インスピレーションの雨

(なのに、どうしていつまでも満たされないんだろう)

 菜穂子なおこは遠くの壁をぼうっと眺めた。壁をいくつも抜けた先に、高層ビルをいくつも超えていった先に際限ない夜空が広がっているんだろうか。

 五線紙上の狭い世界に閉じこもったまま、新しい景色が見えるはずも、新しい音楽が聴こえてくるはずもない。つばさに言われなくたって分かってる。自分が一番分かっているはずなのに。

(あー……最近、書いてないなあ、、、、、、、

 新しい楽譜ではなく、新しい音を書いていない。

 どんなに泣こうが叫ぼうが、菜穂子の頭の中では長らくインスピレーションの雨が降っておらず、脳の髄まで乾ききっていて。



   ♫



 名古屋のスクランブル交差点にはまだ喧騒が残っている。

 高層ビルの巨大スクリーンで「明日も名古屋は快晴でしょう。先月に引き続き、十月も雨が降らない一日が続いていくと予想され……」という天気予報士の声が聞こえてくる。

 吹雪ふぶきは人をかき分け、楽器の重さで息を切らし、つい数時間前に入ったカラオケ店へ無我夢中で駆け込んだ。

『えっ? 今なんて言ったの、吹雪?』

 母親の上擦った声がする。

「だから、メシは名古屋で食べるから。明日はちゃんと自分で学校行くし」

『ご飯は別に良いわよ。そうじゃなくて、えっ? 帰らないって……いったいどういうことよ⁉︎』

 そりゃ怒り出して当然か、と吹雪はカラオケボックスの中でバツが悪い顔を浮かべた。

 門限が設けられていた時期もあったけれど、そうでなくとも今まで一度だって、丸一日家を空けたことは無かったのだ。

 今日はうちに帰らないなどと言えば母親が困惑するのも無理はなく、

『ねえ、今どこに居るの? まだ名古屋? 誰かと遊んでるの? 吹雪、今から父さんが車で迎えに行くって──』

「ごめん! 明日ちゃんと説明するからっ!」

 質問責めの途中で吹雪は強引に話を切り上げた。スマホの電源も落としてしまう。

 自分だって、こんな不良じみた行いを望んでやっているわけじゃない。明日も普通に授業があるし、徹夜も一夜漬けも、そんな練習に大した意味なんかないと分かっていたけれど。


 ──でも、今日だけは止められないんだ。

 こんな衝動は初めてだ。サクソフォンを吹かずして押さえきれる心の荒波ではないと、本能が叫んでいる。

 誰かの演奏を聴いて、こんなに悔しい思いをしたのも初めてだ。自分じゃなく他人の演奏で。

(菜穂子先輩……めっちゃ悔しがってた)

 せっかくの定期演奏会、あんなにたくさんのお客さんの前で。きっと菜穂子にとっても大事な本番だったはずだ。受験ともコンクールとも遜色なく。

 人目を避けて翼と交わしていた会話も、吹雪の頭の中で何度もチラついて離れない。

 本当なら、吹雪が思っている以上にずっと遠い背中になるはずだった人だ。いつこの街から居なくなってもおかしくない、ある日急に東京へ行ってしまっても不思議じゃないような。

 ──でも、今はここにいる。

 菜穂子がいて、菜穂子の楽譜があって、ソロコンという本番が目の前にある。

 この本番が最初で最後の、吹雪が菜穂子と同じステージに立てる時間かもしれない。



(『アルトサクソフォンとピアノのための』って……ああそっか。これって、『独奏ソロ』じゃなくて『二重奏デュオ』のつもりで書いてるんだ)

 楽譜に触れ、音符をなぞる。

 オーキャンで彼女がピアノと会話していたみたいに、密集した和音が重なり合って、二つの楽器が共鳴し一つの新たな響きを産み落とす。

 今回も、菜穂子はピアノを伴奏するための楽器と思って楽譜を書いていないだろう。たとえ控えている本番がソリストがためのコンクールであろうと。とことん妥協できない人なんだな先輩は、と吹雪は苦笑いする。秋音がいつも通り、あるいはいつも以上に、黙々と音楽室かどこかで練習に励んでくれているのを願うばかりだ。

