SECTION.7 菜穂子の秋:降らない雨とインスピレーション
穏やかならざる秋の風
スケールを弾き、ハノンを弾き、チェルニーの練習曲を弾き、
よその教室と大差ないとは言っても、かつて習っていた教室よりかはずっとストレス無く居心地良い時間を過ごしている。乱暴な言葉を吐かれたり叩かれることもない。
かといって花村先生も、音大志望の高校生相手に怠けたレッスンは施さない。吹雪は少しずつ、模試の点数が上がっていくようにソルフェージュ能力の向上を実感していた。
こういう安らかな時間でも、緊張感に押し潰され脅迫観念に駆られたレッスンで無くても、基礎的な技術はちゃんと磨けるものだったのかと気付かされる。
隔週で通う土曜午後のレッスンが、受験生・吹雪の数少ない
「吹雪くんの高校、来週が文化祭なのねえ。クラスで何か出し物するの?」
「最初はお化け屋敷って言ってたんですけど、予算足りないからってダンスに変わったんですよ。僕なんかムーンウォーク覚えさせられました」
「あら〜、良いじゃない! ムーンウォークできちゃうの? ね、ちょっとだけ見せてよ」
吹雪は調子付き、綺麗な木目のフローリングでマイケル・ジャクソンになりきった。吹雪にはもしかしたら、サクソフォニストではなくダンサーを目指す世界線がどこかの分岐点に存在したのかもしれない。
「あっはははははカッコいい〜! スゴいわね吹雪くん」
花村先生もやたら生徒を調子に乗せるのが上手い、いわゆる褒め殺しタイプで、スターが登場すれば大袈裟に手を叩いた。
「
「ええっ⁉︎ や、そ、れはさすがにっ、勇気要ると言いますか」
「マイケル好きよ〜あの子。いくつもライブのDVD借りていったことあるし」
よもや、ムーンウォークが菜穂子の趣味とマッチングするなどと誰が予想できただろうか。
「中学生くらいだったかしらね? ライブでマイケルが出てきただけで気を失っちゃったファンがいる、みたいな話をテレビでやってたらしくて、菜穂子ちゃんったら、急に『私も一秒で聴いた人全員が気絶する曲書きたい』とか言い出すのよ」
とんだマイケル信者である。本当にそんな曲が作れるようになったら、天才どころか国際指名手配級の危険人物だ。
「昔からそんな感じよ、あの子って。好きなアーティストとか学校のこととか、何でも音にして曲にしちゃうの」
「は、はあ」
「大学でもそんなことばっかりしてるのかしらね、菜穂子ちゃん。私はしばらく会えてないから……たまには演奏会にも行ってあげたいんだけど」
花村先生は思い立ったように吹雪へ問いかけた。
「もしかして、吹雪くんは行く?」
「え? ええと、何がですか」
「再来週の
心当たりがまるでない話に、吹雪は花村先生を凝視した。知らなさそうな素振りに花村先生もすぐ気が付いたようで、演奏会のチラシを持ってきてくれる。
チラシには演奏曲目もすべて載っており、菜穂子の名前を見つけた吹雪は、その楽器編成で雷に打たれたような衝撃を受けた。
(『
そうだ。確かに菜穂子は
吹雪の中でツギハギだった記憶が一本の糸として繋がっていく。あれは、この演奏会のために書いていたのか。
「名古屋だし、吹雪くんも勉強で忙しいでしょうけど。良かったらぜひ行って感想聞かせて? 予約すれば入場料掛からないし……ああ、でも、もしかしたらもう満席かしらね」
当日までにチケットが売り切れてしまう年も珍しくないようで、
「チケットの余りがないか、菜穂子ちゃんに聞いてみたらどう? 出演者には何枚か、招待券、大学に配られてると思うのよ」
そんな花村先生の提言で、レッスンが終わるなり吹雪はすかさず菜穂子に連絡を入れた。
♫
演奏会が来週でなくて本当に良かった。ちょうど文化祭が終わり、テスト期間に入るために部活動も休みとなる絶妙なタイミング。
(なんで教えてくれないんだ、先輩……!)
