なにも理解できない

@yuko_tomiki

1-1

 怜は、弟の彼女の手を引いて、鳥居を潜った。

 レイプするつもりだった。弟のショウタは小学五年生で、ショウタの彼女も小学五年生だった。

 怜は自分が握っている細く白い腕の感触を確かめた。ショウタの彼女はピンクのブラウスを着ていた。クリーム色のスカートを履いていた。ヨウコがリュックサックを背負っていても、怜は構わず足早に階段を上った。

 ヒグラシが鳴いていた。石段の両側は背の高い木に覆われていて、薄暗かった。怜はそれらの樹木の名前を知らなかった。空気がひんやりとしていた。緑の匂いを嗅ぐと、眩暈がした。

 階段の中ほどで、ヨウコの歩みが遅くなった。怜は足を止めて振り返った。怜と女児の間にそれほど体格差はない。むしろヨウコのほうが、わずかに高い。ヨウコは小学五年生にしてはかなり背が高く、怜は中学二年生にしては小さいほうだった。

「疲れた?」「うん」「もうちょっとだよ」「うん」

 怜はまた、ヨウコの手を取って歩き始めた。

「なんで神社なの?」「着いたらわかるよ」「うん」

 怜はヨウコの素直なところが好きだった。そしてなにより、ヨウコが自分より背の高いところが好きだった。

 怜とヨウコは階段を登り切った。

 階段がそのまま石畳の道となって、社に続いていた。鳥居があり、手水場があった。ぴったりと組まれた石の間に、黒い苔がむしていた。

 人の気配がなかった。梢がざわざわと音を立てた。

 樹木の群れが夕日を遮っていた。怜は、いつか見たホラー映画を思い出した。

 下見に来たのはまだ明るいうちだったから、これほど暗くなるとは思っていなかった。しかし、怖くはなかった。森が二人を隠してくれている気がした。

「くらい」

 ヨウコが怯えた様子で周囲を見回した。不安そうな顔を見ていると、怜の心臓はきゅっと硬くなった。

「大丈夫だよ。すぐに終わるから」

 怜はヨウコの肩に手を置いた。柔らかく、角ばっていて、温かかった。

「あれ持ってきた?」

「うん」

 ヨウコは頷いて、リュックサックを肩から降ろした。石畳の上にしゃがんで、ファスナーをジジジと開けた。怜はヨウコのスカートから覗く膝小僧を眺めた。

 ヨウコは何重にも折りたたまれたそれを出して、怜に渡した。ビニールシートだった。遠足でお弁当を食べるときに地面に敷くビニールシート。ハローキティの絵が描かれていた。夕方の青暗い空間で、ピンクのビニールシートは色を失っていた。

「こっち」「うん」

 怜は社の裏手に回り込んだ。完全に日が沈んで、森のあちこちに闇が生まれていた。

 社の真裏の地面に、怜はビニールシートを広げた。寝ても背中が痛くないように、小石を蹴って除けた。

「座って」「うん」

 ヨウコはビニールシートの上にぺたんと座った。ずっと怜を見つめていた。

 世界がどんどん暗くなっていく。互いの顔がよく見えなくなる。

 怖いのだ、と思った。ヨウコは怖いと思っている。だから俺を見ている。

 怜はヨウコの手を取って握った。温かい、と思った。

「なに、するの?」

 大丈夫。怜はそれだけ言って、ヨウコをゆっくりと引き寄せた。怯えさせないよう、ゆっくりと胸元に手を伸ばし、ボタンを一つずつ外していった。時折、ヨウコの反応を見ながら、手を動かす。ヨウコは怜をじっと見ている。ヨウコは、これからすることの意味が分かるのだろうか、と思った。ヨウコは弟と付き合ってはいても、こういうことは知らない筈だった。だって、ショウタとヨウコが性行為をするのを見たことがないから。手を繋ぐのがせいぜいで、それ以外のことは何一つしていない。所詮ヨウコとショウタは仲が良いだけだった。怜は二人のほとんどを見て、知っていた。

 襟元のボタンを外し終えた。暗がりの中で、ヨウコは戸惑っているようだった。同時に何かを期待しているようでもあった。何か楽しいことをするの? ヨウコの握る力が、少しだけ強く、柔らかくなった。

 怜の頭が痺れた。体が軽くなった。息を強く吸って、吐いて、それを繰り返した。心臓が速く動いて、全力で走った後のように頬が熱くなった。

「よ、こに、なって」

 喉に声がつっかえた。視界から明度が消えて、ものの形だけが分かった。ヨウコの形だけがあった。怜はヨウコに触れていた。

 ヨウコがゆっくりと体を横たえた。

「だいじょうぶ。だい、じょうぶ」

 自分に言い聞かせるようにして、怜はヨウコに覆いかぶさった。頬と頬が触れ合った。耳元で吐息を聞いた。ヨウコの胸を、怜の胸板が押し潰した。

 やわらかい。あったかい。きもちい。うれしい。

 頭の中を白い光が満たした。綿のように重くて、粘り気があった。

 怜は、ヨウコの首筋に唇を押し付けた。

 真っ暗だった。

 あれ、と思った。何か変な感じがした。ヨウコの感触が消えていた。光が全くなかった。

 怜は立っていた。いつの間に? と思った。空気が湿っている。少し肌寒い。周りを見回しても何も見えない。夕暮れの暗さとは別だった。空を見上げた。星も雲も無かった。

 完全な闇だった。

 背後から風が吹いた。木々のざわめきのような音が聞こえた気がした。

 ここが神社でないことは明らかだった。ヨウコもいなかった。訳が分からなかった。怜はその場から一歩も動けなかった。目を閉じるのも怖くて、呼吸すらほとんど止めていた。闇が怜の全身をぴったりと取り囲んでいて、ほんの少しでも動くと、はみ出た部分が闇に食われてしまう気がした。

