サクソフォンとヴァイオリン

 吹雪ふぶきの週末はすべて、四年の先輩に託されたオーケストラ曲の譜読みで潰れる。

 その夜のうちにサクソフォン科全員と連絡先を交換し、先輩にはオーケストラのグループチャットへ放り込まれるなり、

「次の合わせ、月曜だから。任せたよルーキー!」

 さらりと週明けの授業終わりの予定まで埋められた。

 そんな大層な乗り番──オーケストラという大人数での本番では、全員がすべての日程ですべての曲に出番があるとは限らない。『乗り番』とは、その日に誰がどの曲で舞台に上がるかという意味である──を新入生に任せるなよ! と不平を垂れるのは容易いが。


 むかい菜穂子なおこ 作曲

『ムーン・クレーターを目指し行進』


 味気ないタイトルばかり付けがちな彼女の、こうも荒ぶった字面を見れば、吹雪は無性にやる気が出た。

(ムーン・クレーター? なんで急に月行こうと思ったんだろ)

 菜穂子ら作曲科四年生は、昨年冬ごろに課せられた、オーケストラ曲の楽譜をすでに提出していた。

 その演奏審査が、例年四月に学内にて行われ、この時期は弦楽器や管楽器の並たる面子も、本番にまとめて駆り出されるというわけだ。

 サクソフォンは本来、オーケストラの本番には滅多に呼ばれない楽器だ。

 こうして乗り番が巡ってくるのも、ましてや入学したてのぽっと出が任されるのも、たいへん珍しく光栄な話だと、吹雪は練習しながら浮かれていたのである。

 楽譜のあちこちにクレーターが落とされたみたいに、相も変わらず難解。少なくとも、変拍子ばかりで、二拍子または四拍子が基本な『行進曲』にはとても見えない。

 ひとつ気がかりだったのは、やはりアルト・サクソフォンパートの楽譜はやはり手書きである。オーケストラなんて二十パートでは利かないはず。

 となれば、まさか全パート彼女が……?

(さっすが菜穂子パイセン! こちとら、前日リハに楽譜をもらったこともある、菜穂子楽曲のエキスパートですよ。オケ曲の譜読みくらい、三日もあればじゅうぶんだね。はっはっは)

 ──などと、安城あんじょうの練習室で舐めたことを抜かしてどうもすいませんでした。

 吹雪は寝不足のふらふらで、月曜最初の授業に乗り込むこととなる。母親に叩き起こされていなかったら、危うく初日から遅刻するところだった。



 睦ヶ峰むつがみね芸大にきて初めての授業は『ソルフェージュ』だ。

 全百人ほどいる新入生のうち、十人単位で細かくクラス分けされ、うち大半のクラスは一限目に教室へ馳せ参じ、歌を歌ったり音を聞き取ったりしなければならない。

 朝一で始まる授業に耐え忍び、最後には実技試験も控えているという、すべての睦ヶ峰生が通らなければいけない、卒業必修単位という名の第一関門である。


 入試の時点でソルフェージュの試験もちゃんとあったんだから、それで終わりというわけにはいかないらしい。

(まあ、推薦入試にソルフェはなかったけどね)

 電車通学の吹雪は、ダイヤの関係で開始時刻よりいささか早めの到着となる。

 吹雪が割り当てられたクラスの教室は、なんの因果か、かのオープンキャンパスで菜穂子と出会った、あの部屋であった。

 グランドピアノの弦が断ち切られる瞬間。

 唯一無二、再現不能な不協和音。

 あの音がいまだに、吹雪の脳裏を焼きついていて離れない。

 もしかしたら自分が一番乗りかも──そんな密かな期待を胸に抱き、扉を開く。


 部屋は朝でも明かりがついていた。すなわち、先客はいた。

 後ろ姿からして女性だ。肩の辺りまで伸びている黒髪ストレート。

 あの日、菜穂子が乱暴にかき鳴らしていたグランドピアノと思わしき黒い箱を、蓋を開き、しげしげと眺めていた。ピアノ椅子へ腰掛けるわけでも、その鍵盤を自らが叩くわけでもなく。

 その女性は、弦楽器の形をした、茶色い革のケースを背負っていた。



「お、おはようございま〜す……」

 そろそろとあいさつする吹雪。

 楽器ケース以外はほとんど手ぶらなあたり、講師の先生ではなさそうである。

 となれば同級生か。吹雪はまだサクソフォン科の先輩たちと、管楽器科の何人かくらいとしか顔合わせをしていない。

 弦や他の楽器の生徒など、みなが等しく初対面みたいなものだ。

「……おはよ」

 女性は振り返りもせず、素っ気なく返事してくる。着飾らず、さほど高くない地声。

「ええと……なにしてるの?」

 吹雪は気になってピアノへ近付いていった。黒のスカジャンを羽織った彼女は、ジーパン越しでもわかるほど足がすらっと長く伸びていて背高だ。並んで経てば、もしかして吹雪よりも高身かもしれない。

「これ」

 彼女が指さしたのは、ピアノの内部に張られた弦。新品なのか、錆ひとつ付いていない。

 太いワイヤーみたいな、少し触れたくらいじゃ歪みそうにないそれを見て、

「前に作曲科の先輩が、オーキャンでぶち切ったことがあるんだってさ」

 と告げた。

 どきりと心臓を跳ねさせる。吹雪は反射的に聞き返してしまった。

「だ、誰が言ってたの、それ」

「ヴァイオリン科の先輩」

 女性の返事も素早い。

 ちらと吹雪を一瞥してくる、その顔立ちにもわずかに緊張を走らせた。

 モデルみたいな目鼻立ちの高さだ。まつ毛も長い。すっぴんを疑うほどに肌も真っ白で、綺麗で。

 これほど整った──完成された同年代の女性は、吹雪の周りにはいなかった。

「そ、そうなんだ」

「その人、今度の学内でオケ曲やるんだけど」

 ふらと後退し、ピアノから数歩離れた女性は口ずさむ。

「乗り番を四年生に押し付けられたんだよね。他の作曲科の人のほうには乗るのに」

「え……」

「作曲科だと、林先輩っていう男の人はウケが良いらしいよ。ポップスのアレンジとか頼めばすぐやってくれるし、キーボード弾けてバンド組めるしで」

 心拍数が跳ね上がっていく。

 そうか、オーキャンでの例の事件は、新入生にも人によっては知られてしまっているんだ。


「そんなにヤバいのかな、向菜穂子って人」

「す、スゴい人だよ! あの先輩は……」

 たまらず吹雪は声を張った。女性は顔色ひとつ変えず、

「へー、知ってんの?」

「定期演奏会にだって出てるんだよ。コンクールでもいっぱい賞獲ってるらしいし……」

「その定演でやってた弦カルが、超キツかったって愚痴も聞いてるけど?」

 なんて耳の早い一年生なのか。それも、同じヴァイオリン科の上級生たちから、悪い噂や評判ばかり集めて。

 キツいって、楽譜の話だろうか。それとも菜穂子自身の性格や言い方だろうか。

 定演の弦カル──思い起こせば起こすほど、事細かに当時のことを知らない吹雪でも、確かに喜ばしい結果ではなさげだと察しがついてしまったけれど。

「キツい……かもしれないけど……」

 大いに悩んだ吹雪だったが、結局言い返さずにはいられなかった。

「めっちゃカッコいいんだよ」


 音楽も──音楽家も。

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