『くるみ割り人形』
♫
ハンバーガー屋である程度打ち合わせしてから、
菜穂子が率先してインターホンを鳴らせば、園長先生はすぐに建物から出てくる。
「久しぶりね〜菜穂子ちゃん! あっはは!」
アフロみたいな自分の髪型は棚に上げ、秋風に晒されたせいで普段以上のボサボサ頭をひと目見るなり、
「背だけ大きくなっちゃって。ちっとも変わってないわね〜」
と大声で笑い飛ばされたのを、菜穂子は一瞬だけむっと頬を強張らせる。
「……ご無沙汰してます」
「まあ上がって上がって。結局、コンサートは四人でしてくれるんだったかしら?」
そう言われながらにこやかに建物の中へ誘われると、菜穂子が自分の家みたいなノリですたすた玄関を上がっていくので、他の三人も後に続くような形で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるなり床へ全員ぶん並べて靴の置き位置を揃えた。
幼稚園児も、他の先生もいない閑散とした廊下や教室。しかし壁のいたるところでは、子どもたちのお絵描きやなにかしらの行事で撮ったのだろう写真で賑わっている。
まもなく連れていかれたのは、コンサート会場となる大部屋だ。アップライトピアノが壁際にぽつんと設置されていて、やはり壁には幼稚園での合作であろう、色紙を切り貼りした紅葉の木がどかんと飾られていた。
脚の低い折りたたみ机を部屋の真ん中で広げた園長先生が、
「ちょっと座って待っててね。お茶持ってくるから」
と言い出せばすかさず、
「いえいえ、どうぞお構いなく」
吹雪は何気なく翼へ視線を送り、びくっとする。
翼は吹雪も知らない間に、いつものヘラヘラしたうすら笑いではない、園長先生の前では絵に描いたような営業スマイルを浮かべていた。
ゆりも変わらずほのぼのとした微笑みを浮かべているが、気のせいなのか、さっきよりかはアパレル系ショップの店員にいそうな佇まいが演出できている。
……なるほど。勉強になるなあ──と、吹雪は背筋をそれとなく正す。
これが菜穂子と翼たちの、音楽本体とはまた別の、音楽家に求められた一般的な必須技術とされる、営業ないし接客レベルの差というわけか。
プロを名乗るからには、演奏を始める前からとっくにお仕事は始まっていたのだ。
すぐに大部屋へ戻ってきた園長先生が茶菓子を机に並べてくれたあたりで、ようやく四人は着席する。
吹雪と女性二人は正座したけれど、どういう腹づもりか翼だけは「失礼」と軽い断りを入れつつあぐらをかいた。園長先生は終始にこにこしていて、さほど気に留めていなさそうだ。
そういうメリハリの線引きはどこで決めているんだろうと吹雪が不思議がっていると、
「それで、菜穂子ちゃん!」
待ってましたと言わんばかりの勢いで、一緒に正座した園長先生が本題へ切り掛かる。
「なにを演奏してくれるの? 他のお友だちはなんの楽器でしたっけ?」
「サックスです」
真っ先に答えたのはゆりだった。吹雪へ上品に手のひらを向け、
「私とそちらの男の子が。彼は来年、睦ヶ峰に進学する予定の高校生なんですよ」
と、ご丁寧に吹雪の紹介までこなしてくれる。
吹雪は愕然とした──本っ当、他の先輩たちはメリハリあるなあ!
「へ〜え、そうだったの! こんな時期にもう決まっちゃうものなのねえ」
「彼はとても優秀なんでね」
翼も、虫も殺さぬ顔して吹雪をヨイショする。
「なんたって、菜穂子さんが最近特に可愛がってる後輩ですから。『佐倉吹雪は私が育てた』って、自分では内心思ってるくらいですよ」
「……えっ」
うっかり間抜けな息を漏らしてしまい、吹雪は慌てて口を片手で覆う。さっと菜穂子の顔色を伺えば、露骨に嫌がり額に皺寄せた菜穂子が、
「アホ。園長先生に適当吹き込むんじゃないわ」
もそもそとした手付きでトートバッグの中身を引き出し、机へ広げる。園長先生の目前に並べられたのは、吹雪たちもついさっき眺めて、愕然とした楽譜だ。
「あら〜!」タイトルだけ見て、園長先生が真っ先に。「『くるみ割り人形』?」
「はい。これをコンサートのメイン曲にしようと思って。……先生、知ってます?」
「一応ね〜。まあ音楽のほうはあんまり覚えてないけど。お話だったら、うちでも絵本の読み聞かせしてるから〜」
そう返されると、わかりきったような顔で菜穂子もあごを引く。
「ですよね。私もここで読んだ覚えありますから」
園長先生はどう見たってベテラン先生。子どもたち相手にピアノやオルガンを弾く機会も多いだろうから、ある程度は楽譜が読めるはずだ。
だが、提示された菜穂子の楽譜へ「ふう〜ん、へ〜え」と独り言みたいな感嘆を漏らしながら目を通している園長先生は、あきらかにその楽譜が『くるみ割り人形』であると認識できていない様子だった。
彼女に落ち度はない。吹雪にだって、現役の睦ヶ峰大生でさえも、この楽譜が『くるみ割り人形』の原型を留めていると判定できるものだか怪しかったのだから。
相変わらず音符が多い。五線紙が真っ黒。メロディは行方不明。二本のサクソフォンと一台のピアノで、どんなビッグバンド級の大立ち回りをさせようというのやら。
吹雪はこっそり、この楽譜に異なるタイトルを与えていた。
『くるみ割り人形 〜令和のチャイコフスキー、ナオコ・ムカイによるモダンアルティメットダンシングアレンジ〜』
そんな別名の存在などつゆ知らず、菜穂子はけろっとした表情で展望を告げる。
「あとは定番のクリスマスソングを……まあ色々。そっちはまだ四人でどの曲をやるか話し合っている最中ですけど。もしリクエストがあれば言ってください」
「へ〜え! ……どんな音になるか楽しみね〜」
ちょっと言葉を詰まらせた園長先生が、いささか棒読み気味で相槌を打つ。
たまたま目が合った吹雪と翼が、おそらく同じようなコメントを胸中で述べていたことは互いで容易に推し量れた。
──見ものだぞ、これは。
園長先生ひとりならまだしも、果たして幼稚園児が聴くに耐えうる音楽となるだろうか。
吹雪が睦ヶ峰のオーキャンで体験した、あの衝撃をもう一度。
今日の時点では、クリスマスの定番曲とやらのアレンジはもちろん手付かずだ。本番までさほど時間がないからこそ、せめてそっちだけでも幼稚園児向けに……というか演奏家向けに、多少は楽譜に手心加えてくれるのを期待しよう。
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