『ソロ・ド・サクソフォン』



   ♫



 出演順十七番、愛知県立城安じょうあんひがし高等学校二年──佐倉さくら吹雪ふぶき


 ピカピカに磨かれた金色のサクソフォンを抱え、ちょっと張り切って前日の夜に前髪を斜めに切り揃えた少年は、いつもよりも勇み足でステージ中央へ歩いていく。

 緊張している、と審査員や彼を知らない観客は思ったかもしれない。

 予告よりかは何列か後ろの列を陣取った部員たちは、その張り切り過ぎた表情に思わず含み笑いをする。あの表情を彼女らは何度も見てきた。合奏の練習中でも演奏会本番でも、自分のソロが回ってくる前のソワソワ感、そして、実際に回ってきた瞬間のテンションの上がりようときたら。

 まるっきり同じじゃないか、あの顔はいつもと──いや、いつも以上に。

 自分の本番を終えたばかりの中本なかもとも、舞台袖で水崎みずさき先生と並び、お調子者の絶好調に揃って肩をすくめる。

 数歩後ろから歩いてきた伴奏者は、つんと真顔でピアノ椅子の高さを調節しながら、あの背中をど突きたいと何度も衝動に駆られたのを強引に抑え込む。何もしていないうちに舞い上がるな──演奏で舞え、、、、、、と怒鳴りたい。

 譜面台へ楽譜を開き、伴奏者と顔を見合わせ、吹雪はマウスピースへ息を吹き込んだ。

 新しい音楽の種を、この小さなホールで芽吹かせるために。



 むかい菜穂子なおこ 作曲

『ソロ・ド・サクソフォン』



 エーの音で乾ききった荒野がヒビ割れ、ピュウと水が噴き上がる。

 これは四分間に凝縮されたアルトサクソフォン組曲。軽快な三拍子で、怪人二十面相も形無しにするようなハーモニーの見本市をのっけから繰り広げた。

四分音しぶおん』も駆使し、無法地帯で魔法の音のかけらを探していく。

 水に飢えた旅人たちは、一度その魔法にかかれば音の虜になってしまう。だって同じ響きは二度も鳴らない。一度聴いたら最後まで目が、耳が離せなくなるだろう。


 どこかから山びこを聴いた。甲高い獣の遠吠え。誘いをかけているのか。

 吹雪はブゥウと山を駆け登った。ここの『重音じゅうおん』は気張らないと、管楽器一本で三つも出す曲芸なんてできやしないんだ。

 頂に着いてから、あっやべ、旅の連れを置いてけぼりにしちゃったかもと焦る。

 振り向けばグランドピアノの音圧でビンタされた。てめえまた突っ走りやがったなと、今にも秋音あきねの罵声が聞こえてきそうだ。

(そうだ、練習番号ディーの三連符は次の景色に移る前の停車駅!)

 自分の足に急ブレーキをかけ、ふわりと山頂から流れる雲に着地する。吹雪の身体を『ハーフペダル』の心地よい風が運んでいく。

 のびのびと旋律を歌いながら、秋音が奏でる重厚なアルペジオにも聴き惚れる。ラウタヴァーラみたいだ、と。

 そう、ラウタヴァーラだ。菜穂子はきっと、夏のあの演奏会で吹雪がカッコいいと嬉しそうに何度も口ずさんでいたから……。

 ここだけじゃない。この楽譜には、菜穂子自身が長年積み上げてきた『好き』の中に、吹雪の『好き』も詰め込まれている。音の宝石箱。

 練習している途中で吹雪も気が付いた。まさか楽譜の中でデレていたとは。

(あっやべ。また秋音置いていったかも)

 菜穂子にうつつを抜かした吹雪が我に返った時にはやや遅く、背中を第三の目で睨みつけられているような感覚に肝を冷やす。ピアノの三本足に根っこを生やすみたいに、最低音デーを静かに落とした。



 客席で演奏を聴いていた詠人えいとは、

(ちょっとテンポ走ってるな)

 と秋音のアルペジオに眉をひそめる。あの伴奏者は気付いているのか無意識か。

 練習番号ジーのおよそ五小節をカットするよう高校生二人に進言したのは詠人だ。あらかじめ菜穂子にも話を付けておいたのも。

(ま、あの五小節は彼女らしいといえばらしかったんだけど)

 ふとプログラムに目を落とせば、いつのまにやら素っ気なかった曲のタイトルは変わっていた。誰かの入れ知恵だか菜穂子の気まぐれか、きっと『ソロ・ド・コンクール』──ソロコンでは特に馴染み深い語呂と合わせたのだ。

 彼女だってこの本番が、吹雪にとってどういう意味を持つ時間かは理解している。ゆえに、吹雪がための楽譜、吹雪がためのコンクール、吹雪がための『ソロ・ド・コンクール』──今は、、、菜穂子の時間じゃない。

 自分でもきちんと理解しているであろう菜穂子が、定期演奏会の時みたく怒り出したりはしないと詠人も読んでいたのだが。


(……待てよ。わざと走った、、、、、、?)

