詠人のレッスン
「あ、秋音……その……」
「昔はともかく、今は本気だから。僕は本気だし、曲を書いてくれた人も多分本気出してくれてて……けど、その本気に応えてくれそうな伴奏者が見付けられなくて、マジで困ってるんだ」
『……』
「秋音にしか頼めないんだよ、本当に……どうかよろしくお願いします……」
『……分かった』
最後は懇願じみた台詞になってしまったが、秋音はようやく承諾した。
『分かったわよ。やったげる。でも、あんたが下手くそだったり、あたしが伴奏やる意味ないって思ったらすぐ辞めさせてもらうから』
「は、はい……」
『あとさっきも言ったけど、他にも伴奏頼まれてるし、受験の曲とか、あたしだって色々忙しいから。合わせとか、スケジュールは早めに寄越して』
吹雪はスマホ越しの秋音へ、赤べこ並みに首を振り続けた。
着信が途絶えてからしばらくベッドに身を投げ、母親に呼び出されるまでは放心しきっていた。
今の交渉で何か反省点があるとすれば、やはりドギツイ
疲れ果てた翌日。
吹雪が
念が通じたのか、菜穂子は本当にその日のうちに郵便局へ駆け込んでくれたらしい。住所を送ったのが夕暮れ時だったから、さすがに一日では着かないと内心たかを括っていたのに。
(秋音にも可能な限り誠意を見せよう)
こちらはご近所さんだ、家も知っている。吹雪はすぐに楽譜をコピーし、封筒に詰め
「ぐは〜あ……」
吹雪は二夜続けてベッドに倒れ込む。
実はドギツイを平常運転にしている彼女のほうが、急にキツくなる秋音よかずっと優しいんじゃなかろうかと、改めて菜穂子を女神様みたいに拝んでおいた。──コピーしていれば自ずと判明する、全ページにわたり真っ黒な楽譜はひとまず見なかったことにして。
♫
『なんで全国に行きたいの?』
あの夜、秋音に問われた吹雪は心中では答えを出していた。そんなの、去年が悔しい思いしたからに決まっていると。
──ならサクソフォンは?
確かに吹雪は一度、ピアノを辞めた。先生が合わなかったから辞めたのだと長らく言い聞かせてきたけれど、それなら他の教室に移れば済む話だったんじゃなかろうか。
続ける手段は色々あった。けれど辞めた。
つまりピアノは当時の自分にとって、その程度だったということか。秋音が言った通り。酒井先輩が受験勉強と引き換えに、部活動を辞めてしまったように。
──ならサクソフォンは? ピアノと何が違うんだ。
たまたま始めた楽器が肌に合っただけだろうか。秋音みたいに十年以上続けているわけではない。たった一年。この一年で楽器への、愛着の程度をどうやって測れたというのか。
あるいは、音楽ができればなんでも良かったのだろうか。たとえばギターとか、サクソフォンでなくても良かったのだろうか。
いや、今はまだ考えなくて良い。上を目指し、前を向いて進んでいる今はまだ……。
そう自分に言い聞かせ、練習に没頭することで落ち着かせようとしながらも、吹雪はどこか心にざわつきを残したままでいた。
秋音には辞めるなと勢いで言ってしまったが、実際、彼女も悩んでいるのだろう。ずっと続けてきたからこそ、他の何かを犠牲にしてでもピアノを弾くことにこだわってきたからこそ、その執着をいつまでも手放せず苦しみもがいている。
たとえどんなにピアノが、音楽が好きだったとしても。
時として高みを。時として新しさを。時として月並みの幸せを。
何かを求めれば求めるほど、人は現実との乖離に苛まれるものである。
きっと吹雪が向かおうとしている道程の先には、秋音と同じような練習漬けの生活を送ってきた、秋音と似たような悩みや苦しみを秘めた人間が山ほど居るのだ。
(
菜穂子とか。
吹雪は無性にたずねてみたくなった。自分が知る数少ない音楽家の中でも、誰よりプロとして評価され、業界歴が長く、最前線で音楽を奏で続けているであろう、己が新しい先生に。
詠人はどうして、サクソフォニストになったのか。
「……うん? 俺がサックスやってる理由? これが一番女の子にモテるからだけど」
次の日曜、昼下がりの名古屋某所。
吹雪が人生でもっとも、誰かに身の上話を聞いて
♫
詠人は高層マンションの上のほうの階に一人で住んでいた。
住所を頼りに初めて訪れた時は目が点になった。
玄関では毛並み綺麗な真っ白いペルシャ猫がお出迎えする。やけに人懐っこいくせして詠人の言うことをやたら聞く利口さもあった。そんな猫の毛玉を除けば、グランドピアノが置いてあるリビングがレッスン室と兼用だからか、キッチンも含め部屋はものすごく整頓され片付いていた。本当にここで生活しているのか疑わしいほどに。
「そういえば吹雪、
「はあ……そうですか? お金かかるし、西三河なら通えないこともないよねって両親とは話してますけど」
「生活費くらいバイトすれば良いじゃん。実家がどこにあっても、大学生は一度くらい一人で住んだほうが良いんだよ。
──いや、そこは建前でも「帰りが遅くなるから」とか「練習の時間が欲しいから」とかじゃないんかい。
「もし
──いや、そもそも浮気や悪さをしなければトラブルも起こらないんじゃないか。
全校女子生徒の半分を抱いたと噂のイケメンはアドバイスも的確だ。方向性は致命的に間違えているが。
吹雪がレッスンを受けている間、詠人はいつもソファに腰掛け足を組みくつろぎ、優雅に淹れたてのコーヒーを飲んでいた。私服も猫の毛玉が目立たないゆるめの白いVネックで、本人の放つオーラからも清潔感が漂ってくる。
男として見習いたい部分、逆に反面教師にさせていただきたい部分は至るところに散らばっていたけれど、あくまでも吹雪が彼に教わりたいのはサクソフォンだ。
決して指導をサボられているわけではなかったが、どこまで彼が本気で教えてくれているのか、お盆明けから早一ヶ月程度、すでに吹雪は半信半疑だった。
今日とうとう確信する──やっぱり、師事する男を間違えた!
