サクソフォン・スターの光と闇



   ♫



ルチアーノ・ベリオ 作曲

『セクエンツァIXb』


 音列技法セリエリズムと電子音楽の双方に関心を持ったベリオが、半世紀かけて十四作も書き続けていた連作『セクエンツァ』は、正真正銘『独奏ソロ』のために存在する楽譜だ。

 ソロ曲としては、吹雪ふぶきが知るありとあらゆる楽譜の難易度を容易く凌駕した。

 あっちこっちへ音が飛ぶメロディ。指が縦横無尽にキーを駆け回る姿にはもはやエロスをも感じる。小さな音で出すのが難しいアルトサクソフォンの最低音デーも、素知らぬ顔でppピアニッシモに鳴らされると「すげ……」と思わず声を漏らしてしまう始末で。

 高校生はまず吹かないだろう。音大生でも、並のプレイヤーではなかなか手を出しづらい。それほどに『セクエンツァ』は、選ばれしプレイヤーにしか演奏を許されない次元の音楽を聴衆に見せつけていた。

 何より、当のプレイヤー・詠人えいとは随分楽しそうに超絶技巧を吹き鳴らしている。

 吹き慣れている、、、、、、、──とも直感的に。


(こんなのソロコンで吹いたらどうなるんだろ)

 吹雪は来たる来年冬の、自分がステージに立っている姿を想像した。

 他の出場者がミヨーとかピアソラとか『チャールダッシュ』とか演奏している中、いきなり「ベリオの『セクエンツァ』やります」なんて言い始めれば、会場はしばらく騒然となるんじゃなかろうか。

(い、いや! ベリオよりナオコしか勝たん……!)

 詠人の演奏が終わらないうちから、吹雪へ熱い視線を送られていたことに果たして菜穂子なおこは気付いただろうか。

「ブラボー!」

 本日三回目の歓声が飛び出す。

 詠人はどれほど聴衆から熱い拍手を送られようと、甘いマスクを崩さず涼しげな様子で微笑み、二度ほど辞儀をするなりすたすたと舞台袖へ消えていった。去り際までスマートだ。



 ──『ピアノ協奏曲』に続き、サクソフォンの無伴奏ソロでここまで盛り上がってしまうと、プログラム最後はやや蛇足かもしれない。

 マリンバ二台が向かい合い、ホールにこもった熱気を落ち着かせるように、ポコリポコリと柔らかな響きをマレットで紡いだ。


スティーヴ・ライヒ 作曲

『Nagoya Marimbas』


 ヨーロッパではなくアメリカが発端となったミニマル・ミュージック。

 その先駆者が一人・ライヒの中でも名古屋Nagoyaにちなんだ楽曲がチョイスされたのは、この定期公演も『新しいNouveau集団Groupe』も名古屋で生まれたからであろう。

 翼が書き下ろした新作が名古屋駅やメシアンと絡めてあるのも、今回のプログラムに合わせて考案された内容だ。

 音列技法セリエリズムの普及と電子音楽の発達は、ほとんど同時期に、それも同じような顔ぶれで進められた。メシアンにベリオ、ヤコブにライヒ。今なお受け継がれ演奏され続けているような音楽を世に残した彼らは、みなが時代の最先端を行っていた音楽家でもあったのである。


「こういう奴らが音楽の教科書に載るんだよ、っていうかメシアン、ライヒあたりはもう載ってる」

 演奏会が終わるなり、菜穂子は吹雪の耳へ唇を寄せて囁いた。

「お前も音楽家年表に載りたかったら、こういう音楽と関われるような実力を付けな」

「か……貝羽かいばさんは教科書載るレベルですか? 訳わかんないくらい上手いです」

「どうかな。上手いのは確かだけど」

 吹雪が心臓をうるさくさせたのは、目撃した音楽のせいか菜穂子のせいか。

「『新しいNouveau集団Groupe』は、名古屋発の現代音楽家グループとしていずれ有名になるかも」

 つばさはすでに客席を立ち、二人の元を離れていた。何度もブラボーと叫んでいた中年の男に話しかけられ、笑顔で応対しているうちに、図らずとも客や演奏家たちが作った音楽の輪へ飲まれていったのだ。

「……えっと」吹雪はそんな輪を指さして、「先輩は行かなくて大丈夫なんですか?」

 菜穂子は急にむすりと表情を固くする。

「ああいうの嫌い」

「ええ? き、嫌いって……」

「もうちょっと人が減ってから行こ。特に貝羽さんのファンは厄介なんだよ」

 ああそうか、と吹雪は忘れかけていた自分の目的を思い出す。

 トイレを口実に一旦菜穂子から離れ、客席を出てロビーを覗いてみる。詠人はとても背高で、サクソフォンを持たずとも居ればすぐに見付かるほど目立っていた。

(え、女の人がいっぱい! あんなにお客さん居たっけ……)

