吹雪のサックス
「
「へえ、三年生か」
菜穂子が何か答えるより早く、
「じゃあ進学先はもう決まったのかな? それとも就職?」
「あっいえ、私は今からなんです。共テはもう終わりましたけど。来月に第一志望の入試があるので、その勉強の息抜きにもなるかなって……ちょっとした現実逃避も兼ねてます。えへへ」
「なるほどね。良いじゃんちょっとくらい。じゃあ、国公立も結構ガチめに狙ってるってこと?」
「はい、そうなんです。……あの」
ここまで会話のキャッチボールが続くと、女子生徒は途端に口を重くする。菜穂子みたく言葉が出てこないというよりも、それを二人に話して良いものかどうかを迷っている風であった。
「私の第一志望、教育大音楽科なんです」
「へえ」詠人は顔色ひとつ変えず相槌を打っている。「愛知の? すぐそこにある」
「はい。実は、志望校を
「そうなんだ。変えたってことは、他に何か別の大学を考えてたの? 学部とか学科とか」
「はい。私……私も、
「……ああ、へえ。じゃあ、もしかして
「それは〜どうですかね、えへへ。もちろん
「そっか。ふうん……それで教育学部にしたんだ?」
「はい。学校の先生とか、人に教える仕事もアリかなって……まあこれも半分ノリですけど」
「良いじゃん別に。進路なんてだいたいノリで決まるものだよ」
「そうですよね。……でも」女子生徒は一瞬言い淀む。
「その、同じノリでも、吹雪くんと私じゃ全然違うかなとは、ちょっとだけ思ったりして」
「うん? 何が? あいつも割とノリでサックス吹いてるよ」
「ノリであんなに吹けるようになっちゃったから、違うなあって思ったんですよ。実力っていうか……才能っていうんですかね、ああいうのを。だって、楽器始めて一年も経ってないんですよ? ピアノは前習ってたって言っても、私は部活で始めたサックスはそこまで上達しなかったですし……きっと、サックスが一番吹雪くんに合ってたんですね。彼は自分が持っていた一番の才能を見つけたんですよ。最初から、神様にもらってたプレゼントは、ピアノじゃなくてサックスの才能だったんです」
「さあどうだろうね。たまたまじゃない? あいつだって別に
「でも、音大行ったりプロになるような人って、きっと吹雪くんみたいな子だと思うんです。ノリでも偶然でも、私みたいにずっと音楽続けてる人が、吹雪くんみたいな子にちょっとコツを掴まれただけですぐ追い抜かれちゃう。そういうものですよね、音楽の世界って。私、彼を見てやっと気が付いたんです」
詠人が観察している限り、女子生徒は終始さっぱりした表情で語っていて、虚勢を張っているわけでも気持ちを偽っているわけでも無さそうに見えた。
「だから、私は音大進学は辞めました。ソロコンで吹雪くんの伴奏してたら、なんとなく寝惚けてた頭が冷えたと言いますか、私って本当に音大が良いのかな、そこまでしてピアニストになりたいのかな、吹雪くんや吹雪くんみたいな子と、本当にこれからもずっと同じステージに立ちたいのかなって、やっと真剣に考えられるようになったんです」
──同じステージ。
果てしなく続いた音楽の丘を、ともに歩みともに研鑽し、ともにまだ見ぬ新しい音の世界を追い求めていく人生。
「そっか。そういう考え方もアリだよね。音楽科ならピアノも続けられるじゃん」
「そうですよね。まあ、これもちゃんと受かればの話なんですけど……えへへ」
「教育大なら、学部を卒業してから院試は
「はい。まずは今の第一志望を合格できるように頑張ります」
後半の部の開始を知らせるアナウンスが流れ始め、女子生徒は慌てて辞儀をした。審査員席にも続々と大人たちが集まってくる。
「ご、ごめんなさい! 私のどうでも良い話ばっかり……」
「いやいや。すごく大事な話だったよ、
「今日の吹雪くんの演奏、すごく楽しみにしてます。向さんの曲も……あの、向さん。吹雪くんのこと、どうかよろしくお願いします。彼、すごく素直で真面目で優しくて、サックス以外も、何をやらせてもなんか、よく分からないけど面白い子で……ぶっちゃけ、
言いたいだけ言い終えた女子生徒は、菜穂子の返事も聞かずに足早で客席の前の方へ向かっていく。そこでは、かつて同じ音楽を奏でてきた仲間たちが女子生徒を温かく迎え入れていた。
しばらく詠人と菜穂子の間で沈黙が流れたが、
「……重いわ」
菜穂子がようやく女子生徒への返事を絞り出す。
「知ってるわ、『
「そこまで言わなくても」
ぽつりぽつりと零した本音に、ああやっと聞き出せた、と詠人は目尻を下げる。
ひたすら楽譜ばかり書いてきた人生。狭い世界で、東京とも欧米とも程遠い小さな街で、自分が書いた音符しか見てこなかった音の虫。
天才──それが、まだ出会って一年も満たない吹雪に対する菜穂子の暫定評価だ。
今となっては
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