新しい課題
♫
九月中旬。
夢の実現への挑戦とか、より優れた音楽の追求とか、聞こえは大袈裟でもそこへ向かっていくための道程はさほど劇的ではなかったからだ。
焦らず一歩ずつ少しずつ、穏やかに、緩やかに丘を登っていくような日々だ。まあ受験勉強ってそういうものだよな──と、吹雪は昼休みの教室で感慨に耽る。
最近は高校中どこに居ても文化祭の話題で持ちきりで、
「吹雪はお化け役な。ゾンビメイクでスリラーするんだぞ。ついでにムーンウォークも練習しとけよ、ははは!」
とクラスメイトにはお化け屋敷の主役を押し付けられた。なぜお化け屋敷でスリラーかは不明だ。ダンスを習ってるわけでもない吹雪が踊れる判定されている理由も。
(ついでにムーンウォーク練習する暇あるなら『
吹雪はホッチキス留めされたA4の紙切れを広げる。
初めて
「へえ?
ソロコンの話を打ち明けると、詠人はしばらく腕を組み真っ白な天井を眺め、
「ふうん。ああそう。じゃ、ついでにこれも覚えておきなよ。こっちは気が向いたらで良いよ。高校生に吹かせる前提の楽譜で
とさりげなくダメ出しされつつ、詠人にこの紙切れを手渡された。
スケール表、というよりかは一言で表せば『運指表』だ。サクソフォンの教本に必ず載っていて、楽器を始める際に誰しもが一番最初に開くであろうページ。
ただし、渡された運指表はやはり吹雪が持つ常識の範疇を超えていた。
四分音スケール──半音を
吹雪の、一オクターヴとはなべて十二音だと思っていた時代はこの夏に終わったのだ。
(こんな運指表が世の中に存在していることに驚く時代も終わったなあ……)
今は新しい英単語を暗記するように、吹雪は見知らぬ運指の並びを暗記するのが休み時間のルーティーンだ。
詠人が菜穂子の話を聞いた途端、ついでと言う割になぜわざわざそんな摩訶不思議アイテムを持ち出してきたのか、理由はよく分からない。いや正直、何となく察しは付いているのだが、菜穂子から楽譜が届いていない今はまだ分かりたくない。
そんなスケールの新常識はさておき。
今なら水崎先生が話していた、志望校や分野に関わらずやるべきことはうんたらかんたらという、説法の意味がなんとなく理解できるような気がする。吹奏楽部も、新学期が始まれば放課後に集まって合奏して、そろそろ冬のアンサンブルコンテスト──通称『アンコン』の曲を譜読みしてと、平常通りに動いている。
ただ、アンコンに限っては吹雪は出場自体を取り止めた。
お盆明けにサクソフォン・パートの面々と話し合った結果だ。アンコンには今年は出ない、ソロコンと音大受験の練習に専念すると、吹雪が自ら意思を伝えた。もちろん出場したいのは山々だったけれど、ほんの一週間弱でも音楽室と距離を置いたら、ほんの少しだけ冷静になったのだ。
土曜日午後はすでに花村先生のレッスンが入っていたし、詠人との個人レッスンも今後どんどん増えていくことを加味すれば、部活動をどんなに続けたくとも、やはり何かしらを諦めなければいけない。
吹雪の申し出にパートの面々は初め驚いていたが、多忙なのは誰しもが薄々承知していたのでさほど嫌な顔をされなかった。むしろ、辞めると言い出すのが
「良かったあ、てっきり先輩、
「吹雪先輩ならもっと良い人いますって。人生はまだまだ先は長いんですよ? あーいや、私は遠慮しますけど」
とか下級生に不要の励ましを受けた。お盆休み前の根も葉もないデマを払拭するにはもっと時間がかかった。
「そっかあ、サク
「じゃあ吹雪先輩は今年は先生役ですね。私らも全国行けるように指導してくださいよ、ってか今、先生にレッスン見てもらってるんでしょう? その人連れて来てくださいよ」
「は? 何このイケメンやばっ! 顔面偏差値えぐっ! うわあめっちゃ抱かれてえ!」
なんなら詠人の写真を見せた話し合いの最後が一番盛り上がる始末である。サックス一年女子に言わせれば、
昼休みの終わりを告げるチャイムの音。
吹雪が紙切れをリュックサックにしまいかけた矢先、その奥でうっすらした光を見つける。スマホの通知だ。
次の授業は国語で、水崎先生がのっそりと教室に入ってくる。吹雪は何気なくスマホ画面を開き名前を見るなり、
「うわあぁあぁっ⁉︎」
と叫んだ勢いのままにSNSアプリを開いてしまう。
ずっと緩やかに登っていたはずの足場が突如ガラガラと崩れ、崖か滝の真下へ叩き落とされ水に溺れるような感覚。
〈できた〉
菜穂子の素っ気ない一文が、吹雪を夢とうつつの混濁した世界へ引きずり込んだ。何が「できた」のかなど最早考えるまでもない。