 爽やかな笑顔を振りまく詠人をぐると囲むように、若そうな女性からザ・奥様みたいな風貌の女性まで。菜穂子があの光景に何を言わんとしたのか薄々察しつつ、吹雪はそっと客席へ引き返した。

(僕、これから本当にあの人からサックス教わるのか……)

 翼はいまだに客席をうろつきながら、色々な輪に混ざって談笑している。こちらはおじさんとかお年寄りとか、いかにも音楽マニアっぽいゴロツキが多く群がっていた。

 同じ茶髪のヴィジュアル・チャラ男でも、詠人は女性受け、翼はオタク受けといった様子。どうも現代音楽のコンサートは、クラシック音楽ともまた違う客層があるらしい。

 吹雪が戻ってきても、菜穂子は仏頂面でしばらくスマホを弄っていた。本当にあの輪には混ざる気配がない。


 吹雪は不思議で不思議で仕方がなかった。

 菜穂子自身はこんなにも群れを嫌う一匹狼みたいな雰囲気を醸し出しているのに、どうして菜穂子を取り巻く男たちは、陽キャというかパリピというか、彼女とあまりに対照的なキャラをしているのだろう。



   ♫



(花村先生は普通に面倒見良さそうな、、、、、、、、おばさんだったけど……)

 何十分待たされたことやら、ようやく客のざわめきが減りかけた頃合いに菜穂子は立ち上がった。

「まあ、そろそろ行くか」

 ぐんと吹雪の背中に緊張が走る。あのサクソフォン・スターと直接会って話すばかりか、初対面でいきなり弟子入り志願しなければならないとは。

「……何?」

 背中へぴたりとひっつくような距離で、菜穂子の後ろを付いていこうとするとすぐに鬱陶しがられてしまう。

「お前どうせ人見知りするタイプじゃないだろ? ビビり過ぎでしょ」

「だって相手はプロだし……イケメンだし……ていうか断られるかもだし……」

「大丈夫だって。もう話はなんとなく通しておいたから」

 詠人はロビーのさっきとほとんど同じような場所に立っていた。まだ何人かファンらしき客は残っていたが、

「……ああ、菜穂子ちゃん」

 二人の姿に気が付くと、詠人はさらりと人だかりを躱し輪を避け、自ら余裕ある足取りで歩み寄ってくる。

 間近で拝むサクソフォン・スターは楽器を持たずして顔が良い。鼻が高く眉毛は長く、タレ目がちの涙袋にホクロというおまけ付きだ。

「来てくれてありがとう」

「どうも」

 菜穂子と向かい合えば、ボサボサ頭でぐぐんと見上げなければならないほどに背高でありながら、女性さながらの華奢なスーツ姿に男の吹雪でも惚れ惚れしてしまう。ひとたび口を開いても、甘いマスク相応の白湯さゆに黒砂糖を溶かしたみたいな声が脳を揺さぶってくる。

 世の中には──いや名古屋にも、こんな少女漫画さながらの男前が存在するのか。愛知県も案外広いものだ。



「『セクエンツァ』どうだった? 三月の初出しの時よりかはリズムにノれてたんじゃないかと思うけど」

「どうですかね。前のほうがディナーミクのメリハリが効いてた気がしますけど」

「ああそう? ……でも」

 やはり、あの超絶技巧を演奏したのは今晩が初めてではなかったようだ。あんな超弩級難関曲をレパートリーにできたならもう無敵じゃないかと、吹雪が感心しきっていると詠人はおもむろに口ずさんだ。

菜穂子ちゃんはこっちのほうが好き、、、、、、、、、、、、、、、、でしょ?」

「はあ、まあ」


 ──なんだ、その口説き文句は?


 菜穂子は表情ひとつ変えず曖昧な返事しかしなかったが、後ろで会話を聞いていた吹雪は危うく気を失うところだった。

「いや、俺もそろそろCDアルバム出そうと思ってて。レパートリー厳選しながら録音映えする演奏を色々試してるとこなんだよ」

 詠人は翼みたいに、人前で馴れ馴れしくボディタッチしてきたりはしない。しかし代わりに惜しげもなく、聞く人が聞けば失神しかねない甘い声を連ねた。

「菜穂子ちゃんもまた新しい曲書いてよ。アルバム用の。早めに書いてくれれば次の公演とかでもやれるし」

「……また私ですか?」

 菜穂子は怪訝そうに首を傾ける。

「前のやつじゃダメですか」

「うん、ダメ」

 詠人は悪びれもせず、きっぱりと断じた。

「次は楽音がくおんで書いて欲しいな。あれ吹くくらいなら別にベリオで良いじゃん。俺は結構気持ち良く吹かせてもらったけど、俺じゃなくても誰でもやれるし、なんたって図形楽譜じゃあ菜穂子ちゃんの音楽性が出てこないよ」

「……はあ。そうですか」

 菜穂子は適当に頷いていたが、はたで聞いていた吹雪は唖然とした。

 どこから突っ込めば良いのやら。あの菜穂子にこうもはっきりと楽譜に注文付けたこと?

