スタートラインはいまだ不明



   ♫



『あー、受かった? おめでとー』

 吹雪ふぶきがその日の内に電話で報告しても、やはり詠人えいとはあっけらかんとしていた。

『まあ受かるよね。うんうん知ってた。これで残りの期間はレパートリー増やす作業に充てられるね』

「や、先生絶対受からないって言ってたじゃないですか……」

『受験に絶対なんてないよ。受かりにくいとは確かに言ったけど』

 詠人はさも当然のように、

睦ヶ峰むつがみねくらい受験生の中では一番を取っておいてもらわないと。もし吹雪以外の子が受かりでもしたら、即・俺の弟子クビだけど?』

「どこから湧いてくるんですか、その自信……」

 恐ろしいことを言ってのけるから、吹雪は自室の机で突っ伏す。

 頭ではわかっているつもりだ。一番を獲るくらいの気概でなければ合格できないことくらい。ただ、気持ちを強く持つことと、その気持ちに見合う力をつけることは同義ではないとも吹雪は日に日に感じるようになっていた。

 その昔は根拠ない自信に満ち溢れていて、頑張ればソロコンで全国一位が獲れるものだと漠然と考えていて。

 でも、今は──。


『じゃあ来週のレッスンまでに『アルルの女』読んできて。スコア見るのもサボらないように』

 詠人は淀みない口振りで課題の追加を言い渡すと、そのまま電話をぶつんと切った。普段と変わりない淡白なやりとりに、吹雪はしばらくスマホ片手に呆ける。

(達成感、ぇ〜……)

 椅子から崩れ落ちるように、すぐ後ろのベッドへばったりと倒れ込む。

 大学合格って、その道の先輩から見ればこんなにも賞賛されないものだったのか。詠人が冷たすぎるだけかもしれないけれど。なんか課題増やされたし。

 一次試験、二時試験と何日もかかる一般入試と違って、推薦入試はただの一日で終わってしまうから。

 あるいは。

 受かって当然、でなければハナから見込みなし──とでも言いたいんだろうか。

 吹雪はSNSを開く。何時間も前に送られた、たったの五文字が、時間を追うごとに光を強めていくような錯覚。


(菜穂子先輩、最初に『おめでとう』って言ってくれたな)

 合格発表は大学構内にも掲示されるらしい。在学生であれば誰にでも結果を見られるだろう。

 彼女も今日は授業だったんだろうか。レッスンとか見てもらっているのか。またコンクールや学内のオーディションにでも新しい楽譜を書くんだろうか。

(うん。書いてる。絶対書いてる)

 じわりじわりと実感が心の奥底から染み出していくと、吹雪は頬をだらしなく緩ませた。

(行ける……睦ヶ峰。先輩と一緒のところ)

 これが吹雪のスタートラインだ。

 サクソフォンに夢中になって、初めて本気で音楽をやってみたくなって、そのきっかけを作ってくれたのが菜穂子で──彼女自信にそのつもりはなかったかもしれないけれど。

 それで──菜穂子と同じステージに立ちたいと、ずっとずっと思っていた。



(先輩と最後に会ったのっていつだっけ。夏休みのコンサートか。……文化祭とか遊びに行っちゃう?)

 再来週にあるらしい睦ヶ峰の文化祭のホームページを眺めたり、何度もSNS履歴を見返したり、階下から夕飯で呼び出されるまで、吹雪はずっと菜穂子のことばかり考えていた。

 食卓に着いても、頭の中には延々とボサボサ頭やその指先から紡がれる音符ばかりが浮かんでくる。

(うわやばい。先輩と話したい、ってか超会いたい)

 風呂上がりの後も、何度もスマホの通話ボタンまで指がかかったけれど、吹雪はどうにも最後のひと押しまで踏み出せない。

 急に電話したって、今頃それこそ楽譜を書いているんじゃなかろうか。そもそも何を話せば良いのか。今年はソロコンに出る予定もなければ、菜穂子の曲を演奏するような機会もない。受験は来年まで続く見込みだったから当然だ。

(くぅうぅ……話題がない……合格っつったって先輩からしたら、受かりました! おめでとう! 以上! って感じじゃん……)

