SECTION.5 吹雪の夏:音楽室は曇りのち晴れ
水崎先生の呼び出し
♫
「とりあえずライン交換する? ああ、スマホは楽屋だったな」
「じゃあ私からこいつに
「オッケー、よろしく。
サクソフォン・スターはぴんと伸びた背筋で颯爽とロビーを歩き去っていった。余計な一言も雑談も交わさないあたり、菜穂子との用はもう済んだと言わんばかりだ。
真のイケメンは物事の是非を決めるのも、女性に言い寄るのも離れるのも諸々が早い。
まだ心臓のバクバクが収まりきっていない
「……え? あの。オッケー、だったんですよね?」
「これだから
おそるおそる確認を取れば菜穂子はよく分からない嫌味とともに、なぜか吹雪をぎりりと睨み上げた。
「お前、ちゃんと練習しろよマジで? スケールは死ぬほどやれ。本当は夏コン終わってからとかヌルいんだよ!」
「え? で、でも今、貝羽先生も吹部やってたって……」
「途中で辞めたとも一浪したとも言っていたでしょうが! あの演奏のレベルでも落ちるときゃあ落ちるんだよ」
勝手に言い争う二人の背後に近付くはもう一人のチャラ男・
「噂通りのスタイリッシュさだな〜、貝羽先輩。尖り過ぎだろ。なんでモテるかね、あれで」
「やっぱりモテるんですか? あの先生」
へらっと軽口を叩く翼へ、吹雪は反射的に聞いてしまった。
「今や
「
「……はい?」
「さすがに迷信だろ」菜穂子は真顔で訂正する。「
「…………はい?」
「ま、言うこと為すこといちいち気にする必要ないよ吹雪。あの人は誰にでもああだから」
「……………………」
帰りの電車で──どうせ同じ
(音楽学部・美術学部合わせて千人……女性率八割だから八百人……その半分……え? 二百人⁇ ええ⁇)
最後の最後で、どんなパフォーマンスにも勝る衝撃ミステリーが吹雪を待っていた。もはやホラーの領域か。
アレが果たして単なる音大生ジョークだったのか、若干パーセンテージを盛られた実話なのか、まさかのオール・ノンフィクションなのか。田舎の男子高校生には到底判断付かない。
もしや師匠にする男を間違えてしまっただろうか。
なんにせよ、菜穂子に詠人と引き合わせてもらったおかげで、吹雪はようやく音大受験するための土台を整えることが叶ったのである。
菜穂子の言う通り、あとは練習あるのみだ。それがサクソフォン・ソロであろうと、吹奏楽の大編成アンサンブルだろうと。
月日は流れ、六月の定期演奏会、七月の一学期終業式、そして夏休みに突入して早々に駆り出された夏コン西三河南地区予選大会。
「じゃ、今日の合奏はここまで」
「ありがとうございました‼︎」
その地区大会に出場した翌日。
今日も音楽室は管楽器と高校生の群れで暑苦しく、吹雪が
「先に楽器片付けてきなさい、慌てなくて良いから。片付けたら進路相談室へおいで」
声をかけてきた水崎先生は普段通り物腰柔らかな態度だったが、集合が職員室ではなく進路相談室という点がやけに引っかかった。そんなの音大志望と打ち明けた春休み以来じゃないか。
県大会進出が決まったばかりで、部内の雰囲気もいっそう引き締まっている最中に呼び出し……。普段から部活動内外で奇行が目立つ吹雪でもさすがに萎縮する。
「まあたなんかやらかしたね、吹雪」
脇で聞いていたらしい
「な、何を」
「さあ? 期末テストが悪かったとか?」
「いつの話だよ。そんなに悪くなかったし……ていうかもう夏休みだぞ」
「じゃ、合奏中の体の揺らし過ぎだ」
「そっそれは! 今頑張って直してる……つもりで」
「つもりかよ」
中本は鼻で笑った。口角も少し吊り上がっている。
地区大会から県大会までのインターバルはあまり無い。仮に中本の勘が当たったのだとしたら、演奏中に過度に体を揺らしてしまう癖が一週間でどれほど直せるか。
