第2話 黄色い影と夜
月夜。
有るものについて考えるのさえ難しい頭で考える、無いもののこと。
「相席いいですか?」
あれから二ヶ月経った今でも、彼にそう言われたあの日のことをたまに思い出す。まぁ、ふと思い出すくらいで思い出したからといって何かあるわけでもないしあれから一度だって彼とは会えていない。会えていない、なんて表現をすると私が夜に一度だけ会った男にまた会いたがっているみたいで少し癪ではあるが、彼は世界的にも私的にもレアケースなのでその感情と表現に関してはおそらく間違っていない。ちっちっ、と掛け時計とデスクの置き時計の秒針が少しずれを見せながら動く。同じ職場で働く時計同士もう少し協調性を持って欲しいと言うものだ。こんなくだらないことを考えてしまうのはどうしようもない量の仕事を夜明けまでに終わらせなければ明日上司にどやされることが確定しているどうしようもない状況だからだろう。真っ暗なオフィスに目の前のパソコンなの明かりだけが弾き出されている。結構頑張ってるんだけどな、と背もたれに体重を預けて窓の外を眺めた。
「助けて欲しいな、なんちゃって…」
すぅ、と目を閉じる。深呼吸でもしたらまた始めよう、私に選択肢なんかない。少しずつ頭の中が暗くなっていくのを感じた。ああ、だめだ、眠っちゃ……ゴン!!
「え!?」
自分が机に頭を打った音と、背後の窓ガラスに何かがぶつかった音が重なって私の目を覚ますには十分だった。驚いて振り向くとそこには黄色い月を背景にして女の子がふわりふわりと浮かんでいた。私は、映画や小説など、ファンタジーなものを好む傾向にあり、ロマンチックなものが好きな性格だと自覚している。こんな状況で感情が恐怖に支配されないのは長所か短所か。
「い、今開けますね!」
私はガラガラとオフィスの大きな窓を開けた。
「ど〜も」
少女は数度会ったことのある顔見知りに挨拶をするようなテンションで私しかいないオフィスにするりと入ってきた。ローファーのような黒い靴でコツっと音を立てる。開けた窓から入り込んできた風で彼女の高いところで括っている金色の髪がサラリと揺れた。少し見惚れた。彼女の幼く見える顔の右側が月明かりに照らされる。可愛くて、美しかった。
「おねぇさん、助けて欲しいんですか?」
彼女は、私の感情の揺れなど気にせず私の方へ、ずいっと近づいてきた。私を見上げるその目が可愛くて、全てを見透かされてしまいそうで、少し怖かった。でもこんな展開を心のどこかでずっと待っていたんだ、あの日からずっと。
「助けて、くれるの?」
全てから逃げ出したい気持ちと好奇心から、これ以外の言葉を返す選択肢はなかった。
「いいですよ、おねぇさんは特別みたいだし」
「特別、?」
私がそう聞き返すと彼女はニヤリと笑った。肩の上で毛先が揺れて、月の明かりがそれを透かした。
「そう、おねぇさんは特別な匂いがする。いい匂い」
可愛い子に、いい匂いがするだなんて嬉しいことを言われているこの状況が飲み込みきれずにいる。二ヶ月前のあの日と何だか似たような感覚だった。それに、彼女からも甘くて苦くて中毒になってしまいそうな、そんな香りがした。
「じゃあ、おねぇさんに『合言葉』教えてあげますね。」
「合言葉?」
「はい。誰かに『会うのは今夜が初めてか』と聞かれたら『初めて』って答えるんです。」
「え、それって、」
「ね?簡単でしょ?」
ああ、この子は、彼女は全てを知っているんだろう。
「わかった、ありがとう」
彼女の声や仕草、匂いや表情が甘くてどうしようもないスイーツのように私を溶かしていく。クラクラする頭を手の平で抑えるようしている私には目もくれず、彼女は私の悩みの種であるパソコンを覗き込んで不思議そうな顔をしていた。
「おねぇさん、おねぇさんが助けて欲しいのって、これ?」
そう言ってパソコンの画面とデスクに山積みになっている手付かずの資料を指さす。
「そう、だけど…」
「へ〜こんなものに支配されちゃうんですね、おねぇさんは特別ですごい人なのに」
この彼女の言葉は私に向けて発したものではなく彼女から漏れ出るただの感想にすぎないのだと感じた。手を体の後ろで組んで、下から私の眼球の奥まで触れてくるようだ。
「あの、その『特別』って、なに?」
「も〜本当はわかってるくせに〜」
数分前のようにニヤリと口角を上げた彼女は再びパソコンの光に顔を染めて、その指先でパソコンと資料の束に触れた。ふわりと空気の形が変わったように紙の束が浮いてまた何事もなかったかのように重ねられていた。
「よし!これで帰れますよ〜よかったですね〜」
「え…?」
数分前まで地獄のように見つめていた画面はすっきりと仕事が終わった状態でフォルダ分けされていた。上司の間違いを直しておけと言われた間違いだらけのデータが打ち込まれた資料の山は全て数字が直されたものになっていた。
「これ…、ねぇこれ、」
そう問いかけながら振り返った時には彼女の姿は無く、窓の外でふかふかと浮かんでいた。大きな月が彼女の小さな体を包むようにそこにいて、彼女は私に手を振った後でその月に吸い込まれるかのように飛んでいってしまった。今日も、目の前で起きたことを疑うことも、夢なのではないかと頬をつねることも、私はしなかった。
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