音楽家たちの人生
♫
ソロコンはアンコンと同じ日程、同じ会場で、大ホール・中ホールなど複数のホールを使いながら並行して開かれている。楽器置き場にも、同じく出番を控えた
「あ〜残念だな〜。客席で聴きたかったのに」
合流してきた
「まさか出番が前後するとはねえ。あたしは吹雪の前座かっての」
「卑屈かよ。中本も頑張れって」
「お二人とも早めの時間で良かったじゃないですかあ。うちらも客席で応援しますね! きっちり最前列、陣取っときますんで」
「や……それは普通にプレッシャーなんだけど……」
後輩たちの声援も熱い。自分たちだってアンコンの出番はまだのはずなのに。
その時、一年が急に黄色い悲鳴を上げた。吹雪のすぐ耳元で発するものだから頭がぐわんぐわんと揺さぶられる。
「先輩、吹雪先輩っ! あの人、写真の人! やっっっば、生のがエロいんだけど⁉︎」
まさか、と吹雪も勢い余って振り返る。
田舎町には眩し過ぎる光のオーラを全身から放ち、颯爽と現れロビーで中高生の脚光を浴びたのは、吹雪にはおなじみサクソフォン・スターだ。
(まっマジで来やがった! ラインじゃ『行けたら行く』くらいのノリだったのに……!)
後輩たちを遥かに凌駕する、プレッシャーの権化。
ふいと視線を向けられると、吹雪はサクソフォン両手に背筋をピンと伸ばした。しかし
挙げ句の果てにはソファから立ちかけた
(ちくしょう……やっぱりあの人も菜穂子先輩を狙ってるのか? 良いだろ、先生は誰にでもモテるんだから!)
サクソフォン・スターは音楽の師に留まることを知らず。
最強の恋敵に目くじら立てながら、吹雪は
前半の部が終わり昼休みに突入し、ロビーがいっそう人で溢れかえったのを避けるように菜穂子は中ホール客席へ乗り込む。
だがどんなに雲隠れしたくても、なぜか後ろをのこのこと付いてくる詠人のせいで逆に目立っている節があり、周囲の視線を菜穂子は鬱陶しがった。
ごく当たり前のように隣の席へ座った詠人に痺れを切らす。
「あの、どっか行ってくれません? 気が散るんですが」
「どうして? まだ本番始まってないよ。良いでしょ、お互い他に知り合いいないだろうし」
間近で微笑んでくる詠人から、それ以上は有無も言わせないという闇のオーラを感じ、菜穂子は仕方なくステージへ向き直った。
「吹雪に聞いてないですよ、あなたまで来るなんて。まだ地区大会でしょ」
「コンクールはいつ終わるか分からない本番だからね。行ける時に行っておかないと」
「どっかで落ちるかもって? ふーん、
「万が一の話だよ。菜穂子ちゃん、そんなに吹雪がお気に入りなんだ?」
そういう意味ではない、とおどける詠人を菜穂子は睨み上げた。なんのためにお前と吹雪を引き合わせたと思っているのか。真面目にレッスンしてなかったら承知しないと。
詠人はそんな菜穂子の訴えを、直接言葉にされずとも汲み取ったらしい。
「……仮に落ちても、俺が責任取る道理は無いけど」
菜穂子の長い前髪をさらと指ですくう。
「触らないでください」
「俺もあいつには
指を払い除けた菜穂子はうつむき、何かを考え込むように黙ってしまう。詠人もプログラムをパラパラとめくり「お、吹雪の前も同じ学校の子だ。何やるんだろ……え、ヒンデミット? へー攻めてるねえ」などと独り言をぶつくさ呟いていて、しばらく二人の会話は途絶えた。
次第にチラホラと客が集まりだし、吹雪の後輩たちからも詠人が指を差され、勇気を出して話しかけてくる生徒も居た中、先におずおずと口火を切ったのは菜穂子のほうだった。
「……あの、貝羽さんは」
「詠人で良いって」
「
詠人は菜穂子を好奇の目で見下ろした。いつまでもよそよそしく、東京で初めて会った時よりも、日を追うごとにしおらしくなっていく菜穂子に。
「ふうん。菜穂子ちゃん的には、俺の実力ってそんなもん?」
「なんですか、その当てつけみたいな返しは? そんなもんというか、東京でも普通にイケそうというポジティブな意味であって」
「分かってるよ。で、今のはどういう意図があっての質問? そんなに俺を東京へ追い出したい?」
「いや、そういう意味でも無くて」
「あっそう。じゃ、
確信めいた言い方に、やっぱりこの人は苦手だ、と菜穂子は舌打ちした。
顔が良くて女にモテて、楽器が上手いぶんなら菜穂子にとって大した害は無い。