あらぬ心配を募らせ、吹雪はそそくさとアルトサクソフォンを楽器ケースにしまった。きっと来月のお盆明けには詠人先生のサインがケースに書かれているだろう。
(菜穂子先輩と……いつかは翼先輩にも貰いたいな。サインあるか分かんないけど)
足取り軽やかに、心には一抹の不安を残して。
吹雪が進路相談室に入ると、水崎先生は椅子に腰掛け現代文の教科書を読んでいた。職員室を通りすがっても度々目にする光景だ。授業の準備をしているのではなく、水崎先生は暇があれば教科書に載っている文章を趣味で何度も読み返す癖があった。
♫
「あ、あの。お話とは……?」
水崎先生と机を挟み、空いた椅子に座ってから楽器ケースと一緒にリュックサックや荷物の一切を置いてきてしまったことを悔やむ。
手持ち無沙汰に吹雪が挙動不審でいると、水崎先生は静かに教科書を閉じ、机に置いた。
「大した話じゃないよ。
水崎先生はそれほど厳しい性分をしておらず、大声で叱りつけたり生徒にクドクドと説教するような人ではない。
反面、生徒に何か大事なメッセージを送りたい時や厄介ごとを頼みたい時は、なんの前触れもなく突然話を切り出す、どこか次の言動が読めない先生でもあった。
「調子……ですか? ええと、めっちゃ元気です」
そんな水崎先生が、なかなか本題を明かさない。不穏な空気を察し、吹雪は目を逸らした。
「それは分かってるよ」水崎先生は音を立てずに笑う。
「
ああ本当に進路の話だったのかと顔を上げる。中本の勘が外れたことにも安堵しつつ、
「そ、それなんですけど! はい、サックスのレッスンしてもらえることになりました!」
吹雪は饒舌に語り始める。
「へえ、先生見つかったんだ」
「前にうち来た
「へえ、そうかい」
「はい! で、ピアノとソルフェージュも別の先生に教わってて。あ、そっちはもう何回かレッスン行ってて。楽器のレッスンは夏コン終わったら行きます!」
「そうかい。話が順調に進んでるみたいで良かったね」
「ていうか前に行った名古屋の演奏会、めっちゃヤバかったですよ。プロって上手いです、もれなく全員上手いです……曲もどれもヤバくってですね。特に貝羽先生には、最初のレッスンで『
「はは、佐倉くんだって上手に吹いてたでしょう」
吹雪がやや前のめり気味に語り出し、有頂天になっている姿を水崎先生はしばらく落ち着いた様子で眺めていたが、
「じゃあ、受験勉強のほうは自分でどうにかできそうかな?」
確認を取るように問いを投げれば、吹雪はぶんぶんと首を縦に振った。
「大丈夫です。おかげさまで、なんとかなりそうです!」
「いやいや、おかげさまって。僕は何もしてあげられてないから心配してるんだよ」
水崎先生は目尻を下げる。
「うちは普通科だし、音楽科の先生は非常勤しかいらっしゃらないし。美大志望なら
「そ、そうなんですね。それはご心配をおかけしました」
吹雪は慌てて頭を下げてから、期末テストの結果を思い出しつつ水崎先生の顔色を伺った。
「あのう……英語と国語だけはちゃんとやっとけ、って
水崎先生は国語教師だ。
「
「は、はい!」
釘は刺されたものの、思いのほか水崎先生の反応は薄かった。彼が問題を作ったと噂の古文の点数が、少しだけ中間テストよりも悪かったのを吹雪は密かに気に病んでいたのだが。
水崎先生は浅い息を吐く。
もしや話はこれですべてなんじゃないかと吹雪が期待の眼差しを向ける中、水崎先生は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、佐倉くん」
高校教師としての話は終わったが、吹奏楽部顧問としての話はまだ始まってもいなかった。
「吹部は、いつまで続けるのかな?」
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