 楽譜の一部分を削り、時間に余裕を持たせたことで彼らのアルペジオの表現にも余裕が生まれる──はずだった。

 完全に読み違えたと詠人は菜穂子より誰よりも早く青ざめる。

 ほんの少しだけ、楽譜に記されていたテンポよりもゆとりを持って弾かせておいた、吹かせておいたはずの場所が──テンポを元に戻されている、、、、、、、、、、、、

(……っ、あのクソガキ!)

 これは菜穂子の指示ではない、と確信に至らしめる。

 吹雪が、ソリストが、プレイヤーが自ら、本番当日に「やっぱりやる、、、、、、」と──












 サクソフォンの『倍音ばいおん』が聴こえる。

 乱雑に連ねてきた不協和音の狭間でキラリと、純粋な響きが一筋の光を零す。


 愛知のはずれ、まだ来ない春。

 ピアノのアルペジオを受け継いだサクソフォンは、黙々と机に向かい鉛筆を走らせ続けている少女の、孤独で繊細な乾いた心に無数の花びらを降り注がせる。

 桜吹雪、、、

 金色のボディに溜め込まれたフラストレーションを爆発させた、刹那の音の輝きが、菜穂子には無限に思えた。


 オーキャンで己が起こした、あのパフォーマンス。

 吹雪にはずっと黙っていたけれど、本当はあんなものただの自暴自棄で、場当たりで、ただの思いつきで計画したに過ぎない破壊行為だ。

 でも、そんなパフォーマンスに、そんじょそこいらの男子高校生から改めて返事をもらった、走り抜きざまラブレターでも叩きつけられたみたいな。

ド下手くそ、、、、、

 つい呟いてしまう。

 しょせんは初心者に毛が生えたような高校生。録音を聴いた時から分かりきっていたことを、わざわざ口に出してやらなくても良いと本番前までは思っていたはずなのに。


 いや、今のは──あの音は知らない、、、、、、、、。初めて見た景色だ。

 とっくに見えていたはずの音の世界が、菜穂子の中でぐるんとひっくり返って。






   ♫



 激しい音の合戦を繰り広げた末の、ラスト三小節で、吹雪はいつも練習中でも「やらかす」癖がある。

 まさか本番でもやりやがるか! と吹雪を知る会場の誰もが脱力した。

 ピアノとユニゾンした最後の和音、ステージ上で両足がダンと離れ、宙を舞う。文字通りその場で舞い踊った、、、、、吹雪が、しまった本番でもやってしまったと着地してから頬を火照らせた。

 気恥ずかしそうにぺこと小さな礼をし、秋音も待たずにスタスタと舞台袖へ逃げ込んでいく。

 吹雪には背後から送られてくる数多の拍手なんて聞こえやしない。


 ロビーを抜けた先で、闇のオーラをまったく隠さない詠人が待ち構えていて、後から追いついてきた秋音にも挟まれ、早口でつらつらとダメ出しを喰らった。

「せ、先生っ! あの、えっと……」

 どうにか説教を中断させた吹雪が、きょろきょろと菜穂子の姿を探す。

「菜穂子先輩は……? え、あれっ?」

帰っちゃったよ、、、、、、、

 楽器を持ったままガックンと膝から崩れ落ちていく吹雪の絶望した顔に、部員たちも面白がってケラケラ笑い転げている。



 詠人は、自分が目撃したあの瞬間についてだけはだんまりを決め込んだ。

 感想のひとつくらい言ってあげてと彼女を止めたかったのは彼も山々だが、その目を、頬を、顔を見てしまっては、どうにも止めるに止められなかったのだ。

 悔しいなあ、と小さく舌打ちする。

 あの女、やっぱりチョロい。チョロ過ぎる。何あっさり落ちてるんだ。

 吹雪にも負けず劣らず、なんてあからさまで分かりやすく、単純な女であったか。


 ──まさか、たったの一秒も我慢できないとは。

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