 意気地なしは結局地団駄を踏む。寝巻き姿で再びベッドにダイブした。

(せめて先輩と同じ高校に通いたかった……)

 音楽家としての道のりであれば今しがたスタートラインに立てたかもしれないが、菜穂子と出会ってから早一年半、その距離は一向に縮められないままでいる。

(やっぱり入学まで辛抱しなきゃダメなんかな〜……)

 吹雪はもやもやした気持ちを枕と一緒に抱えたまま眠りにつく。

 そういった悠長な現実逃避に、手厳しい叱咤の声は翌日にも降りかかってくることとなる。



   ♫



 またも昼休みにて。

「もう告っちゃえば良くね?」

「うっ!」

 中本なかもとの鋭い指摘に、吹雪は危うく米を喉に詰まらせかけた。

「それかデートに誘うとか。お前受かったんだからもう暇だろ。来週ハロウィンじゃん? 名古屋でも豊橋とよはしでも行ってこいよ」

「ら、来週末はレッスンあるってば!」

 周りにいたクラスメイトたちも、中本の正論に真顔で賛同の意を示している。

「ていうか、い、いきなりデートって……」

「いきなりっつーか今更っつーか。ナオコ先輩ってあれでしょ? ソロコンの大学生でしょ? そもそも何年よ、あの人」

「い、今は三年だけど……」

「じゃあ来年四年じゃん。大学入ったってどーせ一年しか学年被ってないじゃん。入学まで待ってる場合じゃなくね?」

「うっ!」

「だいたいさ、二つも三つも年下の男を守備範囲にしてる女子大生がまず激レアだっつの。あっちが悠長に待ってくれるわけないじゃん、告られてもない男子高校生なんか。無理じゃね? 吹雪からガツガツいかなきゃ無理じゃね?」

「うっ!」

「ま、まあハロウィンは急すぎるかもだけどさ!」

 クラスメイトの女子も、吹雪の色恋話によほどの関心があるのか机から身を乗り出しやや裏返った声をあげる。

「クリスマスなら全然間に合うよ、吹雪くん!」

「うっ! グリズマズぅ⁉︎ そ、そんなリア充イベント敷居が高過ぎるっ」

「ヒヨんな!」

 吹雪の蛙が潰れたような奇声にも動じず、中本は箸でびしと頼りない額を指した。

「お前っ、なんっっっのために推薦受けたんだよ? クリスマス空けとくためだろ? ナオコパイセン誘うためだろ⁉︎」

「受かるためだよ⁉︎ そんな浮かれた理由で受けないって!」

「うっさい合格マウント野郎! 死ね! 時間は有限なんだよ! 受験も恋も! 今お前がそーやってうかうかしてる間にも、その憧れのパイセンは学内外の男を取っ替え引っ替えしてるんだよ! 女子大生のハードルの高さナメんな! お前もさっさとパイセンの部屋に乗り込んでいけ!」

「取っ替え引っ替え⁉︎ そ、そんなヤバい先輩を好きになった覚えはないって!」

 ちなみに、菜穂子の部屋へは初手で乗り込んでいることには触れない吹雪である。


 クラスメイトの女子は吹雪と中本を交互に見比べると、

「ねえ。その先輩って結局どんな感じの人なの? そんなにモテそうな人?」

 そうたずねてきたので、二人はほぼ同時に勢いよく答えた。

「めっちゃモテそう!」

「全然モテなさそう!」

「ええ〜どっちぃ⁉︎」

「あんなボサボサ頭はモテないわ。逆ハー無理だわ。華の女子大生JDがしていいビジュアルじゃないし、毎日同じパーカー着てそうだし。ぶっちゃけ吹雪の趣味が悪いと思ってます!」

「着てそうじゃなくて着てるんだよ、菜穂子先輩はJDじゃなくて作曲家なんだから! あれがアーティストとして完成されてるビジュアルなんだよ! あそこはただの大学じゃない、芸大なんだぞ? ああいう人が芸大じゃ一番モテるんだ!」

「じゃあさっさと告れよ馬鹿吹雪!」

 昨日に引き続き中本に脛を蹴られると、吹雪はぐぎゃあと情けない悲鳴をもらす。その唇からこぼれた、今日のおにぎりの具は昆布だった。

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