菜穂子の病気
♫
──バチィイン、と。
音楽は確かに正常に鳴っていた。ステージ上では慌ただしく指を動かし弓を動かし、喧騒を四人で表現しているのだと目で見れば伝わった。
およそ十五分間のパフォーマンスが、吹雪には無限に思えた。
今、吹雪が聴いているのは音楽では無い。吹雪が知っている、吹雪が聴きたいと恋願っていた音楽とは大きくかけ離れていた。
聴きたくなかった。知りたくなかった。
こんな演奏、こんな騒音、こんな残響、こんな無常──こんな虚無。
あの場所で演奏されているのは
楽譜通りに、なんの間違いもなく彼らは演奏しているのかもしれないけれど。
演奏が終われば、客席にいた皆がいつものように拍手で演奏を称えた。どこかから「ブラボー」と耳鳴りもする。菜穂子もステージに呼ばれ、登壇し、無表情でぺこりと頭を下げた。
顔を上げれば虚ろな目。仏頂面ではなく無表情──
吹雪は絶対に拍手なんか送らなかった。
だって、あれは絶対に違う。
ただの一秒で恋に落とされた、惚れ込んだ、夢中になった──吹雪が好きな、菜穂子の音楽では無い。
プログラム前半が終わり、休憩のアナウンスがホール中に響き渡る。
呆然としていた吹雪が次に一階席へ視線を移せば、その席にボサボサ頭はもう居ない。
♫
「……オ。ナオ。おいナオ!」
休憩時間と同時に客席を飛び出した菜穂子を、隣に座っていた
「どこ行くんだ、ナオ」
「トイレ」
「嘘つけ!」
帰ろうとしているのは一目瞭然だ。フォーマルな格好した菜穂子はいつものストリート系ブランドのリュックサックを持っていた。
脱いでいたアーキ
「まだ前半だろ。最後まで聴いてけよ」
「勝手に聴けば? お前が聴きたいのはグラズノフだろ」
「ナオも聴いてけよ、感想教えろってあいつに頼まれてただろお前! つか、まずは楽屋だろ。弦カルのみんなにあいさつしていけよ。教授だって聴きに来てるぞ」
「必要ない。どうせあっちも次の出番ある……ていうか、私とはもう会いたくないでしょ!」
腕を強引に振り解いた菜穂子が、そのまま癇癪を起こし始める姿は早くも周りの客からの注目を集めつつあった。翼は舌打ちする。
「……っ、ちょっと来い!」
翼は強引に菜穂子を連れ出した。受付を抜け、ホールを出て、あたりに誰もうろついていない細い通路まで引っ張っていく。
これは後半一曲目の弦楽アンサンブルは聴き逃したなと早くも諦めつつ、翼は地べたで膝を抱えうずくまった菜穂子を見下ろす。
「お前が思ってるほど悪くないって。いつも派手だからな、ナオの曲。お客さんの反応も作曲科の曲にしちゃ、じゅうぶん──」
「どうでも良い。客の反応なんて知るか。私がダメだっつってんの!」
「どうでも良くねえ!」
翼も屈み込み、菜穂子の震えた両肩をがしりと抱く。
「いい加減割り切れって。そういうもんじゃねえんだよ、コンサートってのは。それを聴きに来る客が居て初めて成り立つ商売だ。演奏家が居て初めて形になるんだよ、俺たちの音楽は! お前が気に入らなかった部分は、次の本番で直せば良い──」
「次なんてあるもんか!」
菜穂子の叫び声は痛い。通路とロビーを隔てた分厚い壁を貫通してしまいそうだ。駄々をこねる子どもみたいに、いやいやと小刻みに何度も首を振る。
「あいつら、
「……ナオ」
「中間部も、本当は
それは、誰も知らない曲であるがゆえに、客席にいた誰もが知り得なかった変化。間違えたのではなく、
演奏自体は成功している。決して、誰かが何か大きな失敗を犯したわけでは無い。
だが、
「……演奏家が納得できるような楽譜を書くのも、俺ら作曲家の仕事だろ」
舞台裏で起きていた不具合を悟った翼は、菜穂子から手を離し深く息を吸い込んだ。
「実際、ムズいよお前の曲。ただ難しいんじゃなくて複雑っていうか、音出すまでの段取りがいくらなんでも多過ぎるって」
一年余りの付き合いで見てきた菜穂子の楽譜を思い返しながら、
「特殊奏法もやたら盛り込んでるし。こだわってんのは楽譜見りゃ伝わるし、定演受かるくらいだから良い音出るのは教授たちも分かりきってる」
じわじわと、菜穂子の楽譜が抱えた問題に手を伸ばすように言葉を連ねていく。
「にしたって、もうちっと簡略化できる箇所もあるだろ。そろそろ学習しろよ、
「うるさいっ!」
