黄色い影の夜
野原想
第1話 黄色い影の夜
月夜。
有るものについて考えるのでさえ難しい頭で考える、無いもののこと。
「相席いいですか??」
ドラマなんかで聞いたことのあるセリフではあるけどリアルに耳にするとは思わず少しワクワクしてしまった。でも、こういうのって居酒屋とかでのレアイベントって認識だったんだけど……。
「車運転中の信号待ちで言われるとは思ってなかったです。」
開いた車窓から覗き込むように私を見ている背の高そうなスーツ姿の彼。
「そうなんですね〜。それで、いいですか??相席。」
この人が明らかにおかしいと言うか、少なくとも私が今まで関わってきた人達と同じ部類では無いということは分かるのだけど、こんな面白い機会を逃したくないという気持ちが勝ちそうな私自身がいちばん怖いところ。
「確認なんですけど、急に刺したりとか毒を盛ったりとかはしないですか?」
「あ〜……しないですね。」
「ならいいですよ、助手席どうぞ。」
「わかりました〜。」
返事がおかしくない??この場合は、って、こんな場合が他に無いから比較対象もなくて分からないなりにではあるんだけどおそらく私の人生経験値的にはこのターンの彼の返事としては 『ありがとうございます』 が妥当な気がするけどね??まあ、頭っからおかしいから妥当も何も無いとは思うけどね??それとあれでしょ??刺したり毒を持ったりしないか聞いた時の不自然な間はいいのかってことでしょ??もういいでしょ。これで刺されて死んでもちょっとエンタメで面白いもんね?
助手席に乗り込んできた彼はドアを閉めるなり、ペラペラと話を始めた。
信号が丁度青に変わって走り出した車の、窓から左手をプラりと出して。
「さっき映画見てきたんですけど、すごい面白かったんですよんね〜。」
「そういえば僕行き先とかないんでテキトーなところで下ろしてください。」
「あ、いま空に人飛んでませんでした??」
「僕の好きな色はオレンジなんですよね〜。意外って言われますけど。」
「ねえやっぱり人飛んでません??」
「ぬいぐるみショップって普段行きます?楽しいですよね〜。」
「歌詞ってあんまり意味無くても曲調に誤魔化されてるとこありません??」
並べられる日本語らしきそれをラジオのように聞き流す。
たまに見上げる月が綺麗で、背景に写されていく白い文字は一点にしか輝きを置いていない暗闇に吸い込まれていった。いつか久々に会う友達へのネタくらいにはなるであろう今日のことをどこまで覚えていられるかというのが今夜の私に課せられたたった一つの使命なので、この生命ラジオの音に聞き惚れていたという話は黙っておこうと思う。
「ねえ、やっぱりさっきから人飛んでません??」
彼がフロントガラスの奥を指を指す仕草を見せる。その数秒後に赤いランプが付いた信号の前でブレーキを踏んだ。彼が指を指した方向に目をやると、ビルとビルの間に浮かぶ大きな月の端をスカートのようなものがひらりと影に吸い込まれていくのが見えた。
「ほんとだ。魔女かな。」
「あ、そっち派ですか〜。」
「そっち派とは?」
「僕はもうちょっと若い子かなって思ったんですよ〜。」
「そこまで見えたの?」
「そうですねぇ〜。高めの二つ結びだったと思います〜。」
自分の黒い短髪をくるくると指にまきつけるようなしながらそう言う。
「魔女っ子かな。」
「見習いというのもありますよね〜。」
「ああーアニメとかでよく見た。」
「でも、ほうき乗ってなかったですよ〜??」
「え、生身?」
「おかしいですか?」
「ん?えー、確かにほうきよりは人間の方が頑張れば飛べそうかも。」
「ですよね〜。あ、そういえば僕と貴女は今夜が初めましてですか〜?」
「え。」
「きっと少し奇妙な今夜のことを、明日の仕事中もぼんやり考えますよね〜?」
「は、はい。」
「じゃあ出会っていたかもしれない今までのことはいつ考えてくれます〜?」
「えっと、」
「いつ、思い出してくれます〜?」
すごくおかしなことを言われているのはわかっているけれど、なんだか丸いトゲで手のひらをつつかれたような感覚。何かを思い出せそうというか、無いはずの彼との思い出をこの月の裾の記憶のように作り出せてしまいそうな、そんな気持ちになる。さっきの、ビルの黒に吸い込まれていったスカートの彼女のことを少し忘れかけてしまうほどに。
「なーんてね。」
「え。」
「意味は無いです〜。ただ貴女と 『もしかして』 の話がしたかったんです〜。」
「じゃあさっきのは、」
「貴女が僕のことを考えてくれたらいいな〜っていう。」
「あ、え。」
「あ、僕ここで降ります〜。」
コンビニの前でそう言われて車を停める。
車を降りた彼は、ふわりと一言。
「僕と貴女の月が、今夜だけじゃないことを祈っているよ。」
そう言った彼は車の上でゆっくり宙返りをするように月の裾へと浮かんでいった。今目の前で起きていることを疑うことも、夢なのではないかと頬をつねることも、私はしなかった。
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