 あるいは吹雪が大苦戦した『NowIs』を、しれっと「誰にでも吹ける」と言ったこと?

 事あるごとに悪態ばかりついているはずの菜穂子が、詠人と喋り出してから急に口数減ったのも非常に気がかりだ。


「で、例の高校生ってその子?」

 プロの音楽家という人種が怖いのか、実は目前の優男っぽい詠人が怖いのか、

佐倉さくら吹雪くん?」

 微笑んだまま視線を向けられ、名指しまでされてしまうと吹雪は口を開けなくなった。

「良い名前だよね、桜吹雪、、、って。もちろん本名でしょ? 覚えやすくて耳障り良くて、芸名としても普通に優れてるよ」

「……え、あ」

「このクソガキ、夏休みまではレッスン受けられないとか抜かすんですよ」

 吹雪が黙りこくっている間に、菜穂子のドギツさまで復活してしまう。

「お盆前くらいまでは吹部の夏コンがあって、来月は、なんだっけ、定期演奏会? 二年なんだからもうちょっと焦ろって私は言ってるんですけど……」

「ああ、吹部やってるんだ。良いよね吹奏楽。俺も名高めいこうでは吹部やってたし。まあ普通科だから途中で辞めたけど、、、、、、、、

 詠人の柔らかな表情は崩れなかった。ただし放つ言葉には時々、妙に勘ぐりたくなる含蓄が込められていたが。

「ピアノとソルフェはもう別の先生に見てもらってるんで。とにかく楽器だけ、面倒見てもらえたらって思うんですけど……」

「うん、良いよ」

 二つ返事だった。

 通っている高校はどこか、そもそも楽器を始めて期間はどのくらいか、他にピアノや何かを習っていたことがあるか、部活ではどんな成果を上げているのか。

 そういった面接じみた問答さえすっ飛ばし、詠人は拍子抜けするほどあっさりと了承した。

「夏コン終わってからね。多くて隔週、最低でも月一って感じで良いかな?」

「は……はい! よろしくお願いします!」

 どうにか声を振り絞った吹雪が、深々と礼をする。顔を上げても詠人は涼しげにしていた。

睦ヶ峰むつがみねが第一でしょ? 焦らなくても全然間に合うよ。まあ受からなかったら浪人すれば良いだけで──」

「で、できれば現役で受かりたいです!」

「ああそう? じゃ、とりあえず英語と国語の勉強は真面目にやっとくと良いよ。俺、一度目は実技じゃなくてセンター試験で落とされたんだよね」

「今はセンターじゃなくて共通テストですよ、貝羽さん」

「ああそうだっけ? いや、受験事情も少し見ないうちに変わったなあ。ははは」

「はは……」

 吹雪は愛想笑いを浮かべながらも少しだけ不安がった。本当にこの人に弟子入りして大丈夫だろうか。個人レッスンを引き受けたのは単なる仕事であって、自分みたいな地元の冴えない高校生になど、この段階では微塵も関心を持っていないのではないか。

 そんな吹雪の懸念はあながち間違いではなかったが、今を生きるプロの演奏家には、彼なりの審美眼──人を見る目というやつが備わっているらしい。



「あの、もし睦ヶ峰むつがみね受からなそうだと思ったらすぐクビにして良いんで」

「ええ⁉︎」

 菜穂子のとんでもない発言に吹雪は目ん玉をひん剥きかける。

「先輩、もしかして受からないと思ってます?」

「知らないよ、楽器は専門じゃないって言ったでしょ。でも貝羽さんはめちゃくちゃ忙しい人なんだから、合格が絶望的なやつに時間割いてらんないじゃん」

「ええ〜⁉︎」

 紹介しておいてあまりに容赦無さ過ぎる、と吹雪が菜穂子へ苦情を言いかけるも、

「ははは。まあ大丈夫でしょ」

 容赦が無かったのは詠人も同じだ。いや吹雪以上に。


「少なくとも下手ではないよね? あの菜穂子ちゃんの紹介なんだから、、、、、、、、、、、、、、、、、さ」


「……はあ。いや、どの私ですか」

 優しい目つきで静かな圧力を受け、菜穂子の生返事を装った声がかすかに震えた。

 吹雪よりもむしろ菜穂子を挑発するような、下手だったら承知しないと半分脅しつけているような、今日一番のドギツイ台詞を吐いた。

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