定期演奏会
♫
十月上旬。
帰りのホームルームが終わると同時に高校を飛び出したは良いものの、演奏会の開演までは思っていたよりも時間が空いてしまった。
暇潰しに入ったカラオケボックスで
(
マウスピースを咥えたままニヤけてしまう。
冒頭は、
ちゃんと覚えていてくれたのか、と少し得意げになる。他に譜読みしなければいけない箇所は山ほどあるのに、ついつい何度でも繰り返し吹きたくなるフレーズだ。
吹雪がカラオケ店を出ると、夜へ移ろいゆく名古屋は肌寒くなっていた。コートも着てくれば良かったかなと、部屋のクローゼットに思い馳せながらスクランブル交差点を渡る。
「ご来場ありがとうございます。こちら、本日のプログラムになります」
スーツ姿の女性スタッフが受付でていねいな対応をしている。
あいち芸術劇場はプロのオーケストラも定期公演に使っている県内最大級のホールで、どこか緊張感漂う整然とした雰囲気は、これぞクラシック音楽の正統派コンサートといった様子だ。
おまけに、満席御礼でロビーも多くの人で賑わっていた。吹雪と同じく制服姿の男女もところどころで見かける。もしかすれば彼らも、
(ま、これなら菜穂子先輩にも見つからないよな)
老若男女が右往左往している光景を、吹雪がつぶさに観察する。
すると、ロビーで複数人に囲まれながら笑顔で話している人物と偶然目が合ってしまう。その茶髪には見覚えがあった。吹雪は反射的に目を逸らす。
「あれ? お前〜……ナオの後輩くんだよな?」
「あーやっぱそうだ! よっ久しぶり。お前
「ご、ご無沙汰してます」
「ナオとはまだ会ってないだろ? あいつ、リハ終わってもずっと客席で座り込んでてさ……よし、いっぺんちょっかいかけてくるか! お前も来いよ」
うつむいている吹雪の腕を掴み、ぐいぐいと客席へ連れていこうとする翼。吹雪は
「お? どうした?」
「すっすみません! 実は、僕、菜穂子先輩には行くの黙ってて……ええと、その……」
なんて言い訳をすれば良いか分からず、しどろもどろになってしまう。
翼は初めは不思議そうに見下ろしてくるが、何かを悟ったのか、深くは事情を聞いてこなかった。
「ま、いーや。後輩くん、ナオの曲も良いけど、最後のサックスまでちゃんと聴いてってな?」
「もちろんです! 僕もグラズノフ、生で聴いてみたくて」
気を紛らわせるように笑顔を作る吹雪。
菜穂子の曲が演奏されるのはプログラム前半のラストだ。対するサクソフォンは後半ラスト、つまり大トリだった。今年は四年生の出演者が多い中、二年生はこの二人だけである。
「そーかそーか。ま、俺も
吹雪の答えに満足げな翼が、両腕を組みうんうんとわざとらしく頷く。
「ようし、本番終わったら後で俺が会わせてやろう。あいつにグラズノフの感想聴かせてやってよ」
「は、はい! え、良いんですか?」
「良いに決まってるじゃん。だって俺の彼女だし」
「あ、ありがとうござい……ま……えっ? カノジョ?」
「一発で受かれよ後輩くん?
翼は言いたいことを言い終えるなり吹雪の元を離れていく。
(あのチャラそうな先輩……彼女いたんだ)
さっきの輪に再合流していく翼を見届けた吹雪は、喜んでいいのやら誰にでも馴れ馴れしいことにモヤれば良いのやら感情が整理できず、客席へ向かう間に頑張って無心を取り繕った。
席はあえて二階を選ぶ。
菜穂子に見付かりたくないのもあるが、今日のプログラムは弦楽アンサンブルという中編成もあり、できればステージ全体が見える場所を陣取りたかったのだ。
(あ、先輩いた)
着席し上から一階席を眺めれば、自ずと菜穂子の黒髪も見付け出せた。ちょうど隣の席へ翼が寄ってきたのも目撃する。
大学にとっても重要な行事で、これほど規模の大きな演奏会で、これほど多くの観客が集まっている。普段は身なりに頓着しない菜穂子も、今日は黒い格好をしていて、ボサボサ具合が心なしかすっきり纏っていた。
(今日はステージに上がり込んで、ペンチ振り回したり暴れたりしないよな……)
オーキャンの二の舞を心配しつつ、吹雪はどこか、菜穂子はそう何度も公衆の面前で暴れるような人ではないんじゃないかとも謎の信頼を抱いていた。
確証があるわけじゃない。ただ、いつでも無茶苦茶な言動をしているようで、その実、人並みの良識も礼節もちゃんと備えた先輩だというのが、幾度もの逢瀬を重ねた吹雪の結論だ。
詠人は菜穂子を意固地だと評していたけれど、確かに頑固な部分はあるけれど、そういう立ち振る舞いは彼女の素直さ、正直さの裏返しだとも吹雪はだんだん感じるようになっていた。
ただ菜穂子は、自分が持つ音楽性に、人として抱いた感性に正直なだけだ。
嘘を吐くのが苦手だ。だから、必要な言葉しか声に出さない。
感情を偽るのが下手だ。だから、ずっと仏頂面をして顔に出さない。
思ったことがすぐに声に出てしまう、感情が昂ぶれば全身で表現し、ついぞ踊り出してしまう吹雪とは、ほんのちょっとだけ似ている──と本人にでも口を滑らそうものなら「お前と一緒にするな馬鹿」と睨まれてしまうだろうけれど。
自分とほんのちょっと似ているから、菜穂子が今、何を考えているのか、吹雪も少しずつ推し量れるようになっていたのかもしれない。
開演を知らせるブザー音とアナウンス。
(……あれ? なん、で)
照明落とされた客席が、急激に冷え込んでいくのを吹雪は感じた。
いや、違う。温度が下がってきたのは自分の心だ。
あんなに楽しみにしていた演奏会だったのに、菜穂子の弦楽四重奏を聴きにきたのに、今はなぜか、始まってほしくない、いっそ帰ろうかなと一筋の魔が差した。
一曲目。金管八重奏のファンファーレが、浮かれていた吹雪の目を一気に覚まさせる。
二曲目。豪華絢爛なドレスを着た女性の歌声と、しとやかなピアノ伴奏を聴き流しながら、なんで演奏会に誘ってくれなかったんだろうと吹雪は静かに考える。
三曲目。ショパンのピアノソナタをBGMに、刻一刻と、ああ目を背けていた現実が迫ってきてしまうと吹雪は恐怖する。
四曲目。ヴィオラの演奏は、初めは自分の不安定な心を風景として音に表しているのかと幻聴したが、少しだけ真面目に聴いていると案外楽しくて、またひとつ吹雪のお気に入りとなる。プログラムを見直し、ヒンデミットという見知らぬ作曲家の名前を頭の片隅へ置いた。
そして、五曲目。
黒服に身を包んだ四人の演奏家が、各々難しい顔をしてステージに現れる。
オーキャンの発表会でも、最初の組はみんなだいたいこんな顔してたなと吹雪は遠目で冷静になりつつ。
菜穂子はステージに上がらない。作曲家は演奏が終わる最後まで、その舞台で音を奏でることはない。
なぜなら──詠人の比喩的な言葉を借りると、彼女が演出した音楽を表現し、聴衆へ届けるのは彼女ではなく、役者たる演奏者たちの務めだからだ。
ヴァイオリンのボディが、照明で怪しく黒光りする。弓がヒュンと振り下ろされた。
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