SECTION.9 恋するサクソフォニスト

合格発表

 佐倉さくら吹雪ふぶき──高校三年生。


 春過ぎて夏来にけらすばかりか、秋さえもじきに通り抜けようとしていた十月末のこと。

 SNSに未読のメッセージが送られていると吹雪が気付いたのは、昼休みに机を突き合わせ同級生たちとランチに勤しんでいた時だった。

 食べかけのおにぎり片手に画面を開けば、送り主はむかい菜穂子なおこだ。

〈おめでとう〉

 顔文字も絵文字もスタンプもなく素っ気ない五文字に、吹雪は数秒ほど口も思考も止める。下唇に付いた米粒には気付かず、やや乱暴におにぎりを机へ置けば鮭フレークがほろりと崩れても一向に構わなかった。

「えっ……えっ、えっえっ、えっえっえっ」

 慌ただしくリュックサックからクリアファイルを取り出し中身を漁ったり、えずいているのかしゃっくりなのかよく分からない奇声を上げながらスマホを操作したりしていれば、サンドイッチを頬張るポニーテールが異変を察し、

「どうした? アイドルの卒業発表でもあった?」

 と真顔で茶化してくる。

「それか結婚報告? 相手誰よ? ドラマで共演してたあいつ? それか最近コラボしてた自称アーティスト系ユーチューバーのあいつ? まーあんま落ち込むなって。推しの幸せがファンの幸せってよく言うじゃん?」

「うるさいなあ。最近推しのアイドルが結婚して瀕死だったの中本なかもとだろ。僕の推しは次もその次もナオコ・ムカイだ」

「死んでないわ、ただの致命傷だわ。つーか、何で日本人なのにファーストネームが先?」

「僕はグローバル志向なんだよ」

「いやお前、前回の模試の英語シー判定だったじゃん。ヒアリングとか一桁だったじゃん。海外進出絶望的でしょ。どうせならイーとか取れよ、半端が一番イジりにくいわ」

 理不尽な言葉の応酬を交わしながら、吹雪はようやくウェブサイトを開いた。

 クリアファイルから抜き取ったしわくちゃの紙切れには、二週間前に使った受験番号の数字三桁が書かれている。



 受験。

 秋ともなれば吹雪たち高校三年生の『大学受験』という名の戦いが、各地で次々に繰り広げられているのだ。

 一年以上も前から狙いを定めていた志望校へ、筆記用具と参考書を担いで殴り込みをかける。最大級の戦場は来年一月の『全国共通テスト』だが、一部の受験生はそれすらも待たずに単身で入学試験に臨まなければならなかった。


 吹雪もその一人──俗に言う『推薦入試』の挑戦者である。


 もっとも、吹雪が戦場へ持ち込んだのは剣でもペンでもない。

 愛知県立睦ヶ峰むつがみね芸術大学音楽学部サクソフォン科は、その名の通りサクソフォン一本でほとんどの勝負が決まると言っても過言ではなかった。

 もちろん、年を越せば合格に至るまでの試験内容はサクソフォンのみではなくなる。他の受験生たちと同じように共テを受け、専科サクソフォンの演奏審査、面接、副科ピアノ、ソルフェージュ・楽典の筆記試験と科目はさまざまだ。

 これがいわゆる『一般入試』と呼ばれる試験だが、吹雪は他よりもいち早く睦ヶ峰芸大の試験に挑むこととなる。

 それを決断したのは吹雪自身ではなく、かねてより楽器指導にあたっていたサクソフォンの師にして大先輩、貝羽かいば詠人えいとだ。

 詠人はいたって軽いノリで──あるいは直近の模試の結果があまり奮っていない様子を見て一種の予防線で──推薦入試の受験を薦めてきた。吹雪もこのときの会話を鮮明に覚えていて、

「サックス科の定員って二人とかですよね? 確か倍率は……」

「少なく見積もっても三、四倍だね。特にサックスは人気あるし五倍超えも覚悟しないと」

「うへえ」

「もし推薦での合格者が出たら、定員数はさらに絞られる。まあ推薦もよっぽど受からないけどね。大したデメリットがあるわけでもないし、まあ試しに山登ってきたら?」

 ちょっと遊んでこいくらいの気楽さを詠人の涼しげな笑顔から汲み取っていた。ちなみに睦ヶ峰芸大は高い丘の上に校舎を構えているため、文字通り山あり谷ありだ。

 推薦は早々受からないという話だったから、吹雪もさほど期待せず、何なら試験当日でさえもスポーツで言うところの練習試合、コンクールや大事なコンサート前のちょっとした肩慣らしくらいの感覚で金色のボディを吹き鳴らしてきたのである。



 吹雪は大慌てでサイトに掲載されていた合格発表の画面を開く。

 今日の正午前が発表時刻で、授業を受けている間に結果はもう出ていたのだ──どうせ落ちているとたかを括っていたけれど。

「てか言っとくけど、あたしらファンは結婚そのものじゃなくて、相手が前に熱愛出てた連ドラ女優じゃないことにキレてるわけ。女子アナって。つい先週フリー宣言した女子アナって。どっから湧いたんだよその女子アナ、スポーツ選手かお前は?」

「……」

「女優ならまあ許せるかなーって思ってたけど、女子アナはないわ。ていうか絶対デキ婚でしょ、二股してたっしょ。はーないわー、アイドルとしても男としてもないわー。もうファン引退します、卒業じゃなくて引退します。武道館初ライブとか勝手にやってくださいどうぞ」

「…………」

「ねえ聞いてる吹雪?」

 しばらくスマホを凝視したまま地蔵のように動かなかった吹雪が、ようやく真顔で中本へ向き直る。そのままゆっくり他のクラスメイトたちを見渡し、

「……………………受かった」

「は?」

 いまだ現実を受け止めきれていない顔で、そもそも受験生が武道館行ってる場合じゃないだろというツッコミを期待しているのか、ただ勝手にキレ散らかしているのか、次第に目を血張らせていく中本の火に油を注ぐ。

「睦ヶ峰芸大受かった」

「死ね」

 机の下から伸びてきた中本の足が、どすと鈍い音を立てて吹雪のすねを襲う。

 そんな中本こそ、アイドルの進退よりも第一志望がディー判定という何とも言えない模試の結果で、己の進路についていっそう考えるべきではないかと、吹雪はその場で悶え苦しみながら心中でのみ毒付いてみたのだった。


 ともあれ。

 吹雪の一世一代をかけた大勝負、大学受験戦争は、やけに味気ない幕引きとなったのである。

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