水崎先生の進路指導
♫
初めは
「さっき、夏コンが終わったらレッスンに通うって言ってたね。じゃあ、そこまでは部活も続けるってことかな? 県大会まで進んでおいて今更かもしれないけど」
「え? ……えっ? や、どういう意味ですか」
耳を疑った。自分の理解力が悪いのかとも。
今、この先生は何を前提に話を進めているのだろう。県大会を控えた大事な時期に、あろうことか顧問が、いったい何を言い出すんだ。
「仕方ない事情だとしても、急に辞めるって言われたら他の部員の子たちがびっくりしちゃうでしょう? 夏コンが終わっても文化祭とか、アンコンとか色々予定が詰まってるわけだし。心の準備が要るというか、少なくとも顧問の僕には具体的な時期を伝えておいて欲しいかな」
「辞めませんよ!」
吹雪は食い気味に叫ぶ。どうして水崎先生は、自分が部活を辞める前提で話を進めようとしているのか。
「誰が言ったんですか、そんなの。
「そう? なんなら、僕は定期演奏会を最後の本番にするつもりでいるのかなと思っていたくらいだけど」
「え……な、んで」
開いた口が塞がらない。吹雪は水崎先生の誤解を解こうと必死になった。
「夏コンだって、今年こそ東海大会行きたいって思ってますし。文化祭もアンコンも……そうだ、ソロコン! 僕、
「ああ、ソロコンね。それなんだけど」
水崎先生は用意してあったカンペを読み上げるような流暢さで語り聞かせる。
「確かに、うちが毎年出場してるコンテストは部員じゃないと出られないんだけど。ちょっと調べてみたら、他にも同じような時期にソロで出られる全国大会が色々あるらしいんだ。だから
「アンコンも出ますよ!」
苛立ちを隠せない吹雪は椅子をガタンと揺らす。
「だから辞めないですってば! なんでそんなこと言うんですか? なんで、急にそんな……」
「……佐倉くん」
水崎先生からとうとう笑みが消える。いたって真剣な顔で、
「ここだけの話にして欲しいんだけど」
前置いてから淡々と話を再開した。
「うちは多分、今年の夏コンも県大会止まりになると思う」
「……は?」
「もちろん僕は、僕が尽くせるだけの指導をいつもしているつもりだし、みんなも毎日たくさん練習してるだろう。でも、そういった頑張りを結果に反映させるのもなかなか難しいことだって佐倉くんも知ってるよね? まあ、佐倉くんはソロコンでは良い結果を出せたかもしれないけど、やっぱり吹奏楽って団体競技だから」
すでに吹雪には言いたいことが山積みだ。なぜ県大会も始まっていないうちからそんな弱気なのかとか、ソロコンだって金賞じゃないから自分的にはちっとも満足できてないとか。
水崎先生の言う通り、毎日合奏していれば上の大会に進むのが厳しいと薄々みんな分かってはいる。分かってはいるけれど、実際に結果が出るまで、その本音は顧問が誰よりも言ってはいけないはずであって。
「せめてうちの部活が全国へ当たり前に進めるような力を持ってたり、
「は……え? か、関係ないですよ、そんなの」
「ねえ佐倉くん。例えばだけど」
水崎先生から告げられた次の名前に、吹雪は心臓をどきりと跳ねさせた。
「三年の
覚えてるも何も忘れようがない。去年のソロコンで『スカラムーシュ』のピアノ伴奏を引き受けてくれた、テナーサクソフォンの先輩だ。
「さ、酒田先輩がなんだっていうんですか」
「彼女、
知らないはずがない。しかし吹雪は答えるのを躊躇う。
だが、酒田先輩の脱退はあまりに唐突だった。
「彼女はずっと国公立を志望していたから、受験勉強に専念するために周りの子よりもちょっと早めに部活を辞めたんだよ」
そんな話は本人から直に聞かされている。今更にも程がある。何せあの時はサクソフォン・パート総出でどうにか彼女を引き留めようとしたのだ。夏コンまでとは言わない、せめて定期演奏会くらいは出てくれと。
木管セクションのリーダーでもあった彼女は長らく部内のムードメーカーで、吹雪も誰しもが三年生で誰よりも長く部活動に残るものだとすっかり思い込んでいた、それほど部内に欠かせない存在だった。
しかし説得虚しく始業式数日前、酒田先輩は終始寂しそうな顔で、それでも断固として意思を曲げず、吹雪たちに退部を告げたのである。
