サクソフォンの妖精
ゆりは『くるみ割り人形』のアレンジにも心当たりがあるらしく、
「チャイコフスキーってロシア人の作曲家でしょう?」
課題曲を聴き終える前に話し始める。
「ロシアに
「最近って……十年くらいですか?」
「十九世紀あたり」
百年以上も前ではないか、と
(そっか。バッハモーツァルトベートーヴェンと比べたらうんと
すぐに思い直した。
「チャイコフスキーは、その頃ロシアにやっと出来た最初の音楽大学の人でねー」
「最初の人……『
「ロシアのクラシック界隈ではだいたいそんな感じ。だからね? ナオちゃんがアレンジしてくれたこの楽譜にも、チャイコより後のロシアン音楽がいっぱい盛り込まれてあるって私思うんだよー」
なるほど、と吹雪は相槌を打つ。
ゆえに
「ゆり先輩! 他に参考になりそうな曲ってありますか?」
本番はすぐ明日だが、ほんの少しでも良い演奏に近づけるためには、一曲でもインスピレーションが得られるようなインプットをしておきたい。
そんな吹雪の思いに応えるように、ゆりは菜穂子のちょっとした秘密を教えてくれた。
「とりあえず『ロシア五人組』押さえておけばまず外さないけどー……私的にはー……」
にっといたずらな微笑みを浮かべ、
「絶対コレが
違う動画を取り出し、『ロシアン・キャロル・アレンジ』の元ネタ有力候補を引っ張り出してくる。
動画から聴こえてくる旋律、リズム、ハーモニー。
それらの『
「こ、れは……」
「ナオちゃんってねえ、吹雪くん」
ゆりはどこまでも『先輩』だった。
「喋ってる時はいつもあんな感じでツンツンしてるけど──音楽に限っては、ものすんごく
イーゴリ・ストラヴィンスキー 作曲
『兵士の物語』(ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための室内楽組曲版)
♫
翌日──クリスマスコンサート本番。
朝から大部屋へ集まった幼稚園児たちは、音楽家たちが前に立つなり、
「オハヨー、ゴザイ、マスッ‼︎」
園長先生の合図で元気はつらつに、カタコトみたいな挨拶をしてくれる。
黄色のサンタ帽をかぶった菜穂子は「オハヨーゴザイマス」と棒読み気味に返すと、すぐにタンバリンを叩いた。
ルロイ・アンダーソン 作曲
『そりすべり』
アルトサクソフォンの輝かしい音色と、アンダーソンの軽快で明るい音楽はとかく相性が良い。赤い帽子をかぶったゆりサンタのメロディに、子どもたちは早くも夢中だ。
青い帽子の翼サンタも、鈴がどこか遠くからリンリンと鳴って、菜穂子のタンバリンを追いかけているみたいに変幻自在のピアノを響かせる。
わあわあとギャラリーが騒がしいまま、一曲目の演奏が終わった。子どもたちを囲うように座っていた先生たちが、気を利かせて拍手してくれているのもほどほどに聞き流し、菜穂子はマイクを仏頂面で握る。
「えー、次はヒイラギの曲やります。ヒイラギ。みんな作ったことあるよね?」
子どもたちは口々に「アルヨー」「アレ、ボクガツクッター」などと叫んで壁を指さす。壁にはつい先週作ったという、折り紙のヒイラギがびっしりと並んで飾られている。この部屋全体がクリスマスツリーに変身したみたいだ。
もちろん偶然ではない。菜穂子たちもあらかじめ、そういう催しをする予定だと園長先生へのリサーチを済ませてあった。
ウェールズ民謡
『ひいらぎ飾ろう』
アレンジは『そりすべり』『ひいらぎ飾ろう』も菜穂子によるものだが、特に『ひいらぎ飾ろう』はバッハやヘンデルといった、教会でオルガンを弾いたり合唱を歌ったりするのが音楽のメイン市場だった時代の響きを再現するための仕掛けがなされている。
サクソフォン二本のカノン的な掛け合いに、トリルによる旋律の煌びやかな装飾。ピアノがしっかりとベースラインを聴かせ、現代でも通用する派手なブラス・サウンドを厳かで慎ましい『