 そのまま一時間ほどが経った。三秒だったかもしれない。時間の感覚がなかった。いち、に、と数えようとしても、どうしてかうまくいかなかった。頭の中が複雑な迷路になっているような気がした。

 やがて、ずっと遠くのほうに、ふっと明かりがともった。星のように、ぽろぽろと瞬いていた。

 まず初めに指が動いた。次に腕、それから足が動いた。怜は光に引き寄せられるようにして、歩き始めた。少しずつ、考える余裕が出てきた。闇にも目が慣れてきた。今いるのは、洞窟のようだった。岩が穿たれてトンネルになっている。だから光が無く、上を向いても星が見えない。

 光は次第に大きくなる。光の正体は炎だった。火が焚かれている。焚火のそばに、座っている者がいる。胡坐をかいて座っている。

 火の傍まで歩いて、足を止めた。焚火を中心として、ぽっかりとドーム状の空間ができていた。炎を挟んで正面に座っている者は、揺れる火をぼうっと見つめていた。と思うと、次第に輪郭がぼやけ、体が透け始め、やがて姿が消えた。少しすると、今度は空気が渦を巻き、再び人の形になった。襤褸切れを一枚羽織っているだけで、肩や腿が露になっている。毛は一本も生えていない。もっとよく観察しようと目を凝らすと、体がすうと透けた。意識を逸らすと、元に戻った。

〈無の神〉

 怜の頭にその言葉が浮かび上がった。なぜか、分かった。


「何が在る」


〈無の神〉は、怜に問うた。怜が答えないでいると、〈無の神〉は諦めたように溜息を吐いた。

「お前、名は在るか」

「怜」

「いくつだ」

「十四」

〈無の神〉はまた溜息を吐いた。

「いいか、お前は当分、帰ることはできん」

 そう言われたとき、怜は取り返しのつかないことをしてしまった気がした。家に帰れないということより、もっと嫌なことが待っている気がした。〈無の神〉の語調は穏やかで、それが逆に恐ろしかった。

「ごめんなさい」咄嗟に口が動いた。

〈無の神〉はゆっくりと首を横に振った。謝っても無駄だ。そう言われている気がした。

「謝る必要などない」

〈無の神〉は立ち上がった。

「レイ、腹は減っているか」

「……うん」

「人が、生きる、ということを考えるためには、己が生きているということを思い出さねばならない。同時に己が死んでいないということを思い出さねばならない。そのためにはまず、満足せねばならない。腹が減っていたり、疲れていたり、寂しがっていたり、そういうのは駄目だ。不満があってはならない。不満は欲の種だ。そして人は欲の奴隷だ。すなわち、欲から解放されたときにのみ、人は真に自由になり、その時になって初めて生きるということについて考えることができる」

 怜は、〈無の神〉の言うことの半分も理解することができなかった。しかし、なんとなくそれは正しいような気がした。

「今日はこれを食え」

 いつの間にか、怜の足元に焼いた魚が転がっていた。所々、黒く焦げている。

 怜は焼き魚を拾った。ほんのりと温かい。魚は白目を剥いていた。磯の匂いがした。強烈に腹が減って、怜は魚の腹に勢いよくかぶりついた。噛んだ瞬間、腸の苦みとえぐみが口の中を暴れた。骨が口内のあちこちに引っかかる。それでもかまわずに頬張った。腹が減っていた。

「明日からはお前が自分で食い物を集めろ」

 怜が食べ終えると、〈無の神〉は言った。

「今日はもう寝ろ」

〈無の神〉がひらりと手を振ると、急激な眠気が怜を襲った。


 れいくん、れいくん。

 ヨウコが呼んでいた。

 れいくん、たのしいよ、きもちいよ、れいくん。

 れいくん、なにしよう。つぎはなにする?

 れいくん、きもちいね。うれしい。きもちい。

 れいくん、つぎは?

 れいくん、はは、たのしい。おもしろいね。きもちいよ。

 れいくん、つぎ。

 れいくん、あー、きもちい。これすき。れいくん。わたしこれすき。

 れいくん、つぎはどうする?

 れいくん、ふふふ、たのしいね。きゃっ。あはは。んん。きもちー。

 れいくん、つぎ、つぎは?

 れいくん。

 れいくん、


 すき。


 目が覚めた。背中に硬い地面の感触があった。股間が冷たかった。パンツの中を覗くと、陰毛に精液がこびりついていた。

「起きたな」

〈無の神〉が言った。

 怜の顔のそばには焼き魚の骨が落ちていた。焚き火の向こうで、〈無の神〉が昨日と同じように座っていた。

「見てみろ」〈無の神〉が正面を指差した。視線を追う。トンネルがずっと続いていて、その先に白い光があった。

「あそこが洞窟の出口だ。外は海だ。崖を上ると森がある。そいつをやるから、魚でも獣でも突いてこい」

 知らぬ間に、魚の骨が、怜の背丈ほどもある木の棒に変わっていた。表面は滑らかで、湾曲した棒の先は削られて尖っている。古代人の使う槍みたいだと思った。

 怜は、〈無の神〉の言うことに従うことにした。逆らってはいけない気がした。

「お前が毎夜、腹を満たすごとに、話を一つしてやろう。お前の暮らしが一つ豊かになるごとに、話を一つしてやろう。そうしてお前がすべての話を聞き終えたとき、もう一度問うてやる。よいか」

 怜は槍を手に取って立ち上がった。〈無の神〉の目を見据えて、頷いた。〈無の神〉はもう透けなくなっていた。

「よし、行け」

 そこで、〈無の神〉は初めて笑った。

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