喚き散らしながらも、菜穂子から反論の言葉は出ない。自分でもまったく理解していないわけでは無いのだ。言われなくても分かってると言いたげな、ひどく苦しそうな声で。
だが、翼も自分ではそう苦言を呈しておきながら、菜穂子くらいの複雑な楽譜を書く作曲家はこの世に五万と存在しているとも分かっていた。菜穂子も当然分かっているから、いつまでも自分の主義を曲げないし、貫いてきた音楽性を維持しようと躍起になっているのだ。
それでも、もう少し演奏家に歩み寄るだけの、妥協を許せるだけの気持ちが彼女の中にあれば、他にいくらでも手段は残っていたのだが。
あるいは、菜穂子が今書いているそれを弾きこなせるだけの演奏家が──それを弾きたいと心底から思ってくれるような演奏家が、彼女のすぐ近くに居てくれたなら。
♫
菜穂子は翼から見て、あまりに不器用な人間だ。
「……なあ、ナオ」
彼女が本当に取るべきだった選択を、楽譜より何よりも変えるべきだったものを、いつまでも選べずに、自分の音楽に溺れ窒息しかかっている過程を近くで見ているのは、翼にとってもあまりに罪深く小さからぬ苦行だった。
「東京芸大行けよ。お前なら行けんだろ、今からでも」
空気の流れが変わった。菜穂子が呼吸を止めたような気がする。
「俺も卒業したら東京で就職するつもりだし。アートもエンタメも、国内じゃすべては東京が主戦場。分かってんだろ? あっちなら、お前が求めているレベルの演奏家だっていくらでも……まあさ、
本音というか、自分自身の都合も若干含まれているものの、翼は本気で菜穂子の身を案じていた。
「なんで愛知にこだわる? お前、東京芸大、受けてもないらしいな。一回試しに受けてみろって。推薦は……出願が間に合わないか。まあ、共テくらい
「嫌」
はっきりと。菜穂子は涙声で、はっきりと翼の提案を拒んだ。
菜穂子が何にこだわり続けているのかは明白だった。地元にとびきり愛着があるわけでも、首席卒業を狙っているわけでもないことは。
これは一種の病気だ。机に向かって楽譜を書き続けるくらいでしか、自分の音楽としかまともに付き合ってこなかった菜穂子の、楽譜よりも直らない、直しようがない古傷。
「嫌……嫌だ。絶対嫌!」
「何をそんなビビってんだ? 東京くらい行ったことあるだろ? コンクールで何度も行ってるだろ? 実家出たくないガキんちょみたいなこと言ってんなよ、ってか今は寮だろ!」
「あーもーうるっさい! うるっさいわこのチャラ男が! このクソ陽キャ! 誰もがお前みたくホイホイ東京行ったり彼女作ったり、友達百人できるわけじゃないんだわ! 寄んな! 触んな! 黙れっこの……パリピ‼︎」
「いや知らねえよ! 俺そんなにパリピじゃねえって!
「うるさいっ! コンクールだって別に私が出たくて出てるわけじゃ無いし!
「いや誰だよ花村先生って? 知らねえし」
菜穂子の底なき心の闇に、翼は壁に寄りかかり頭を押さえる。
ダメだこの同級生。話にならない。楽譜がどうこう以前の問題だ。彼女は人として女として、決定的にどこかボタンが掛け違っていた。
(あーあ……手に負えねえ……)
翼は拗ねて完全に心を封印した菜穂子から、さりげなく受付がある方角へ視線を移す。
ふっ、と黒い影が揺らめいたような気がしたが、どうせロビーにもここにも、他には誰も居ないとさほど気に留めなかった。
プログラム後半一曲目、弦楽アンサンブルの出番はとっくに始まっていた。
菜穂子はしばらく屈んだまま喚いていたが、やがてピタリと
やっと落ち着いたかと翼が顔を覗きに行けば、菜穂子は泣き腫らした目でぼそりと呟いた。
「……もう辞めようかな」
「は? 何を」
「大学辞めようかな。もういいや。別に、プロになりたくて楽譜書いてるわけじゃ無いし」
翼は一瞬だけ思考を止めたが、陽キャのかけらも感じないひどく冷たい声で言い放つ。
「無いっしょ、それだけは。マジで辞められんの? 音楽ぐらいしか友達いないんだろ?」
菜穂子は何も答えなかったが、自棄を起こした心の隅っこで、もう一人の自分が囁きかけた。
──友達なんかじゃない。
私はただ、音楽を続けていただけの、からっぽな人間で。
寝て起きて食べてを繰り返しながら楽譜を書いていただけの。
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