バクバクと心臓が忙しなくリズムを叩いている。
SNSではなかなか既読が付かず、吹雪が電車に揺られ
〈ごめん。もうチケット残ってないわ〉
その悲しみたるや、夏休みの音楽室で起きた事件の比では無い。掛け値なく告白してフラれたような気分で、その場で男泣きしたくなった。
吹雪は駅の改札を抜ける。空は赤い。ここが外だと思い出したことで、何とか涙を堪え菜穂子に電話を入れる。
菜穂子は数回コールを聞いたあたりで電話に応じた。
『何? だからチケット無いって──』
「なんで教えてくれないんすか!」
外なのにうっかり声を張り過ぎた。吹雪は口をがばと手で覆い、高ぶる心臓を強引に理性で抑え付けながら苦情じみた不満の言葉を連ねる。
「せっかく菜穂子先輩の曲が生で聴けるのに……平日でも行きますし、チケットがタダじゃなくたって今度はちゃんと買いますから、僕」
『……あっそ』
「次は絶対、絶対に誘ってくださいね。僕行きますから! あとソロコンの曲ですけど、部活の顧問がもうちょっとお洒落なタイトルにしませんかっておっしゃってて……今どき『アルトサクソフォンとピアノのための』はおカタいって」
『別に良いでしょそれは。余計なお世話だわ。……まあ、気が向いたら考えとく』
曲のタイトルだけでなく、菜穂子自身も相変わらず素っ気ない。
ただ、今日はいつもの無愛想というよりかは、どこか気乗りしていない様子で吹雪のクレームに耳を傾けていた。菜穂子にブッツンと電話を切られ、吹雪は内心穏やかではない。
(くぅうう……ツンが強い……そろそろデレを見せてくれたって……)
家に帰り大学のホームページを調べてみても、やはりチケットは完売だ。半ば諦めかけていた吹雪に天啓が降りてくる。
(招待券……卒業生とか……や、まさかなあ……)
白羽の矢を立てたのは
「も、もしもしっ!」
『チケット欲しいんだ?』
詠人は開口一番、意味ありげに聞き返してくる。今頃はあの高層マンションで、ペルシャ猫を撫でているのだろうか。
「はい! え、も、もしかして……!」
『譲ってあげるよ。俺も
吹雪はスマホを机へぶん投げベッドの上で飛び跳ね、天井に頭をぶつけ悶絶した。男子高校生にはそろそろ子ども部屋も手狭になってきた頃合いだ。
翼は定期演奏会の出演者ではないはずだが、なぜ彼からチケットをもらったのだろうという疑問を持てるほど、今の吹雪には精神的なゆとりが無い。
「ああああありがとうございます! ありがとうございますっ‼︎」
『その日サックスの演奏もあるよ。グラズノフだってさ。知ってるよね?』
「はいっ! それも生で聴きたいと思ってましたっ!」
頭をさすりながら吹雪が笑顔で応じていると、詠人が穏やかな声でたずねた。
『で、吹雪のお目当ては菜穂子ちゃんかな?』
「はいっ! 先輩ってば酷いんですよ。僕には演奏会があることも教えてくれなくて、チケットも持ってないって……ていうか、なんで詠人先生も言ってくれないんですかあ!」
『ああそう。知らなかったんだ。ははは、俺がそこまで親切に教えてやる義理はないかなあ』
弟子の図々しさも大概だが、師匠も最近はかなり吹雪に辛辣だ。
『……いや。待った』
すると、スマホの向こう側で明るく振る舞っていた詠人が急に声を潜める。
『譲ってやるのは別に良いけど、ひとつ条件があるな』
その申し出に吹雪は嫌な予感がした。チケットを餌にいったい何を企んでいるんだ、課題の追加だろうかとさまざまな憶測を頭の中で巡らせる。
「吹雪。その日は菜穂子ちゃんとは会わないように」
『……へっ⁉︎』
「演奏を聴くだけ聴いて、そのまままっすぐお家に帰って練習しろ受験生。間違っても、その浮かれ顔で曲の感想とか言いに行くなよ」
詠人の条件という名の忠告がどんな意味を孕んでいたか、吹雪には到底想像が及ばない。ただ従順に頷くことしかできず、電話を切った後もしばらくはスマホ画面をぼうと見つめていた。
(演奏会終わってからじゃ、時間が遅過ぎて家では練習できないけどなあ……?)
そうしているうちに、母親からいつものように晩ご飯の知らせを聞かされる。
食卓でも母親に促されるままに、吹雪は心ここに在らずなまま白米を口へ放り込む。ぼうっとしていてもおかずを一口も落とさない器用さに、母親は呆れ声で何か小言を垂れていたが、もちろん吹雪の耳には届かなかった。
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