(適当に音を並べてるだけ? 実験? お試し? ……ううん、違うよ。先輩なりに替えが利かない理由があるはずなんだ)

 マウスピースをくわえ、がむしゃらに金色のボディを奮わせる。

 メシアンのエチュードも、なんでわざわざリズム崩して難しくするんだと聴いていて顔をしかめた。オンド・マルトノが出てくるという『トゥーランガリラ交響曲』だって、後々改めて聴いてみても、オーケストラだからと人数の暴力で音を増やしてるだけじゃないか、とか失礼なことを考えちゃったりして。

(もしかして先輩、メシアン好きなのかな。……今度おすすめ聞いてみよ)

 指を懸命に動かしては詰まってを繰り返し、まだまだ全然譜読みもなっていないと、己の力不足に嫌悪する。

 楽譜通りって命を削るくらいに大変だ。ちょっとくらい音替えてサボっても良いじゃん、と甘えたくなる気持ちも痛いほど分かるけれど。


(や。楽譜通り、だけ、、じゃダメなんだ)

 ラウタヴァーラの協奏曲を気持ちよさそうに弾きこなしていたピアニストみたく、ベリオでも普段とさほど変わらぬ涼しげな顔で吹きこなせるサクソフォニストみたく。

 紙切れに封じ込まれていた音符が外へ解き放たれた時、何か新しい幻想上の生き物が息吹いぶき、目覚めてステージの上でよちよち歩きを始めるような体験。

 そんな体験を自分が作ってみたいと、吹雪は大真面目に空想した。いつか菜穂子にも、新種の怪物か、マイケルもびっくりして気絶するような、もんのすごいお化けを見せてあげたい。



   ♫



(あー……やっぱり先輩の前でムーンウォークしよっかな)

 日付が変わった頃、吹雪は休まず吹き続け酸素が回らなくなってきた頭で、ものすごくしょうもない犯行を目論んだ。


 僕はあなたが好きなんです、って彼女へ無性に伝えたくなった。

 でも気持ちだけじゃ、言葉だけじゃきっとダメで足りなくて。ラブレターをしたためたところで、あの生粋の音の虫は満足しないだろう。

 ──今は、とにかく愛するしかない。

 彼女がインスピレーションの雨を降らせ続けている限り、自ら音の世界を描き続け、半永久的に愛して止まない音楽を、吹雪が全力で愛するしか。



 翌朝、半日ぶりにスマホの電源を入れると、母親の着信件数は想像していたよりかは少なめだった。これは帰った後の説教が長いパターンだ、と吹雪は深いため息を吐く。

 それに混じって、詠人えいとからも夜のうちにSNSで演奏会の感想を聞かれていたと気付いた。始発の電車に揺られながら文章を打つ。

〈ヴィオラのヒンデミットが面白かったです。グラズノフは聴きそびれました。ごめんなさい〉

 菜穂子の曲について、あるいは、菜穂子が細い通路で感情を爆発させていたその瞬間については、詠人に何か感想を述べるつもりはない。誰にでもモテるイケメンには教えてやるもんか、と舌を出す。

 あれは翼と、自分だけが知っていれば良い菜穂子の顔だ。

 なかなか追いつけない背中だけれど、今はまだ初恋の、憧れの存在というポジションに収まってしまっているけれど。

 あの夜でほんの少し、吹雪は菜穂子に親しみが湧いていた。一方的に心の距離が縮まった、とも思い上がってみる。

 天才だとか芸術肌だとか、才能があるとか、それなしには生きられないとか。

 菜穂子という人間を表現する言葉は、探せば月並みに色々見つかるだろうけれど。


(なあんだ。先輩も踊れる、、、じゃん)

 何か思い通りにならないことがあるたびに踊り出してしまう、自分みたいに。

 菜穂子がまた人前でペンチを振りかざし、ピアノと一緒に踊り狂わなくても済むようにしてあげたいな──と、あれから吹雪は本当に、一晩中サクソフォンを吹き続けていたのである。

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