜はソマルとカイに連れられて、村長の家を訪ねた。村長は、怜を快く受け入れた。
「レイはここに来るまでに荷物を失くしてしまったみたいなんです。だからしばらくぼくの家に住んでもらおうと思っているんですけど、いいですか」
ソマルは村長に頼んだ。
村長は快諾した。
「しかし、村で暮らす以上は働いてもらわねばならぬ。それに、あなたも何もせず遊んでいるよりは、体を動かしていたほうが良いでしょう。そうだ、あなたにはソマルと共に、防人として働いてもらうことにしよう。ソマルなら、何かと気が利くだろうし。良いな、ソマル」
ソマルは目を輝かせた。元気よく頷くと、怜に笑いかけた。
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