腰を抜かし椅子から崩れ落ちた吹雪へ水崎先生が困り顔で寄ってくるまで、あと七秒。
♫
〈楽譜送るから住所教えて〉
〈先輩のお家まで取りに行きます!〉
〈寮だわバカ〉
吹雪がSNSでこのやり取りを交わすまでに小六時間ほどかかった。
あの後、水崎先生には「高校でやるべき活動に集中しましょう」と至極ごもっともなお叱りとともにスマホを取り上げられ、部活動を終えるまで返してもらえなかったのである。
吹雪が浮足立って住所を打ち込んでいる姿を、中本や部員たちから気味悪がられるのも音楽室の日常だ。
(郵送……ってことは、明日学校から帰って来たら届いてるかな)
そもそも菜穂子が今日中にポストする保証もないのに、吹雪は先走り楽譜が待ち遠しく、ついには待ちきれなくて、
〈写メで良いんで楽譜見せてくださいよ。ちょっとだけ!〉
急かすような文章を送りつければ、数分経って菜穂子から帰ってきたのは何枚かの画像だ。曲の冒頭数ページらしい。
上部には『アルトサクソフォンとピアノのための』と殴り書き。飾り気のない一文だが、まさかこれが曲のタイトルだろうか。
吹雪はそのまま画像を数秒ほど眺め、目をこすり、昼休みに眺めていた運指表を取り出す。
やっぱり見間違いじゃない──『四分音スケール』でしかお目にかからなかった、シャープ・フラットじみた形の記号が五線紙の上で踊っているのだ。
(うっわ、さすが貝羽先生……)
目を逸らしていた嫌な予感が当たったことに苦笑いする。
おまけに、楽譜はいまだかつて見たことがないほど真っ黒だ。もちろん音符で。
一小節の間にこれでもかと詰め込めたアルペジオ。そんなに強弱付くのか疑わしいような、
(サックス・パートなのに『和音』……? ピアノ・パートとの書き間違いかな?)
何度首を捻ったか分からないが、吹雪の心を埋めていったのは音符だけではなく不安だ。
(え? これ、本当に吹けるの? 僕が?)
ソロコンは来年二月頭。
次こそ全国大会金賞、という目標を掲げていたはずの吹雪に襲いくる問題は、そもそも演奏できるのか。二年生にもなってソロコンでよもや、タイムオーバー失格よりも恐ろしい事態が四ヶ月も前に待っていようとは。
(これは完全に詠人先生案件だ……ガンガン頼ろう)
アンコン辞退して本当に良かった。フルの楽譜よ、早く来てくれ。ポスト・インしてくれ早急に。
菜穂子に念を送り続ける吹雪は、背後から忍び寄る足音に気が付かなかった。
「うわっ、グロ!」
後ろでスマホを盗み見てきたのはサックスの後輩だ。真っ黒な楽譜を指さして、
「吹雪先輩これマジで吹くんですか⁉︎ やばあ……ガチじゃん。異次元じゃん。もう文化祭のソロくらいじゃ満足できなくなってるじゃん」
「ま、まあね」
「
なぜか中本に話を振る。その件はとうに決着したはずだが、新学期になっても後輩たちはまだまだイジり飽きていないらしい。
中本は中本で案外お調子者な部分があるので、間延びした声で「やーだよ。フッたんだから」とついには否定もしなくなった。よからぬ誤解を再発させる前に否定して欲しいのだけれど。
ただ、今はそんなくだらない話は吹雪にはどうでも良いだろう。
──ピアノ伴奏。
そうだ。完全に見誤っていた。
なんやかんやと楽譜に文句を垂れつつも、吹雪はあの向菜穂子に約束を取り付けた時点で、どんな災難や無理難題が降り掛かろうとある程度の覚悟は決めていたつもりだ。きっと本番までになんとかしてみせると。
だが、伴奏者は違う。吹雪ほどの覚悟を持ってこの楽譜に挑んでくれる猛者が、いったいこの音楽室のどこにいるというのか。
(しまった……!)
慌ててピアノ・パートの楽譜も確かめてみれば、こちらもサックス・パートと遜色なく楽譜が真っ黒だった。リストもラフマニノフも弾かないぞこんなものと、見ただけでスマホをぶん投げたくなるほどに。
もとより覚悟とか精神論で済む問題ではないだろう。
吹奏楽が団体競技なら、現代音楽は詠人やプロの音楽家たちみたいな、真に実力ある選ばれし者でしか挑戦すら叶わない特殊競技だと、吹雪も少しずつ感じてきた頃合いなのだ。
ソリストの自分が吹けるだけじゃダメ。
弾ける、でも足りない。それではコンクールで一番を獲れない。
穏やかだった秋の初め、いきなり激動の波に見舞われた吹雪は、椅子の上で膝を抱え頭を抱え、しばらく地蔵のように動かなかった。
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