この、相手のすべてを見透かしたような詠人の態度が──ハッタリでもまぐれでもなく、本当に他人の本音を透視する能力でも備わっているかのような物言いに、菜穂子はいつも気圧されてしまう。
「そんなに面白い理由じゃないよ。大学繋がりというか成り行きみたいなもので……まあ強いて言えば、愛知って音楽の
さすがに「ここに居たほうがモテるから」とは答えない。あれはあれで真意だけれども。
「はあ。そうですか」
「菜穂子ちゃんは東京行かないの?」
「……私、は……」
当然とも言うべき返しを受け、菜穂子は気まずそうに口どもる。
ただ詠人はそんな反応もあらかた読んでいたようで、さほど重くならない口振りのまま自ら会話を
「怖いよねえ東京。ビルは高いし、人多いし、上手いやつも多いけど変なやつもたくさん居てさ。新しい環境に飛び込むのも、色々刺激があってそこそこ楽しいけどね。気が進まないのに無理して行く必要はないと思うよ、
「いえ、別に」
「あのさ菜穂子ちゃん。人ってね、自分にとって本当に必要なことだと思えば、なんでもするしどこへでも行くし、誰とでも会って話せるものだよ。幼虫だって誰に何を言われずとも、勝手にさなぎ作って脱皮して、羽化して外へ飛んでいくだろう?」
菜穂子は少しだけ不満げに頬へ力を込めた。詠人といい
「だから、きみにはまだ早いんじゃない? 今はまだそういう時期じゃないんだよ」
詠人はプログラムを閉じた。よく見れば詠人は鞄らしき鞄を持っておらず、名古屋からおっとり刀で駆けつけた割にはやたらと身軽だ。
彼くらい気楽でいられたら──あるいは、彼みたいに気楽さを
♫
馴れ馴れしく触れられた前髪をいじり、自分も試しに染めてみようかと血迷い始めたあたりで、
「まあ、それと演奏の出来不出来は別問題だけどね?」
詠人はまたも女を殺す、魔性の笑みを菜穂子へ振りまいた。
「そんなに下手だったんだ、定演の弦楽四重奏? かわいそうに。俺なら菜穂子ちゃんを泣かせたりしないけど」
ケーキスポンジにジャムを混ぜられるだけ混ぜ込んだたような甘ったるい声で、菜穂子はむしろげんなりした表情を見せる。
「誰に聞いたんですか、そんなの。
菜穂子は露骨に顔を背ける。
「貝羽さんには関係ないでしょ、弦カルなんだから。私、弦楽器好きなんですよ」
「知ってるよ。一番書きたいのはオーケストラ、って前に言ってたものね。でも、吹雪に楽譜寄越す暇があるなら俺に書いて欲しかったなあ。ていうか書いてよ、次こそもっと本気のやつ。俺のほうが吹雪なんかよりずっと上手に吹くのに」
「下手じゃなかったですよ別に。
素直で混じり気がない菜穂子の言葉に、詠人はくすりと鼻で面白がる。
「なかなか本気を出してくれない、つまり自分への『愛』が足りてないって?」
「そこまでは言ってねえよロマンチスト。………拡大解釈し過ぎでしょ」
「それが下手って言うんだよ。プロならいつでも本気を出すか、嘘でも本気だと相手に思わせなくっちゃ。それが出来なきゃてんで話にならない」
女を口説くためのアドバイスくさい台詞で、菜穂子は自分のほうこそ話にならないと呆れ果てた。スマホを取り出し、電車がいよいよ止まってはいやしないか調べ始める。
「それ、音楽の話ですか? 変な話題とごっちゃにしないで欲しいんですけど」
「同じだよ菜穂子ちゃん。音楽も、きみが言う変な話題も、結果を出す原理としてはまったく同じさ」
その時、二人の近くで立ち止まるローファー靴があった。儚げな声で、
「あのう……」
と
菜穂子が顔を上げれば、またも
相変わらず詠人はどこへ行ってもモテるなと、菜穂子は意味もなく他人のフリをする。
「人違いでしたらごめんなさい。もしかして……
「えっ⁉︎ あっ、あー……まあええ、はい……」
完全に油断しきっていた菜穂子が飛び起き、素っ頓狂な声で返事する。女子生徒も礼儀正しそうだっただけに、菜穂子も変にかしこまった口調で、
「えー、ど、どちら様でしょう? あー、ええと、私に何か御用で……?」
とか高校生相手に萎縮しきってしまい、隣で詠人が吹き出す声に赤面した。
今日の菜穂子は本番がとことん始まる前から災難続きだ。実は詠人と会う前も、ロビーで
「ご休憩中に突然すみません。私、去年のソロコンで吹雪くんの伴奏を務めました、
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