卒業
♫
あれから。
誰に噂を聞いたんだったか。
記憶があいまいだ。事細かに思い出したいともあまり感じない。
吹雪が彼女をめぐる記憶を掘り起こして、最終的に良い気分になった試しは、これまでほとんどなかったのである。
本番が終わるなり、花村先生はレッスンの準備があるからと早々に岡崎へ帰っていった。
ひとりで黙々と楽器を片付け、他の出演者のパフォーマンスを客席で眺め、終演してまもなく集合写真を撮ったあたりで、
「吹雪くん」
今度は酒井先輩に声をかけられる。
「お、お疲れ様でした」
「お疲れ様〜。……ね、あのさ」
酒井先輩はワンピース姿のままだった。身体を冷やさないよう、厚手のコートを羽織り、マフラーを巻いていて。
「途中まで一緒に帰らない? そこのコンビニで飲み物買ってこーよ。私、奢っちゃうよ」
その誘いに応じない理由はない。
吹雪は強張った表情で「あざす」と小さく返し、楽器ケースを背負って榊先輩の後を追う。
会場を出てすぐの通りにコンビニはあった。
「なに買う?」
「ええと、肉まんでも良いっすか」
「あっはは。さすが育ち盛り」
店内で吹雪が熱々の肉まんに手を焼いている間、酒井先輩は、レジ脇のマシンで紙コップにブラックコーヒーが注がれるのを、自然に微笑みながら待っている。
──いっそう大人びたな、と感じた。
彼女は本番用の服のままであったし、高校の頃から先輩たちの中でも、もとより綺麗どころではあったけれど。
華の女子大生にもなれば、ほんのりとだが化粧っ気もある。
吹雪にはずっと、誰にも言わずに隠しておいた秘密があった。
他人へ黙っていたどころか、自分自身へも嘘をついて適当に誤魔化し、はぐらかし、騙くらかしながらどうにかやり過ごしてきたのだ。
ただ楽器の先輩として憧れていたわけでは、部活動の先輩として頼っていたわけでは、他の人よりちょっぴり身近にいる女性として慕っていたわけでは……なかったかもしれないと。
抽象的にでも、ほんのわずかでも。一時の気の迷いや自惚れだったとしても。
まったく酒井先輩に下心がなかった、と──言語化したら。
その言葉はきっと、嘘になるだろう。
もしかしたら。
ほんのわずかに、運命のボタンが掛け違っていたら。
あともう少しだけ、彼女との巡り合わせが悪くなかったら。
酒井先輩、あるいは酒井先輩みたいな、こういう──それなりに魅力的で、それでいてどこか普遍的な女性と、恋に落ちていたんだろうか。
そう考えた瞬間が一度もないと言ったら、きっと、それも強がりになってしまう。
初めて手にしたアルトサクソフォン。
それの綺麗な鳴らし方を、手取り足取り教えてくれた人。
初めて上がった吹奏楽大編成の本番。
隣で同じ曲、同じパート、同じ音楽を奏でた人。
初めて挑んだソロコンクール。
全国大会までピアノ伴奏をしながら、ステージのすぐ後ろで演奏を見守っていてくれた人。
彼女と過ごした時間、彼女と得た経験、彼女とわかちあった音。
それらの思い出はすべて、今までの本番、今日のついさっきの本番、そしてこれから先の本番にとって、決して替えが利かず、かけがえのない、音楽の種となって芽吹いて育って。
またいつか──吹雪という音楽家に、新しい音楽の花を咲かせるのだろう。
♫
コンビニを出てしばらく歩いていくと、酒井先輩の家と吹雪の家、その方角が分かれる道へ着く。
自ら誘いをかけておきながら、紙コップ片手に酒井先輩は、
「じゃ、またね吹雪くん!」
やけにさっぱりした表情で、やたらあっさりと別れの言葉を告げた。
「いつかまた、同じ本番で会えると良いね」
「はい」
吹雪は静かに、しかし力強く頷いてみせる。
「必ず、まだどこかのステージでお会いしましょう」
──だから。
彼女との出会いも、一時のさよならも。
かのボサボサ頭なドギツイ作曲家と同じように、決して無駄な道のりではなかったんだと、吹雪は信じていたいのだ。
こればっかりは、嘘じゃない。
くると背中を向けた吹雪は、昨晩に激しく降ったらしい
ザン、ザン、と。
この冬、ひとつの
そして、
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