これぞ、ちまたのクラシック音楽のコンサートで通用する類のアレンジメントだ。およそ菜穂子の、聴き手を選ぶ作風からは考えられない
(このくらい、菜穂子先輩が自分で弾けば良かったのに)
トナカイのツノを付けた吹雪は、ステージ脇へ引っ込み演奏には加わらなかった菜穂子をチラと見る。うっかり目が合ってしまい、菜穂子に(真面目に吹け!)と睨みつけられると慌てて演奏へ集中を戻した。
「はい。次はトナカイの曲です」
演奏が終わればそそくさとステージへ戻ってくる菜穂子が持っていたのは鍵盤ハーモニカ。
サクソフォンを椅子へ下ろしたゆりへ手のひらを向け、
「みんなもサンタのお姉さんと一緒に、『赤鼻のトナカイ』歌いましょう」
そう声をかければ子どもたちも威勢良く「ハーイ!」と手を挙げた。彼らがちゃんと歌えるのもリサーチ済み。むしろこの曲に関しては、園長先生からの直々のリクエストだ。
翼は少しだけのんびりしたテンポで前奏を弾き始める。
ジョニー・マークス 作曲
『赤鼻のトナカイ』
不秩序に騒がしかっただけの子どもたちが一斉に歌い出せば、大部屋は初めて、ステージとギャラリーで同じ音楽を共有した感覚に包まれる。
「まっかなおッハッナッの〜!」
「トナカイさっん、わ〜!」
子どもたちの言葉も鮮明に聞き取れるようになった。実はさっきまでは、吹雪は彼らが何を言っているのかわからない瞬間も多々あったのだが。
ピアノの伴奏が音量で負けるくらいの大合唱。その共鳴に応じるように、吹雪も調子付き波に乗り、とうとう足が動き始めた。
まさか勝手に歩き回って、ゆりの歌や菜穂子の鍵盤ハーモニカを遮るわけにはいくまい。
吹雪が苦肉の策で選んだのは、数歩だけ前へ進み出てからの──ムーンウォーク。
「えぇえええええっ⁉︎」
なぜか沸き立ったのは子どもではなく大人たちだった。
先生たちがざわつき、歌が終わるなり「もっかい! もっかいやって今の!」などとリクエストし、吹雪も調子に乗ってもう一度か二度くらい披露してみせる。
「えぇえええええっ⁉︎ すんごおぉおおおおおっ‼︎」
仰天したのは音楽家たちも同じだ。なにより、誰より、
「え……は? ……え?」
次のMCを忘れ去り、真顔で呆然と立ち尽くしたまま吹雪を凝視している菜穂子。
マイケル・ジャクソンの亡霊と出くわしたみたいな顔で、
「え、おま、え? ……んなもん、どこで覚えて」
「はいはーい! 次の曲行くよー!」
コンサートの進行が完全ストップしてしまう前に、ゆりが慌ててフォローを入れた。ぶんぶんと片手を大きく振りかぶり、
「次に演奏するのは『くるみ割り人形』でーす! みんな〜! 『くるみ割り人形』のお話知ってるかな〜?」
「知ってる〜!」
子どもたちの返事も早い。どうやら本当の意味で、コンサートに意識が向き始めたようだ。
「いろんな曲やるから、絵本の中の誰が出てくるか当ててみてね〜! お人形さんかな〜? 金平糖の妖精さんかな〜? ……あ、そうそう!」
思い付いたみたいに、ゆりが吹雪を指さして。
「この楽器ねえ、サックスっていう名前なんだけど〜。このトナカイのお兄ちゃん、今度はトナカイから、
摩訶不思議な予言に、子どもたちも「え〜?」とか「ほんと〜?」とか吹雪へ疑わしい声を浴びせる。それでもゆりは動じなかった。
「ほんとだって。お兄さんが変身しちゃうところ、お耳を澄ませて、よく聴いてみて?」
しん──と。
スプリンクラーで消音の魔法でもあたりに撒かれたんじゃないかってくらいに、子どもたちが動きを止めて吹雪を凝視する。
吹雪は唾を飲む。──そ、ソロコンかなにかか?
なんだったらソロコンの審査員よりもずっと真面目に自分を見ているんじゃないかと錯覚してしまうくらいの集中力に、翼はすかさず演奏開始の合図をかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます