最終話 黄色い影が夜
月夜。
あるものについて考えるのさえ難しい頭で考える、無いもののこと。
「僕と貴方の月は、今夜だけじゃないですよ」
私を助手席に座らせてハンドルを握った男を眺めながら夜の風に触れた。私とは違うアクセルの踏み方に、この男が実在しているのだという意味の分からない実感を得た。いつも浴びているそれと違うところがあるかと言われれば別にそんなこともないが、なんとなく、いつもと違うかもしれないだなんて思い込んでいたかった。私の気持ちが揺れ動く原因であるとうの彼は、機嫌良さそうに口笛を吹いていた。
「なんの歌ですか、それ」
信号で止まった後も止まらないその口笛に私はそう聞いた。男は、問いかけに一瞬横目でこちらを見るような仕草を見せたが、青に変わった信号を認識して口笛を吹き続けたまま再びアクセルを踏み込んだ。
「というか、名前も知らない男を車に乗せるなんておかしくないですか?しかも2回も」
「それ、そっちのセリフであってますかね?」
「極め付けにハンドル譲っちゃうとか、この後何されても言い訳できないと思いますよ?」
「同意したも同然ってやつですか」
「そんな人聞き悪い言い換えしないでくださいよ」
「いや、ご自分で仰ってたセリフが一番人聞き悪かったと思いますけどね?」
「そうですか?」
「そうですよ、というか名前とかあるんですね。あと口笛はなんだったんですか?」
他では味わえないこの高揚感をアトラクション感覚で楽しんでいる。ジェットコースターと前煮る時の恐怖をも上回る全てがどうでも良くなるようなあの興奮。彼との空間にそれを見出してしまった私はもうこの男の術中にハマりきってしまっているのだろう。
「ありますよ、名前くらい。当たり前じゃないですか。口笛はオリジナルソングです」
「教えてはくれないんですね、名前。あと口笛オリジナルソング結構怖いです」
明らかに私の家ではない方向に走っていることに気づいていながらも、どこに向かっているのか、なんてことは聞かなかった。このまま彼についていけば私が抱えている、正体のわからない重みから逃げられるような気がした。このまま夜の闇に溶けてどうしようもないくらい、本当の世界に帰ってくることなんかできないくらい、ぐつぐつに煮込まれてしまいたいと思った。
「何から逃げたいんですか?」
「…え」
「どこに向かってるのか、聞いた方がいいですよ」
「…なんで、」
「怖いんでしょ?本当の世界ってやつが。というか、なんで今いるこの世界を本当の世界だと思っているんですか?」
「何、言ってるんですか?」
思考を読まれている、なんてことはわかりきった上で彼の言動が恐ろしく感じた。
「今更になって僕が怖いんですか?ちょっと遅いですよ、だからいつも言ってたじゃないですか、誰にでも優しいのはいいけれど警戒心が薄すぎるのは貴方の欠点ですよ」
「本当に、何、あの、誰、ですか…?」
「あの口笛のメロディーも、覚えてないんですか?あすかさん」
「あ、すか?」
「あれ、自分の名前までわかんなくなっちゃったんですか?」
メロディー…あすかさん…、記憶喪失の映画の主人公のように何かを思い出せそうな気持ちに駆られて、感じたことのないそれにより一層の恐怖を覚えた。
「こんな場面でも映画の主人公云々みたいなこと考えられる危機感のないとこ、僕はずっと好きですけど、本当に気をつけたほうがいいですよ」
くらりと目眩がして頭を抑えた。
「ちゃんと考えてください、僕に会うのはこれが何度目ですか?一度目?二度目?それとも…」
「や、めて、」
「ダメですよ」
私の言葉に被せるようにして私の思考を支配していく。
「僕と貴方の月は、今夜だけじゃないんですよ、お願い、あすかさん、」
苦しそうに、願うように、縋るようにそう言った彼は赤信号でブレーキを踏んで私を見た。
「ほら、帰りますよ」
差し出された手を取らない選択肢は、私にはなかった。
重い瞼が開く。白い天井の手前に人影がぼんやりと浮かんだ。
「あすかさん?起きました?」
怠い体を起こして嫌に痛い頭を押さえた。
「んん、起きた、おはよ」
「よかった、」
心底ホッとしたような顔をした彼を見てまたズキリと頭が痛む。
「過労だそうですよ」
「…え?」
マメな彼が毎日変えていた日めくりカレンダーに目をやると、妙に月末に近づいていた。
「待って、私結構寝てた?」
「そんな昼寝しようと思って寝て起きたら19時だった人みたいなリアクションやめてくださいよ、二週間寝てましたよ」
「え、うそ、でもこういうのって目覚めた時病院、ってやつじゃないの?」
「相変わらず映画の中みたいなこと言いますね、本当に」
差し出されたココアを手に取って窓の外を見る。
「めっちゃ晴れてる…。あ!!コハネちゃん見逃してるじゃん!」
子供の頃から大好きで毎週欠かさずに見ていた『魔女っ子コハネちゃん』を二週分見逃していたことに気づく。高い位置で括られた金色の髪の毛に惚れ込んで何年経ったのだろうか。
「録画、しておきましたよ。体調平気なら一緒にご飯食べましょう、仕事復帰はもう少ししてからでいいそうなので」
「完璧彼氏じゃん!」
「当たり前でしょ、誰だと思ってるんですか」
ご機嫌そうな彼の口笛に、異常な安心感を覚えた。
「そういえば今夜は月が綺麗らしいです。夜になったら月見ドライブにでも行きますか?」
「行きたい!」
「じゃあ決まりですね、冷めないうちに朝ごはん食べてください」
黄色い影の夜 野原想 @soragatogitai
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