サクソフォン・スター
「あ〜もったいね〜」
「主催的にも、今回は特に力入ってた公演だろうに。
改めてホールを見渡しても、やはり集客は思わしくなさそうだ。
「ええと、今日は他にも名古屋で演奏会が……?」
「まーね。うちの大学で授業やってるオーケストラの定期演奏会も毎年この時期で……つーか、学ランくんはよくこんなコアな演奏会に来たね?」
「な、
「……せめて作曲科連中はこっち来いよ。どうでも良いだろ、ブラームスの交響曲なんか」
バッハ、ベートーヴェンと並ぶクラシック界の『3
「今年は
「触んなって」
翼が頭を撫でようとしてくるのを菜穂子は拒んだ。吹雪はきゅうと唇を引き結ぶ。
(先輩……そんなにこの人と仲が良いのかな)
嫌な予感が頭をよぎる。
ただの同級生、作曲仲間、友達と変わらない距離感……。本当にそうだろうか。
(ま、さか……実は付き合ってる、とか……)
どれほど気になろうと、吹雪には二人の関係を掘り下げるだけの度胸がない。そもそも菜穂子のプライベートに介入できるだけの立場を持ち合わせていない。
吹雪はまだ、菜穂子と同じ学び舎で暮らせるような──同じ音を奏でられるほどの土俵にも立てていない身分なのだ。
「お前に用は無いよ翼。去年は私が
「はいはい」
「何ニヤついてんの? ウザ。……おい、吹雪」
げんなりした顔を続けながらも、菜穂子は翼に構うのを止めた。すっかり静かになってしまった吹雪へ念を押す。
「ラウタヴァーラを気に入るのは勝手だけど、お前が真面目に聴かなきゃいけないのは次だからね」
「! は、はい!」
我に返った吹雪が返事する間も、菜穂子は仏頂面でプログラムをめくっている。後半はいよいよ吹雪の最大のお目当て、サクソフォン・貝羽
これから吹雪が個人レッスンを受けるであろう、サクソフォンの『師匠』候補筆頭。
「前見せた図形楽譜は、去年の公演で貝羽さんが初演したんだからさ」
「そうなんですか? へー……? え? でも、去年って……」
吹雪はまじまじと菜穂子を見る。
「先輩、まだ一年生ですよね? え? 演奏会があったのも五月とか六月とかで……じゃあ、あの楽譜を書いたのって……」
「高三の春休みだろ?」代わりに答えたのは翼だ。「
意味が分からない、と吹雪はまばたきを繰り返した。
入学をも待たずしてプロの演奏家に曲を書いて欲しいと頼まれる大学生っていったい……。
「ま、ナオせんせーはエリートだから」
「……別に」
「いやいや、高校ん時から作曲コンクールでばんばん賞獲ってたじゃん。俺も
翼に褒められると、菜穂子はむしろ迷惑そうに顔を歪ませた。
プログラム後半開始のブザー音を背景に、姿勢良く座り直した翼はぼんやりと、ちくりと痛むくらいの言葉の棘を菜穂子へ刺した。吹雪には聞こえないくらいの
「最初から東京芸大行っときゃ良かったのにさ」
♫
貝羽詠人が、テナーサクソフォンを片手にステージへ上がってくる。
心なしか演奏する前の拍手はこれまでで一番大きいような。イケメンにしか出せないピカピカのオーラが早くも聴衆を虜にしているというのか。
菜穂子が作曲エリートなら、詠人は根っからのサクソフォン・スターか。
(やっぱり銀も良いな……)
吹雪はずっと、チラシの写真を見た時からその銀色が気になっていた。写真で持っていたのはアルトだが、まさかテナーも銀色だったとは。
サクソフォンといえば金色だとなんとなく思っていたし、たまたま十円玉と同じ色をした銅の楽器なら楽器屋で見かけたことがあるけれど、改めて銀色を直に拝めば照明でいっそうピカピカに輝いている。
(次新しいの買うなら銀かな。金銀銅の三色揃えて、家でサックス・オリンピックの表彰台を作るんだ)
吹雪の些細ながらもスケール大きめな夢だ。
ついこの春に両親から
ヤコブ・テル・ヴェルデュイ 作曲
『GRAB IT!』
やはり、スピーカーからサクソフォンとは別の音楽が流れてくる。
(人の声? 英語? なんか喋ってる……?)
吹雪は懸命に耳を澄ませた。一聴すれば外人の話し声でしかなく、カセットテープで録音したみたいな絶妙な音質の古さを感じる。
そんな吹雪の勘は当たっていた。スピーカーで流れているのは、アメリカのドキュメンタリ―映画の中で登場する受刑者たちが、刑務所生活の実態をリサーチしに訪れた未成年へ向けて語り聞かせている生の声。
人の声が、サクソフォンの音楽とシンクロする──アンサンブルしている。
欧米のポップなリズム感と、現代音楽らしいアヴァンギャルドな響きが、次第に吹雪をストリート・チルドレンへ変身したような気分にさせた。
音楽──あるいは
スピーカーがハウリングを起こしているのではなく、サクソフォンが意図的にノイズを発する場面に何度も行き遭った。
(なんだ? リードミス……じゃないな。どうやって出してるんだ⁉︎)
うっかりでも偶然でも鳴らなさそうな音に、吹雪は危うく身を乗り出しかける。
どこからが演出で、楽譜通りの演奏で、予定されていたパフォーマンスなのか。
初めは派手な髪や楽器の色に惑わされていた吹雪が、いつしか詠人の一挙手一投足に、なんでもないような顔で出す新しい音に夢中となっていた。
演奏が終わった瞬間、ホール全体の照明が落とされる。
わっと拍手が沸き立つ中でしばらく暗闇は続き、次に照明が上がると詠人はアルトサクソフォンに持ち替えていた。
聴衆に休む暇など与えない。サクソフォン・スターの独壇場だ。
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