音楽家たちのこだわり

 広げたばかりの楽譜を、もう用済みと言わんばかりの勢いでしまおうとする菜穂子なおこは、

「菜穂子ちゃんは昔からピアノ上手だったものね〜」

 と園長先生が懐古に浸り始めたのを、やけに穏やかな声色で謙遜した。

「……それほどでもなかったですよ」

「上手だったわよ〜! 中学生の頃にも、合唱の発表会で伴奏弾いてくれたの覚えてるし」

 別に弾きたくて弾いたんじゃない。

 あれも母親経由で、園長先生に頼まれたから仕方なく──と、菜穂子の顔に書いてある。

「久しぶりに聴けるの楽しみだわ〜。ほら、菜穂子ちゃんが年中の時の担任だった光浦みつうら先生もね──」

「いえ」

 園長先生の言葉を遮るように、菜穂子は誤解を解こうとした。

 つばさをあごで示し、

「ピアノは私じゃなくてこいつが弾きます。こいつのほうが、元ピアノ科で私よりずっと上手いので」

 感情を声に乗せないで訂正を入れられると、園長先生はさっと顔色を変え、むすっとしている菜穂子と営業スマイルを持続させている翼を交互に見比べている。

「……あら。そうなの?」

 ここまでの打ち合わせで一番の動揺を見せた園長先生が、

「じゃあ、菜穂子ちゃんは何をしてくれるの?」

 確認するようにたずねると、菜穂子は淡々と答えた。

「アレンジと、選んだ曲次第では鍵盤ハーモニカ……あとはMCですね」

 MCとは、コンサートやライブ系のイベントではではほぼ必ず配置されている、イベント全体の進行役、司会者みたいな役回りの人だ。

「クリスマス会って毎年、幼稚園児にサンタさんがクッキー配ったり、折り紙でヒイラギ作ってプレゼントしたりしてますよね? 私、そっち手伝いますから。演奏に合わせてタンバリン叩いて手拍子うながすとか」

 吹雪ふぶきは危うく眉をひそめかけたのを堪える。

 ──菜穂子先輩がMC? まさかサンタさんにでもなりきるつもりか?

 サンタさんの格好している彼女はぜひとも一度くらい拝んでみたいが……ふ、不安だ……。そういう役回りこそ翼先輩や、そっちのサックスの先輩のほうが向いているのでは?


 部屋にほのかな気まずさを残したまま、園長先生との打ち合わせはあっさり終わる。

 玄関まで四人を見送ってくれた園長先生が、にこにこと手を振っているのを吹雪も小さく辞儀をしていると、

「ナオ」

 道端で口火を切ったのは翼だった。



   ♫



「やっぱさ。俺、要らなくね?」

 営業ではなく持ち前のヘラヘラした笑顔で、軽い調子で切り出されても、菜穂子は一向に翼を見ようとせず返事も渋っている。

「サックスは別にあっても良いけど。先生たちが一番聴きたかったのって、ナオのピアノだろ」

 吹雪は隣で菜穂子の顔色を伺う。園長先生と話していて、薄々勘付いていたことを翼に言語化されると、やはり気付かぬふりをしないわけにもいかないのだ。

 メインの『くるみ割り人形』も三人編成で、菜穂子が演奏に加わる予定はない。

 まさか吹雪やゆりのほうから、翼がコンサート不要とはなかなか言い出せなかったからこそ、その翼が自ら提案してくれたなら異論はなかった。

「一度誘いに乗っておいてブッチするのもアレだからさ。MCやらサンタさんやらこそ俺がやってやろうか? てめえで書いた『くるみ割り人形』アルティメットアレンジがてめえで責任持てないってんなら、そっちはまー引き受けなくもないけど。せめてクリスマスソングくらいは、ナオがピアノを──」

「弾かない」

 菜穂子の意思は固い。ずんずんと岡崎駅へ向かったまま、

「私は自分のピアノが好きじゃない。今も曲書くんに使ってるだけで……もとから人様に聴かせるためにやってたわけじゃない」

「今は人様に聞かせるために音楽やってるだろ」

 翼の言葉尻も強まっていく。

「クライアントのリクエストに応えるのも大事な音楽家の仕事だ。あちらさんがナオのピアノが聴きたいっつってんだから、それをサボったら、いくら楽譜書いたって喋ったって、仕事をしたとは言えないんじゃねえの」