「中には酒田さんの判断に納得できなかった子もいただろうけど、僕は間違ってないと思う。あと一年続く部活動よりも、この先何年も何十年も続いていくだろう人生で、自分が今やるべきことをしなさいと彼女には伝えた。きみが音大に行きたいと言い出した、同じ頃にね」
「そ……れ、は」
「そして佐倉くん。目指す大学や分野は違っても、受験勉強という意味では、佐倉くんも酒田さんもやるべきことは大して変わらないと僕は考えているんだ」
進路相談の教科書か参考書でも読み上げているのだろうか。吹雪は水崎先生の政治家じみた沈着さに、起立したまま唇をわななかせる。
「僕ら教師は入学したてから、きみたち生徒に卒業後の進路の話をしてきた。口酸っぱくね。で、きみは二年生になってやっとこさ志望校が決まって、そこに合格するための現実的な段取りにちょっと足を引っ掛けたばかり。理解してる? 他の生徒よりも滑り出しが遅かったんだ」
説き伏せられかけているのを堪え、吹雪はどうにか反論の言葉を探した。
「将来向かっていきたい新しい道ができたなら、佐倉くん。確実にその道へ進んでいくための選択肢のひとつとして、途中で部活を辞めるのも全然悪いことじゃないんだよ」
「ち……違います!」
声を発して初めて喉が異様に渇いていることを自覚する。
「酒田先輩のそれと、僕とは話が全然違います。だって、僕、サックスで大学行くって言ってるんですよ。先生も知ってますよね? 僕は、この吹部でサックスを始めたんですよ!」
全身が冷えていくのを感じる。なぜか頭だけは鍋で熱湯が燃えたぎるように熱かった。
「そうだね。佐倉くんはうちの部活で随分と力を付けたし。ソロコンでひとつ大きな結果を残してくれたし、この一年半でいろんな本番、ステージを経験してきたよね」
「そうですよ! 全部この部活のおかげなんです! だから、これからも僕は」
「それだけの力をきみは持っているわけだから、そろそろ次の、もっと上のステージに進むことを考える時期なんじゃないかな? 今は新しいサックスの先生も作曲の先輩も、きみにとってはまだ憧れの人だろうけど、音大へ進むってことは、きみも近いうちにそんな人たちと同じステージで活躍できるようにならなきゃいけないんだよ?」
憧れの人──。吹雪の脳内で菜穂子や翼、詠人の顔が思い浮かぶ。
「その演奏会でも彼らにすごく良い刺激をもらったんでしょう? 楽しそうに話してくれるものね。じゃあ、きみも早くその本番に混ぜてもらえるように頑張らなきゃ。残念だけど、僕もうちの学校も吹部も、これ以上はきみの進路を助けるどころか足踏みさせちゃいかねない」
「せ……先生はそんなに吹部を辞めさせたいんですか?」
吹雪はまだ追いすがった。
いよいよ水崎先生が、手を変え品を変え、自分を部活動から追い出そうとしている悪者に見えてきてしまったのだ。
「そんなに僕に辞めて欲しいですか? 自分でこう言っちゃなんですけど、僕はうちで一番楽器上手い自信があります! 県大会はこれからだし、大編成もソロもいっぱい吹きたいし、次はソロコンだけじゃない……アンコンでもサックス四重奏で全国行けたら良いなって……」
終盤は声がしぼみ勢いを失う。言っていて自分でも傲慢が過ぎると反省したからだが、そのくらい強く主張しなければ、このまま先生に押し切られてしまうと恐れたのだ。
座ったまま微動だにせず、吹雪の主張を聞いた水崎先生の反応は案外あっさりしている。
「そうだね。うん間違いない。きみが一番上手なのは、僕も部員の子たちもみんな知ってる」
「じゃ……じゃあまだ辞められないですよね? 僕も部活続けたいですし、先生にもみんなにも僕がまだ必要なんじゃ……」
「それは、……うん、
そこまで言いかけると、水崎先生はようやく追撃を止めた。
やっと説得できたと思い上がった。数秒、数十秒黙っている間に彼が何を言わんとしていたのか──何を言い淀んでいるのか、吹雪の沸騰した頭では少しも汲み取れなかったのだ。
水崎先生は実のところ、吹雪へ真に伝えるべき本題へ、まだ足の爪先ほども踏み入れていなかったのである。
♫
「……なら、佐倉くん。考えたことはないのかな?」
「な、にをです」
「どうして部内で一番上手いきみが、部長とかセクションリーダーとか、三年生から大事な役職に選んでもらえなかったのか」
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