「吹雪はモテたくないの?」
「モテ……たいにはモテたいですけど……
「詠人で良いって」
「詠人先生は、本当にその理由だけでプロ続けてるんですか? そのモチベで、一生サックス続けられるものなんです?」
「続けられるよ」
呆れかけた吹雪を、詠人はフィクションみたいな現実へ連れ戻す。
「モテなくなった時点で俺はこの仕事を辞めるね。だって、サックスを吹いている自分が一番カッコいいと自分で思ったし、周りにもそう思われているって気付いたから、途中で
「えっ、最初から音大目指してたわけじゃないんですか?」
「俺も高校は普通科だって言ったじゃん。進学した時は友達とロックバンド組んでてさ、卒業したらギターで上京してデビューするつもりだった」
本当にモテるために楽器を始めるタイプの男らしい。ギターという楽器のチョイスも詠人の証言にリアリティを裏付けた。
「へ、へえ……まあ、でも、今はサックスがめっちゃ上手いですもんね。一番好きな楽器もサックスで……」
「別に? 正直飽きてきたよ。あと五年……いや三年続けば御の字かなあ。ははは」
何度でも再確認する。師匠も相談相手も間違えた。
吹雪がなんともいえない表情でいると、詠人はおもむろに立ち上がり、吹雪へ歩み寄って通り過ぎた。
「そうだなあ。あと何年続けられるかは、あとどのくらい面白そうな楽譜が俺の手元に集まるかにかかっているかも」
「と、言いますと……?」
「現代音楽はそういう理由で手を出し始めたみたいなところがあってね。『
まるでパガニーニが一度は言っていそうな台詞をのたまっているが、詠人のそれはれっきとした『現代音楽プレイヤー』あるあるのひとつだ。
この世のありとあらゆる技巧や表現を極めてしまったために、いかに不朽の名作であろうとも、クラシックやポップスの楽譜がどれも陳腐に見えてきてしまう職業病。
「わ……『ONE PIECE』とか『宝島』とか『情熱大陸』とか、ソロ吹くの超楽しくないですか?」
「嫌いじゃないよ? でも仕事で散々吹かされてきたし、本番の数をこなせばだいたいの曲は『今更それ?』みたいな感じになっていくものだから」
とぼけたことを言ってはいても、詠人はコンサートの定番曲を飽きたと感じるくらいには幾度もステージに上がってきた、百戦錬磨の一流プレイヤーなのだ。
詠人はピアノ脇の棚から一冊の楽譜を抜き出す。
その楽譜に吹雪はパアンと目が覚めた。たまらず曲名を叫ぶ。
「ナウ・イズッ! それ、先生が菜穂子先輩に書いてもらった曲ですよね?」
記憶に新しい楽譜を見せられると、吹雪の関心は詠人から菜穂子へと一気に移ろっていく。
「まあね。吹雪、やっぱりこれ知ってるんだ?」
「はい! しかもこれ、先輩が
「能力はかなりあるよね。東京に用事があって、たまたま彼女の作品の演奏審査を生で聴いたんだよ。作曲部門も演奏部門も両方あったコンクールなんだけど……」
詠人は楽譜を吹雪へ預け、にこりと微笑む。
「その日の参加者ではダントツだったね。手法とかオーケストレーションとか、技術やセンス云々よりも……そうだな」
少しだけ言葉を溜めて詠人は告げた。
「高校生の身分で
「なるほど! 確かに先輩って、自信に満ち溢れたダイナミックな楽譜書きますよね!」
吹雪が思い出したのはもちろん手元にあるソロコンの楽譜だ。
「生意気な子も自信家も俺は嫌いじゃない。ちょうど愛知の子らしいからと、地元の縁だと思って頼んでみたんだ。彼女は……うん、
詠人は菜穂子をこれほど高く評しながらも、その顔はどこか浮かなかった。吹雪が手に取った色とりどりの図形に目を落とし、
「……どこで読み違えたかなあ」
恋人にフラれたような哀愁を香らせる。足元ではペルシャ猫が、詠人を慰めるようにすり寄ってきていた。
「音楽はともかく、女の子だけは誰よりも見る目があったつもりなんだけど」
「な、なんの話をしてるんですか?」
「吹雪。彼女に新しい楽譜書いてもらったんだって?」
さりげなく見上げた詠人の顔は笑っていたのに、目の奥には吹雪を威圧するような、底知れぬ闇を忍ばせている。
「え? あ、はい……」
「持ってきたんだろ? 早く見せてよ、それ」
あたかもそれが、詠人にとっても今日のレッスンの本題であったかのように。
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