サクソフォン・スターの弟子
♫
予定のレッスン時間はとうに過ぎている。
「……んー。
つまらなそうな顔で、
「ソロコンだからコンサートピースの範疇に収まるよう加減したのかもしれないけど。ぬるいなあ。東京で会った時は、こんな楽譜書く子じゃないと思ってたのに……まあ、
「ぬ、る、ってっど、どのっ、どの辺がですかあっ⁉︎」
吹雪は声を震わせて、おぼつかない手つきで『
「音多いし細かいし飛びまくるし! これ!
「ああ、そうか重音もあったか。あとで運指表あげる」
「まだ運指表あるんですかあっ⁉︎」
「驚くことじゃないよ、別に。それが彼女の作風だからね」
詠人は楽譜をピアノの譜面台へ置く。
「小説家には好きな単語や文章があったり、画家には好きな色があったりするだろう? 同じさ。菜穂子ちゃんは普段から、自分の好きな音を集めてサンプリングしてるんだ」
「サンプリング……?」
「どういう手段で記録してるかは俺も知らないよ。録音か、楽譜に書き留めてあるか、それとも自分の頭の中にあるか。要は料理を作るための材料、素材集めみたいなものだね」
詠人がウインクすると、涙袋の上でホクロがいっそう魅惑的に映った。
「そういう作曲手法を取り入れているプロは珍しくない。菜穂子ちゃんもずっと昔から続けてる習慣らしいから、今頃かなりのデータ持ってるんじゃないかな? 俺も素材だけ少し聴かせてもらったことがあるけど、全部ちゃんと面白かった」
「そ、その音を使って曲を……?」
「うん。素材を組み合わせ繋ぎ合わせ、合成することで出来上がるのがこの楽譜だ」
曲ごとに音を選ぶのではなく、曲を書く前から用意された膨大で多彩な音のデータベース。
文字通り──
菜穂子がいつだかに主張していたのを思い出し、吹雪は息を呑んだ。
「彼女の絶対的自信はこの作風から来ている。手持ちのメロディに、ハーモニーに、リズムに自信があるから、いつだって曲全体にもその自信が滲み出る」
「へえ……じゃ、じゃあ詠人先生」
吹雪は躊躇いがちにたずねた。
「この曲なら、ソロコンで一番……獲れますかね?」
「可能性はあるんじゃない? なんせ、
挑発的な目を詠人に向けられると、吹雪は両肩をかちこちにさせた。
「なあ吹雪。結構期待されているんだね?」
「え?」
「俺より全然下手くそなのにさ。ムカつくなあ。いや、ムカつくのは菜穂子ちゃんだけど。この俺にはあんなサボった楽譜を寄越しておいて、吹雪ごときの高校生にはチャンスをくれてやるつもりなんだ」
「……な、菜穂子先輩がサボる?」
不可解そうに吹雪は首を捻った。
「ええ、っと……図形楽譜はサボり、ですか?」
「そこまでは言わないけど、図形楽譜ってもともと実験の一環で発明された手法だよ? 彼女の作風、それも貴重なプロからの委嘱で採用する代物じゃないな。俺は彼女に、自分で演出した最高の音楽を、役者として演技するチャンスすら与えてもらえなかったわけで……」
「……? あ、あの。詠人先生……?」
言いかけた詠人は急に軽口を止めた。もう一度楽譜を流し見し、吹雪をよそに考え込む。
(そうか……これが最初で最後のチャンスだったか……)
詠人は、やっぱり自分は向菜穂子という作曲家の本質を読み違えてしまったと嘆く。
単純に自分が嫌われているだけなら、残念ではあるが仕方ないと割り切れた。ただ菜穂子は詠人の他の演奏会にもたびたび顔を出したし、演奏会が終われば律儀に話しかけてくる。嫌いな相手にわざわざ高校生を紹介したりはしないだろう。
それでも肝心の楽譜はあのザマだ。
つまり音楽家として男として、初めから詠人に落ち度があったわけではなかったのだ。
(もっとずっと深いところで塞ぎ込んでいるのか。参ったね。彼女、俺の見立てじゃ
よからぬことを考えつつ、詠人はちらと吹雪を見た。
菜穂子には自分が望むような楽譜をもらえなかったが、代わりに弟子を寄越された。
これは詠人にとってのチャンスでもある。一度は口説き落とし損ねた菜穂子の凍りついた心を溶かし、音楽家として女性として、その果実に水をしたらせる最初で最後のチャンス。
──あの
♫
「吹雪」
詠人はすくと立ち上がり、まだ青くて渋い才能の果実を見下ろす。
「
「……へっ?」
「菜穂子ちゃんが好きなんだろ、お前」
青い果実にボッと炎が燃え上がるのは一瞬だった。
「へ! え、あ、や、えっと」
「良いよね、彼女。見る目あるじゃん。最初から素直で健気な子よりさ、あのくらい意固地なほうが手懐けた時にうんと可愛くなるんだよ」
悪い大人の笑みをこぼす詠人に、吹雪はその場であたふたと足踏みした。
「え、ええと、そっその、僕」
「さっきは散々俺のモチベを馬鹿にしてくれたけどさあ。実はお前こそ、菜穂子ちゃん目当てで
「そそっ、それは……や、それじゃさすがにまずいからと思ってですね……」
図星を突かれて踊り狂う吹雪は、詠人から見ればあまりに滑稽で、しかし昔のがむしゃらだった学生時代の記憶が蘇り懐かしく感じる。
「何がまずいんだ? 結構じゃないか。それに、相手が大学生だからって、女の子ひとり口説くのに何も入試まで待つ意味も無い」
したたかさを隠さない詠人の爽やかさを演出した笑顔が吹雪に迫る。肩に手を乗せられ、
「俺の弟子ならこの本番、この曲で、お前の演奏できっちり口説き落としてこい」
「う、ぐ、ぬ」
コンクールに挑む動機としてはあまりに不純過ぎる、と吹雪はカマトトぶった。それが絶対に間違っているとは言い切れない、自分の浅はかさも嫌になる。
しかし吹雪の師匠は真剣だ──今に限らず。
詠人は一見のらりくらりしていても、音楽とサクソフォンの話をしている間は、いつでも、どこであっても、誰に対しても。
「今目の前にある音楽を、人を、命懸けで愛せ。それが一番モテる」
「命……だ、だから僕はモテたいわけじゃ」
「そのくらいやらなきゃ、菜穂子ちゃんは落とせないよ」
長いまつ毛をゆらめかせる。
本当は。
弟子へ語り聞かせたアドバイスもテクニックも、本当は菜穂子にこそ聞いてほしかった。
自分のことを──自分の音楽を、もっとちゃんと知ってほしかった。
「こちらから全力で愛しにいかなくて、誰かに愛してもらえるはずが無いだろう?」
サクソフォン・スターの弟子は、孤高の作曲家に新しい世界を見せられるだろうか。
誰よりも音楽を愛しておきながら、小さな部屋で描き続け自ら生み出した──あまりに狭過ぎる音の世界で閉じこもる、ひとりぼっちの女の子に。
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