 説教じみた言い回しに、ぴたと立ち止まった菜穂子が険しい顔で振り返る。

 うすら笑いを浮かべた翼との睨み合いを、吹雪は脇で焦りながらも見守っているしかない。


 ……ていうか、翼先輩。

 あなたも内心で、あの真っ黒な楽譜を『アルティメットアレンジ』と命名してたんですね。さっきから気が合うなあ。


「相変わらず懲りねえっつうか、強情っつうか、学習しないっつうか」

 翼が呆れるように、

「珍しく自前でコンサートの話持ってきたと思ったから、俺も親切心で協力してやろうと思ったのにさ。ったく、これだから頭がおカタい朝日野卒は……」

「うっさいわ」

 罵れば菜穂子も負けじと言い返す。

 いや、反論するというよりも、翼の正論に悪あがきをしているようだった。

「……朝日野卒は別に関係ないでしょ」

バサ、、はナオちゃんを心配してるんだよお」

 二人の様子をやや後ろの位置で眺めていたゆりがフォローを入れる。ほわんほわんと体を揺らしてる彼女は、別に誰かへ気を遣っているわけではなく、思った通りのことをそのまま口に出しているようだった。

「バサもナオちゃんも、二人ともこだわり持って音楽やってるのは私、ちゃんとわかってるからー。それでも心配なんだよー。バサって、ほんとナオちゃん好きだからー」

「えっ!」

 なぜか血相変えたのは吹雪だ。好きというワードに露骨な反応をしてしまい、慌てふためきながら探りを入れる。

「えっえっ、で、でも、翼先輩って確かカノジョさんが──」

「ゆりせんせー」

 翼もいたって面倒くさそうに、露骨に顔をしかめて弁明の姿勢に出た。

「俺、今そういうカテゴリの話はしてないです……え、言わなきゃダメ? 言って差し上げなきゃダメですか? しょーがねーなあ、恥を忍んで言いますよ。翼おにーちゃんが好きなのはなあ──」

「そうだ余計なお世話だ」

 この流れを勝機と見てか、菜穂子もツンと冷たく言い放つ。

「お前は二階堂にかいどうさんの面倒だけ見てろ」

「かっちーん、人の親切しんを……! おい、吹雪後輩」

 カバとかキリンとか、見てくれがあまり可愛くない動物を見るような目を菜穂子へ向け、翼は吹雪の肩に手を置く。

「お前は睦ヶ峰入ったら、あんましこいつみたいに仕事を選り好みするなよ」

「えっ? あー、はあ……」


 ──睦ヶ峰に入ったら。

 吹雪は空を仰ぐ。すでに合格を決めておきながら、いまだ自分が大学へ進んでからの姿はいまいち想像ができない。


「まー……僕みたいなサックス初めて三年弱に仕事回してもらえるんなら、それだけで単純に嬉しいので……」

「えーっ⁉︎」ゆりが唐突に叫び、慌てて口を手で覆う。「まだ三年しか吹いてないの⁉︎ 高校で始めたとか? それで睦ヶ峰? 推薦⁉︎ ……すごっ」

「ええと、ピアノも一緒に弾けって言われたらさすがに困るかもですけど……マジで下手なんで……や、でも、言われたらやりますよ!」

 考えを巡らせた末に、吹雪はつかつかと足を進め、菜穂子の正面まで回ってピタと止まる。

 懸命な吹雪の表情を不可解そうに見上げる菜穂子。

「何?」

「だって僕、菜穂子先輩に教えてもらいましたから!」

 吹雪は言い聞かせるように宣言した。

「現代音楽とか、音楽の可能性は無限大って! できそうなことなら……や、できないと思ったことでも、僕はどんどん飛び付いて行きますよ! だから……」



 ──だから、佐倉さくら吹雪に書いてくれ。

 そう暗に主張しているのが、菜穂子にも後ろ二人にもひしひしと伝わってきて。


「…………吹雪くん」

 口元を隠したまま、ゆりがまんまるな目をして呟いた。

「お熱いねー……」

 はてさて、なにに対して「熱い」と思ったのやら。

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