SECTION.6 音楽を、人を愛すということ

菜穂子の楽譜

 むかい菜穂子なおこが初めて『楽譜』を書いたのは二歳の時。


 クレヨンで黒い丸をグリグリと、スケッチブックへ豪快に殴り書いた。

 丸が三つ四つ、団子状にくっついていて、そこからボーボーと髭を蓄えていく。

 両親は蜘蛛かアリかトンボか、虫の何かしらを模写しているのだと勘違った。しかし菜穂子が線を長く伸ばしていったことで、書いているのは絵ではなく『楽譜』だと気付いたのだ。

 初めて書いた楽譜は、トンボはトンボでも『赤とんぼ』。

 菜穂子はいつからかじぃと、保育士の母親が家のアップライトピアノで歌の伴奏を練習する姿を見ていたのだ。

 やがて菜穂子の楽譜にはカタツムリみたいな何か──『ト音記号』が足されるようになり、スケッチブック一枚の中に『音符』も『五線』も、右手の『メロディ』、ついには左手の『伴奏ハーモニー』まで余さず記されるようになっていったのである。


 両親は保育園に入るタイミングで、菜穂子を近所のピアノ教室にも連れていった。

 今度はスケッチブックではなく五線紙を買い与えた。菜穂子は机に向かい黙々と楽譜を書き続けた。ピアノの練習も人並み以上にこなし、花村はなむら先生からはしばしばコンクールへの出場を勧められた。

 真に勉強好きな子どもは親や先生に強制されずとも勝手に勉強する──といった話を、特に母親はたびたび小耳に挟んだけれど、菜穂子にとっては音楽がまさにそれであるとすぐに思い至った。


 小学校に上がる頃には、菜穂子が今何をしているのか──どんな楽譜を書いているのか、いちいち確かめなくなった。

 菜穂子も菜穂子で、コンクール絡みの業務連絡以外に、両親へ何かを報告してきた回数は少ない。両親も、無理に娘から日頃の話を聞き出そうとはしなかった。

 聞き出す必要性も感じなかった。音楽どころか学校の成績すらも、小学校、中学校とすこぶる良好で、先生の誰に聞いても「たいへん素直な良い子です、、、、、、、、、、、、」としか返事が来ず、周囲の親が日頃頭を悩ませているような、成績不振だとか反抗期だとか、物心付いたあたりで娘の教育にはめっきり手を焼かなくなったのである。


 高校受験の折には、さすがにリビングで家族会議が開かれた。

 両親はきっと東京芸大にでも進みたがるだろうと腹を括っていて、花村先生にも同様の意見をあらかじめ聞いていて、だからひとまず、名和めいわ高校音楽科を志望校として勧めてみた。

 だが、菜穂子は珍しく首を横に振った。

「別に普通科で良いよ。ていうか、大学も東京なんかわざわざ行かないし。まあ睦ヶ峰むつがみねとかで。え? 第一志望? んー……あさ日野ひの

 名古屋で一番偏差値が高い高校を適当に、、、挙げ、菜穂子は本当にあさ日野ひの高校普通科を受験した。

 その三年後、予告通り睦ヶ峰むつがみね芸大の入試に臨んだ菜穂子へ、両親は結局何も聞かなかった。

 なぜ高校は普通科で良かったのか。なぜピアノ科ではなく作曲科なのか。なぜ東京芸大は受けないのか。──今、どんな楽譜を書いているのか。



 ところどころ不可解な点はあれど、両親は最後まで信じて疑わなかったのだ。

 ゴールデンウィーク明けに引き続き、お盆休みも岡崎おかざきに帰ってきた菜穂子が部屋の机と睨めっこしている背中を、母親がドアの隙間からそうと覗いてみる。

「菜穂子〜、ご飯できたけど〜?」

「今行く」

 簡潔に返事した菜穂子の、ほんの少しだけ広くなった背中。

 やっぱり菜穂子は何も変わっていない──変わらない、、、、、

 この娘はとにかく音楽が好きで、いつどこでも鉛筆を走らせていたくて、将来はプロの音楽家にでもなって、生涯あんな風に黙々と楽譜を書き続けるのだろう。

 母親は静かに部屋のドアを離れた。

 菜穂子が鉛筆をピタリと止め、物心付いてからずっと変わらず苦虫を噛み潰している表情、、、、、、、、、、、、、、、、、、、を、一度も目にすることがなかったのである。


 ゆえに、まだ誰も知らない──見えていない、、、、、、

 菜穂子が五線紙に描いた音楽にはいつだって、夢も希望も、未来も映し出されていないのだ。

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