電子音楽の世界
♫
一人目のピアニストが退場してまもなく、もう一人の女性ピアニストが真っ白なドレスをまとい姿を現した。
先方がスレンダーで控えめな風貌だっただけに、ソリストらしい絢爛な装いでピアノ椅子へ腰掛ければ、こじんまりしていてどこか閉塞感のあったホールが途端に華やかさを取り戻す。
エイノユハニ・ラウタヴァーラ 作曲
『ピアノ協奏曲第一番』
ピアノ・ソロで始まる第一楽章。
今やフィンランドの現代作曲家としては圧倒的な知名度を誇るラウタヴァーラが、当時流行真っ只中にありながら早くも限界を迎えつつあった、
凝縮された不協和音が遥か高みで降り注ぎ、圧巻のアルペジオが空へ昇っていくように客席を荒波へと
だが、この空間にパンデミックを起こそうと目論む
ステージ上に『
それでも確かに、甲高い弦楽器の不協和音が天井でぐわんぐわんと鳴り響いた。
瞬間、吹雪はすべてを理解する──この空間でソリストの『伴奏』をするべきオーケストラは、もとより
(そんなのアリなんだ……⁉︎)
こことは異なる日時、異なる会場で収録されたのであろうオーケストラ伴奏。
コロナ禍で急激に普及し開拓された『
聴衆たちはいつのまにか幻想の世界に佇んでいた。掛け値なしに、今この場でしか体感できない音楽がここにはある。
もっとも、楽章の構成など曲そのものは前衛的どころか古風でさえある。
第一楽章『Con grandezza』は冒頭の『
第二楽章『Andante』も
しかし音の切れ目なく続く第三楽章『Molto vivace』では、静観していたオーケストラもソリストの奏でる音楽とより直接的な関わりを求められる。今まではどことなく『
ソナタ、バラード、ダンスの三つからなる協奏曲……。やはり古典的だ。
曲の構造が
「ブラボー!」
演奏が終わった瞬間、翼の初演と同じく中年の歓声が飛んでくる。プログラム前半で一番大きな拍手がホールを席巻し、純白のドレスが幾度も会釈するたび、ステージでフリルをモンシロチョウがごとく閃いた。
客席はすでに、大トリを迎えたような最高潮に飲まれつつあった。
♫
ホールでは十五分休憩のアナウンスが流れているが、吹雪の耳にはもはや届かない。
「今の曲、超やばいです」
興奮冷め止まない表情で、吹雪は
「やばいです。もっかい、いや何度でも聴きたいです。ていうか僕がやりたいです。こんなカッケえ曲が世の中にあるんですね!」
「あっそ。まあ北欧はだいたいカッコいいからね」
「サックス協奏曲とか書いてくださいよ先輩! スピーカーでぐわんぐわん伴奏聴きながらソロ吹くの、絶対楽しいですよね⁉︎」
「今のやつ準備がかなり大変だよ〜? 学ランくん」
けらけらと笑い飛ばしたのは
「オケはこれ、がっつり生演奏だからね? メンツ揃えて練習して合わせて録音」
「いつ録音したの?」菜穂子も両腕組んだまま翼へ視線を移す。
「人集めるのたいへんだったでしょ」
「俺が春休みにお願いしたんだぜ」
翼はにやりと得意げな笑みをこぼす。
「四月に作曲科の先輩たちの学内演奏会があっただろ? オケの曲もあったじゃん。ついでにラウタヴァーラと、俺のやつも録音してもらっちゃった」
「いつのまに……相変わらず図々しい奴」
「要領が良いと言いたまえ」
嫌味を垂れながらも、菜穂子は少しだけ羨ましそうだ。吹雪は二人の会話がよく分からないと言いたげに首を傾げる。
「えっと……翼先輩の……曲? ですか? あれって……」
「途中でオケの音も流れてきたっしょ? あれも
「ええ……すっげ、あんなムズそーな曲を……」
「『オンド・マルトノ』のパートも聞こえたじゃん」
吹雪と菜穂子が関心を向いている先は微妙に違うらしい。菜穂子は北欧のラウタヴァーラよりも東洋の翼が気になっていたようで、
「
聞き慣れない単語に、またも吹雪の脳内変換をバグらせた。
「え、どんな音頭ですか?」
「楽器な」翼がすかさず誤変換を正してくれる。
「一言で言えば楽器界の絶滅危惧種」
『トゥーランガリラ交響曲』はメシアンの代表曲としても真っ先に名が上がるほど有名であったが、それ以上に『オンド・マルトノ』が用いられる数少ないレパートリーのひとつとして呼び声高い。
「あれも生演奏? まさか
「さすがに無理。
「は? 音源とか売ってんの? テルミンあたりで代用した? それか自作?」
ちなみに
「へっへ」翼はもったいぶった様子で、「持ってるんだな〜これが!」
菜穂子は翼を凝視しあんぐりと口を開けた。わずかに腰を浮かし、
「……まじ?」
「まじ。ま、持ってたのはたまたまだけど。中学んときに音源買い漁ってた中に偶然ね。今は販売終わっちゃってて」
「やっば……この金持ちめ……」
「経済力よか、中坊の身分でオンド・マルトノの音源持ってる俺にびっくりしてくんない?」
「じゅうぶん驚いてるっつの。今度
「いいけど、ナオって
「うっさい、『
「…………」
吹雪はその場でうつむき沈黙した。二人の崇高な会話に、まったく付いていけない。
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